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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第75話:鳴らない指揮、黒土の輪を締める手 【ヘルマン】

ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。

判断が遅い指揮官は兵を死なせる。

判断が早すぎる指揮官は、もっと面倒なものを壊す。


若い頃、北辺の雪渓でそう教わった。

崩れかけた吊り橋を渡る時、先頭に立つ人間に求められるのは勇気ではない。

どの板を捨て、どの板だけは踏ませるかを見極める冷たさだ。


今、私の目の前にあるのは吊り橋ではなく、黒土教の古い揺り籠だ。

しかも渡っているのは、ただの逃亡者ではない。

灰色の剣に焼かれる保持者、奇妙な鱗の戦士、白陽崩れの娘、異様に明るい踊り子、そして中央へ触れかけた「器体」。

そこへさらに、西から白い単独追跡者まで黒土へ足を入れた。


最悪だった。

最悪だが、まだ順番だけは残っている。


「全員、中央を見るな」


私はまずそう命じた。

北東外周へ位置を変えながら、長柄の石突きで黒土の縁を軽く打つ。

ぬるい。

外周の土でさえ、先ほどの脈動の余熱を抱えている。


中央を見れば、引かれる。

そういう場所がある。

神殿でも、墓所でも、戦場でも。

人は意味が強すぎる一点を見つめると、そこへ判断ごと吸われる。

今の伏土の窪みが、まさにそれだった。


黒土の中央は、あの娘が避けた。

避けたということは、そこに何かがある。

そして、その「何か」は、回収手順の優先順位より重い。


ラザルが苛立った声を上げる。

「何を悠長なことを! いま外から詰めれば、三方まとめて」


「黙れ」

私は短く切った。

「まとめて壊す気なら別だがな」


ラザルは言い返しかけ、そこで言葉を飲み込む。

彼も無能ではない。

さきほどの一拍を見たのだ。

娘の指先ひとつで北縁が締まり、保持者の熱がわずかに逃げた瞬間を。

あれを見てなお「ただの異端の凝集体」だと言い張れるほど、現場はもう紙の上にいない。


西縁ではレネが、白い追跡者を牽制するため半歩ずつ間合いを刻んでいる。

東から回ってきたメルは、まだ青い顔のまま死塩袋を抱えていた。

トビアは黒土の縁で鱗の戦士と進路を食い合い、正面からは白陽上がりの娘がその隙を拾おうとしている。


誰も間違っていない。

だから厄介だ。

全員、自分の持ち場で正しい。

その正しさ同士が、いま同じ窪みの中で首を絞め合っている。


「ヘルマン殿」

トビアが押し合いの合間に声を飛ばす。

「中央へ真っ直ぐ通させるのは危険です。だが、止めきるには」


「分かっている」


私は黒土を見た。

いや、中央ではない。

その少し手前、娘の指先がなぞった細い帯を見る。

土の表がわずかに艶を変えている。

中心ほど深くない。

外周ほど冷えてもいない。


古い記録に、似た図があったのを思い出した。

揺り籠型保留地。

臍と、その周りを巡る休み床。

当時は比喩だと思っていた。

異端どもはすぐに器だの腹だのと、生き物めいた言葉で地形を語るからだ。

だが今見ると、比喩ではなく、操作手順だったのかもしれない。


中心は選別。

その一歩手前は保留。


もしそうなら、いま私たちがすべきことは一つだ。

誰にも中心へ飛び込ませず、しかし娘の導いた細い帯からも落とさないこと。


無茶だ。

だが、ほかにない。


「ラザル。北を詰めろ。だが中へ切り込むな」

私は次々に指を振る。

「トビアはそのまま戦士の進路を外へずらせ。真正面から止めるな。押し合って輪へ乗せろ」


「輪?」

メルが掠れた声で繰り返した。


「中央を避けて回る細い帯だ」

私は彼の抱える死塩袋を見た。

「そこへ死塩を落とすな。外だ。さらに半歩外へ撒け。黒土そのものではなく、その外周だけを冷やせ」


「はい……でも、それでは囲いきれません」


「囲いきる必要はない。落とすなと言っている」


メルはまだ完全には理解していない顔だった。

当然だ。

私だって理解しているわけではない。

ただ、理解していないままでも選ばねばならない局面がある。

その時、指揮官は「説明できる正しさ」ではなく、「まだ壊れていない方」を選ぶ。


西で金属音が高く跳ねた。

白い追跡者が、今度は牽制を受け流したらしい。

こちらへ意識を割かれていない動きだ。

目はただ一点、娘だけを見ている。


「あれは教会を斬りに来ていない」

私は低く言った。

「狙いは娘だけだ」


ラザルが鼻を鳴らす。

「ならなおさら切るべきでしょう。先に落とせば」


「駄目だ」


今度は即答だった。


「あの白は、目標を『奪う』気配ではない。『確かめる』気配だ」

私は自分で言いながら、その異様さに気づく。

「確かめる者は、斬る前に近づく。近づければ、中心より厄介だ」


ラザルが眉をひそめる。

彼には私の言葉が、半分しか伝わっていないだろう。

それでもいい。命令として通れば足りる。


「レネ! 白い追跡者の内側を切るな! 外から追え!」

私は声を張った。

「娘と保持者の間へだけは入れるな!」


レネが短く応じる。

だが次の瞬間、西から滑り込んだ白が、黒土の上をほとんど音なく一尺進んだ。

速い。

本当に速い。

戦場で鍛えた速さではない。

長く、誰か一人だけを追うために磨いた速さだ。


私はそこで初めて、あの白を「兵」ではなく「執着」だと理解した。

兵は命令で止まる。

執着は、止まるふりをして次の一歩を盗む。


「ヘルマン殿」

トビアがまた呼ぶ。

今度は声にわずかな焦りが混じっていた。

「戦士が中央ではなく帯へ乗っています。娘の誘導です」


「見えている」


見えていた。

鱗の戦士は力任せに進んでいるようで、実際には娘の小さな手がなぞった線を外していない。

保持者も熱に焼かれながら、その線だけは踏み外さないよう足を運んでいる。

偶然ではない。

あの小さな器は、自分で道を選んでいる。


回収対象、という言葉が急にひどく空疎に思えた。

目の前の存在は、ただ運ばれる器ではない。

選んでいる。

まだ不完全なまま、何を避けるかを自分で決めている。


その事実は、教会の手順書にとって最悪だった。

物は取り上げられる。

人は説得できる。

だが、自分の壊れ方を知って避けている異端は、どちらの欄にも入らない。


「ラザル、構えを変えろ」

私は言う。

「布は下げたまま、柄だけを使え。戦士の肩を押すな。槍の外を叩け」


「妙な戦い方だな」


「妙な相手だからだ」


私は自分でも驚くほど冷静だった。

むしろ冷静すぎるくらいだった。

戦場で一番危ういのは、理解できないものに出会って興奮することだ。

理解できないなら、せめて順番だけは崩すな。


まず、中心へ入れない。

次に、娘と白い追跡者を触れ合わせない。

そのうえで、保持者の熱が切れるまで外周で刻む。


無茶な三条件だ。

だが、無茶を並べてでも、今はその三つを同時に守るしかない。


その時だった。


白い追跡者が、初めてはっきり声を出した。


「……お嬢様」


小さかった。

叫びではない。

黒土の上へ落とすみたいな、低い声だった。


私は息を止めた。


お嬢様。


兵が標的へ向ける呼び方ではない。

信徒が異端へ向ける呼び方でもない。

あれは、長く仕えた相手へ向ける呼び方だ。

しかも、裏切った者ではなく、まだ心の中では従っている相手へ向ける声だ。


黒土の上の娘が、その一言にぴくりと震える。

片翼が半ば開き、保持者の肩へ爪を立てた。

同時に、帯のぬるい艶が少しだけ乱れる。


まずい。


「全員、止まるな!」

私は怒鳴った。

「だが娘を見るな! 見るな、線だけ見ろ!」


命令としては滅茶苦茶だ。

それでも、今この場ではそれが一番近い。

娘の反応へ目を奪われれば、全員がそちらへ寄る。

寄れば、帯を外す。

帯を外せば、中央か外周へ落ちる。

どちらに転んでも壊れる。


トビアが歯を食いしばり、長柄の角度を変える。

ラザルも舌打ちしながら従った。

メルは半泣きの顔で死塩をさらに外へ撒く。

誰も、もうきれいには動いていない。

それでも崩れていないのは、たぶん全員が、ここで何か一つでも余計なことをしたら終わると察しているからだ。


私は長柄を低く構えたまま、一歩だけ黒土へ入った。

外周ではなく、帯のさらに外。

ぬるい。

そこから先へ入れば、たぶん引かれる。

だから入らない。


白い追跡者が、そこで初めて私の方を見た。

さっきまでの視線には、教会も戦士も入っていなかった。

入っていたのは娘だけだ。

だが今は違う。

進路を塞ぐものとして、ようやく私を数に入れた目だった。


細い。

細いが、軽くはない。

剣を振る者の目ではなく、長く誰か一人を見失わないために削られた目だ。


私は長柄の先をさらに下げた。

切るためではなく、線を断つために。

相手も分かっているらしい。

白い影は黒土の上で速度を落とさず、しかし私の穂先だけを避けて円弧を描いた。

最短ではない。

最短より、娘へ届く確率の高い線を選んでいる。


「退け」

私は言った。

「いま触れれば壊れる」


返事はすぐには来なかった。

代わりに、白い刃が低く閃く。

私の長柄ではない。

そのさらに内側、娘へ続く帯の縁だけをかすめる角度。


うまい。

押し返すためではない。

「そこを塞げば自分で輪を切るぞ」と教える刃だ。


私は石突きを返し、刃筋の前へ柄を滑り込ませる。

乾いた音。

重くない。

だが、迷いがまったくない。


「あなたたちに渡すくらいなら」

白い影が、初めてまともな文章で言った。

「壊れる方を選びます」


ぞくりとした。

それは脅しの言い回しではない。

本気でそう決めてきた者の声だ。


「そうならない形へ、私は組み替えている」

と、言い返した自分の声も、我ながら大概だった。

教会の執行司祭が異端の追跡者へ向けて、破壊を避けるための戦術を説明している。

神学も手順書も、この一言だけで鼻で笑うだろう。


だが、白い影は笑わなかった。

代わりに、ほんの一瞬だけ目を細める。

値踏みだ。

この場で自分と同じ種類の厄介さを持つ相手かどうか、測っている。


面倒な女だ、と心の底から思った。

そしてその感想は、たぶん向こうも同じだった。


西の白が、もう一度だけ声を落とす。


「お嬢様。こちらを」


違う。

そう呼ぶな、と、なぜか私は思った。

その呼び方は、今の器には鋭すぎる。

主従の形で呼べば、偏る。

いま黒土の上にいるものは、誰か一人の帰還体ではなく、まだ均衡の上に乗ったままの仮の器なのだから。


だが、その願いを言葉にする前に、娘の口が小さくひらく。


「……まだ」


その一語だけで、黒土の帯がまた細く脈を返した。

中央ではない。

わずかに外れた、保留の輪だけが。


私はそこで確信する。

中心へ通してはならない。

同時に、この輪を切ってもならない。

勝ち筋ではない。延命だ。

だが、延命こそが今は勝ち筋に一番近い。


「トビア! 左へ半歩!」

私は叫ぶ。

「戦士を回せ! 追跡者との直線を切れ!」


「はい!」


「ラザル、前へ出るな! 外から圧をかけ続けろ!」

「チッ、了解!」


「レネ、白を切るな! 足だけ止めろ!」


白い追跡者は、その声の合間にも少しずつ寄ってくる。

恐ろしいほど無駄がない。

あれがもし教会の兵だったなら、私は即座に副官へ引き上げただろう。

だが、あれは兵ではない。

あくまで個人の執着だ。

だからこそ、規格外に厄介だ。


そして私たち教会側も、もはや規格どおりには戦っていない。

白布は止まり、浄化は保留され、指揮の中心にあるのは「正しさ」ではなく「今これ以上壊さないこと」へ変わっている。


鳴らない鐘の任務は、いつの間にか回収戦ではなくなっていた。

私たちはただ、壊れる順番だけを選び直し続けている。


そのことに、嫌になるほどはっきり気づきながら、私はなお次の命令を探していた。


帝国暦849年。冬。

ヘルマンは、三位一体の少女が選んだ `中央の少し手前の安定帯` を現場で見抜き、教会側の作戦を `奪取` ではなく `その輪を切らせないまま外から締める` 方向へ組み替えました。

しかしその最中、ミナが少女へ向けて `お嬢様` と呼びかけたことで、黒土の帯と器の均衡はさらに繊細なものへ変わります。交差点はもはや単なる戦術戦ではなく、誰が誰をどう呼ぶかひとつで器の偏りまで変わりうる、極度に危うい均衡戦へ入ったのです。

感想・ブクマ・評価、どれも本当に励みになっています。ありがとうございます!

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