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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第76話:白百合の歩幅、侍女の第三手 【ミナ】

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人を殺す距離と、人に手を添える距離は、よく似ている。


喉を裂ける間合い。

手首を落とせる角度。

半歩だけ踏み込めば、もう相手の呼吸まで奪える位置。


侍女だった頃の私は、それとほとんど同じ距離で、シオン様の袖を直し、階段の裾を拾い、夜更けに寝台へ水差しを置いていた。


だから、いまの自分がどちらをしようとしているのか、一瞬だけ分からなくなった。


斬るのか。

支えるのか。

奪い返すのか。

それとも、まだ寝かせておくのか。


黒土の上は、見た目よりずっと静かだった。

周りでは槍が鳴り、柄が打ち合い、鱗の大男と白い騎士が押し合っているというのに、肝心の輪の上だけは妙に音が丸い。

誰かが大声を出しても、一拍遅れて土に吸われる。

叫びがそのまま届かない。

それが、この場を余計に危うくしていた。


叫んでも届かないなら、届くのは癖だけだ。

昔から染みついた呼び方や、歩幅や、手つきだけが先に届く。


だから、さっきの一声は失敗だった。


「お嬢様」


あれは私の喉が勝手に選んだ。

地下宮殿が崩れた日からずっと喉の奥に刺さったままだった名残が、目の前の小さな銀髪を見た瞬間にこぼれただけだ。

だが、こぼれたものは戻らない。


あの子の黒い翼が震えた。

左目の闇が、はっきり私を見た。

同時に、帯のぬめりがひどく細くなった。


あれは喜びではない。

偏りだ。


私が呼んだのは、三つ重なった器のうちの一つだけだった。

会いたかった相手に届いた代わりに、ほかの二つを押しのけかけた。

そのことが、どうしようもなく腹立たしかった。


会いたかったのは本当だ。

奪い返したかったのも本当だ。

それでも、あの子をシオン様だけにしてしまったら、私はまた侍女として失敗する。


主の寝床へ土足で踏み込む侍女などいない。

目を覚ましかけた主人の頬を引っぱたく侍女もいない。

起こすなら、起こす順番がある。

眠らせるなら、眠らせる手順がある。


私は浅く息を吐いた。

右手の短剣は下げない。

だが、刃先はもう中央へ向けない。


代わりに左の掌をひらき、握り込んでいた白百合めいた欠片を黒土へ近づける。

冷たい。

冷たいくせに、その内側には泥に似たぬめりがあった。

欠片の芯が、あの子の黒い翼に呼応するみたいに、ごく弱く震える。


追跡に使っていた時とは違う。

いまは、向こうが逃げた筋ではなく、ここでまだ裂けずに済む筋が分かる。


中央はだめだ。

あそこは欲の形が強すぎる。

行けば、誰か一人の願いだけが通る。


外もだめだ。

死塩と光の布で冷やされた縁へ落ちれば、器ごと固まる。


残るのは、その間の細い輪。

ひとりぶんの中心になりきらない、保留の帯。


なるほど、と私は思った。

黒土教は嫌いだ。

嫌いだが、寝かせ方だけは知っているらしい。

熱のある子供をいきなり氷水へ突っ込まないように、壊れた器をいきなり真ん中へ寝かせない。

まず、熱が逃げすぎない場所へ移す。

そこで息が揃うのを待つ。


ならば、いま私がやるべきことは斬ることでも、名前を呼び続けることでもない。


侍ることだ。


その答えが胸へ落ちた瞬間、ひどく昔の夜を思い出した。

まだシオン様が聖女などと呼ばれる前、黒土の祭壇裏の薄暗い小部屋で、眠れないまま毛布を握っていた頃のことだ。

あの人は泣きそうな時ほど「何でもありません」と言った。

だから私は、何があったのかは聞かなかった。

代わりに、燭台を一つ消して、水差しを右手側へ置き、寝台の縁から半歩だけ下がって立った。


「お休みになるなら、こちらです」


その一言だけでいい夜があった。

主従の呼び方より、何を選ばせるかの方が大事な夜が。


いまの私は、ようやくそれを思い出した。


左から風を切る音。

教会側の若い助祭が、半泣きの顔で死塩袋を投げる構えに入っていた。

外へ撒くつもりなのだろうが、焦りで手首が内へ入っている。

あれでは帯へかかる。


考えるより先に身体が動いた。

私は黒土を蹴らず、その外をなぞるように半歩だけ滑る。

短剣の腹で袋の口を払った。


乾いた破裂音。

白い粉が宙へ咲き、帯の外側だけへ流れる。


「何を……!」

助祭が青ざめる。


「そこへ落とせば裂けます」

私は目も向けずに言った。

「手元も見えないなら、袋を持つな」


彼は反射で怒鳴り返しかけ、すぐに言葉を呑み込んだ。

代わりに、北東から低い声が飛ぶ。


「追跡者」


執行司祭。

黒土へ深く入りすぎないよう足を止めたまま、長柄だけでこちらの線を測っている。

目が合った。


あの男は、いま何を守っているのかをもう理解している目だった。

教義でも異端審問でもなく、ただこの輪を切らないことだけを。

それが気に食わない。

気に食わないが、利用はできる。


「次にそこへ塩を入れたら」

私は執行司祭へ向けて言った。

「あなたの部下から先に落とします」


「脅しの形が妙だな」

男は冷えた声で返す。

「娘を奪いに来た者の言葉には聞こえない」


「奪うために壊すほど、飢えてはいません」

私は刃を下げたまま、答えた。

「あなたこそ、もう分かっているのでしょう。中央へも外へも落とせない」


男の目が、ほんのわずかだけ細くなる。

肯定も否定もしない。

だが、それで十分だった。

この場では、黙っていることが一番はっきりした合図になる。


西から、また小さな脈が返る。


どくん。


あの子が輪の上を一歩進んだのだ。

銀髪が揺れる。

焼けた剣を抱えた泥街の少年が、歯を食いしばってその半歩後ろを追う。

さらに外で鱗の大男が槍をかけ、白い騎士が柄でそれをずらしている。

全員がそれぞれの理屈で動いているのに、結果だけはまだ一本の線へ集まっていた。


なら、その線へ私も入ればいい。

斬り込むのではなく、歩幅を合わせるために。


私は黒土へ完全には乗らず、帯の外縁ぎりぎりを平行に進み始めた。

左手の欠片を低くかざし、土のぬるさが厚いところ、薄いところを拾っていく。

熱の分布は、寝息みたいにむらがあった。

浅いところへ踏み込めば、すぐに冷える。

深いところへ寄りすぎれば、中央の引きが強くなる。


歩く、というより、侍る時の歩幅だった。

主人を追い越さず、半歩下がりすぎず、いつでも裾へ手が届く位置。


そうして並んでみて、初めて分かった。

あの子は本当に小さい。

地下宮殿で見上げていたシオン様とは違う。

聖女の姿でもない。

英雄でも、魔王でも、私が侍女として知っていたどの輪郭とも違う。


それでも、肩の強張り方だけはよく知っていた。

泣くのを我慢する時の震え方。

誰かの前で取り乱すまいとする時の、あの細い硬さ。


胸の奥で何かが折れそうになる。

だが、そこで泣いたら私も偏る。

泣くのはあとだ。

いまは、手順だけを守る。


「……足元を」


喉を整えて、私は小さく言った。

さっきみたいに呼ばない。

主従の形で刺しに行かない。

ただ、暗い回廊を渡る時と同じように、最初に必要なことだけを伝える。


あの子の右の金が、ちらりとこちらを向いた。

左の黒も、遅れて揺れる。


「中央は駄目です」

私はさらに言う。

「でも、外は冷えすぎます。そちらの輪なら、まだ寝ていられる」


返事はなかった。

だが、黒い翼の先がぴくりと跳ねる。

欠片の冷たさが、ほんの少しだけやわらいだ。


通じた。

たぶん、言葉の意味ではない。

選ばせ方が通じた。


その瞬間、泥街の少年が大きくよろめいた。

右腕の灰色が熱を噴き、輪の外へ足が流れかける。

外へ落ちれば、今度こそ終わる。


私は反射で踏み出しかけ、ぎりぎりで止めた。

黒土へ自分の体重を乗せすぎれば、帯がこちらへ引かれる。

代わりに短剣を逆手に持ち替え、外から伸びた教会の長柄の先だけを弾く。

甲高い音。

その反動で槍の軸が内へ寄り、少年の肩を押し返す形になる。


「助けたつもりか」

北東で執行司祭が低く問う。


「線を守っただけです」

私は吐き捨てた。

「あなたも同じことをしたでしょう」


返事はない。

だが、その沈黙は二度目だった。

もう十分だ。

この場では敵味方の名前より、切ってはいけない線を共有できるかの方が重い。


西の風が変わる。

あの子が、こちらへほんの少しだけ顔を向けたのだ。


近い。

思っていたより、ずっと近い。


銀髪の隙間から見える左の黒は、たしかにシオン様へ繋がっている。

だが、右の金は知らない熱を抱えていた。

さらに、その奥には目を閉じたまま世界を見るような、静かな冷たさもある。


三人いる。

本当に。

理屈では知っていた。

卵だの器だの、嫌というほど聞かされてもいた。

それでも、こうして正面の距離で見せつけられると、理解は別物だった。


お帰りなさい、とは言えない。

誰に向けて言えばいいのか、もう一つではない。


だから私は、昔の言葉を少しだけ変えた。


「まだお眠りください」


喉が震えた。

だが、今度の震えはさっきのような偏った喜びではない。

怒りと、悔しさと、やっと届いたという実感をまとめて押し込めた震えだ。


「起こすのは、今ではありません」

私は歩幅を合わせたまま続ける。

「誰か一人だけで起きてはいけない。そんなふうに教えた覚えはありません」


自分でも、何に向けた言葉なのか半分しか分からなかった。

シオン様にか。

あの子の中のほか二人にか。

それとも、自分自身にか。


だが、あの子は止まらなかった。

止まらないまま、輪の上でほんの少しだけ肩の力を抜く。

黒い翼の逆立っていた羽根が、ゆっくり寝る。


どくん。


今までで一番やさしい脈だった。

黒土の輪が狭まらない。

むしろ、私の立つ外縁のぎりぎりまで、薄くぬるさが伸びてくる。


侍女の距離が、許された。


それを理解した瞬間、周りの空気が変わる。

鱗の大男が押し返す角度をわずかに変え、泥街の少年も荒い息のまま輪へ乗り直す。

北東の執行司祭は、何かを言いかけてやめた。

白い騎士も、長柄を差し込む位置を半歩外へずらす。


私一人が許されたのではない。

この場全体が、いまだけ別の手順へ組み替わったのだ。


回収でもない。

奪還でもない。

討伐でもない。


ひどく歪で、ひどく不本意な、護送だ。


私は可笑しくもないのに、少しだけ笑いそうになった。

侍女をやめ、復讐者になったはずの私が、こんなところでまた主人の寝所までの道を整えている。

しかも隣には教会の司祭までいる。

本当に、最悪だ。


けれど最悪だからこそ、いまはこれしかない。


「お嬢様」

今度は小さく、刃に触れない声で呼ぶ。

「右へ半歩です。そこは深い」


返事はない。

ないが、銀髪がわずかに右へ流れる。

泥街の少年がその動きに合わせて足を引き、帯はまた一拍ぶん保たれる。


そのことに、胸の奥が焼けた。


取り戻せたわけではない。

許したわけでもない。

地下宮殿で失ったものも、魔王になってしまったものも、私の中の復讐も、何一つ終わっていない。


それでも。


いまこの瞬間だけは、私は斬るためにここへ来たのではない。

起こして壊すためでもない。


眠れる場所まで、連れていくために来たのだ。


その順番を守れた先にしか、本当の奪還も、本当の断罪もない。

侍女だった私が最後まで捨てきれなかったものは、忠誠ではなく、たぶんその順番の方だった。


「そこまでです」

北東から執行司祭の声が飛ぶ。

私へではない。

部下へ向けた制止だ。

帯へ寄りすぎた長柄が、ぴたりと止まる。


私は笑わなかった。

代わりに、刃を低く下げたまま、もう一度だけあの子へ視線を向ける。


左の黒は、まだ私を知っている。

右の金は、まだ警戒を解かない。

その奥の静かな冷たさは、ただ秩序を測るようにこちらを見ていた。


それでいい。

いまは、ひとつだけに返ってこなくていい。


「眠っていてください」


私は最後にそう言って、帯の外縁を並走した。

白百合の欠片はもう追跡の針ではなく、寝所までの歩幅を測る錘になっていた。


復讐は消えていない。

ただ、順番を選び直しただけだ。


侍女の第三手は、主を奪い返す前に、まず壊れない場所まで送り届けることだった。


帝国暦849年。冬。

ミナは、三位一体の少女へ向けた `お嬢様` という呼びかけが、器のうち特にシオン側だけを鋭く揺らしかねないと悟ります。

そのため彼女は `斬る` でも `奪う` でもなく、侍女として培った歩幅と手順で黒土の `安定帯` を並走し、少女を壊さず寝かせるための `第三の手` を選びました。これにより `伏土の窪み` の均衡は、争奪戦から、きわめて危うい一時的な護送局面へとさらに姿を変えたのです。

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