第73話:綻んだ教義、白布を止める手 【トビア】
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黒土が脈を打った瞬間、私は喉の奥で祈りを忘れた。
どくん。
耳で聞いたのではない。
靴底の裏、膝の骨、握った長柄の先まで、伏土の窪み全体が一拍だけ脈を返してきた。
その中心にいたのは、鱗の戦士と、熱を抱えた剣憑き保持者と、その背から落ちかけた小さな娘だ。
娘の指先が黒土に触れていた。
ただ、それだけだった。
それだけで、崩れかけていた北縁の石が締まり、保持者の右腕にまとわりついていた灰色の荒れが、ほんの一瞬だけ鈍った。
見間違いではない。
私は記録でしか読んだことのない「揺り籠の初期応答」を、今、目の前で見ている。
「今だ! 布を入れろ!」
背後からラザルの声が飛んだ。
反射的に振り返る。
年長騎士はすでに西縁から回り込み、長柄の先に巻いた浄化布を高く構えていた。
ここで器体へ白布を触れさせ、保持者ごと動きを止める。
教会の回収手順としては、まったく正しい。
さっきまでの私も、そう思っていた。
だが今は違う。
「待ってください!」
自分でも驚くほど早く声が出た。
ラザルの腕がわずかに止まる。
「何だ、トビア」
「今、起きています。ここで浄化布を入れたら、揺り籠ごと裂ける可能性がある」
「可能性だろう」
「十分です」
ラザルの目が鋭くなる。
ヘルマンも、窪みの外縁でこちらを見た。
彼はまだ動かない。
動かないまま、私が何を言うかを測っている。
私は黒土の中央に近い娘を指した。
「見てください。触れたのはほんの指先だけだ。それで北縁が締まり、保持者の発熱が一拍逃げた。
つまり今は、器体と保持者が揺り籠の中で暫定的に噛み合いかけています」
「だから何だ」
ラザルは苛立ちを隠さない。
「噛み合いかけている今こそ、動きが鈍る。取るなら今だ」
違う。
そこが違う。
私は口の中で乾いた唾を飲み込んだ。
これを言えば、現場の理屈を一つひっくり返すことになる。
けれど、言わなければもっと悪い。
「今、あの娘は『寝床』へ触れています」
私は言った。
「ここで外から浄化を強く差し込めば、止めるより先に、何を切り離すか分からない。
内部が三重だという前提なら、壊れる時は均等には壊れません」
ヘルマンの眉が、ごくわずかに動いた。
そこだけで十分だった。
彼も理解している。
記録の上では知っていたが、現物を見た瞬間に重みが変わったのだ。
ラザルは舌打ちした。
「では中央まで通せと?」
「通すしかない、とは言っていません」
「同じことだ」
「違う。切る場所を変えるんです」
その時、黒土の中から低い唸り声が上がった。
鱗の戦士だ。
槍を深く突き立て、熱を抱えた保持者と娘を背にかばっている。
正面から見れば、ただの武人だ。
だが今の私は、あの姿の意味を別の角度で見てしまう。
あれは護衛であると同時に、揺り籠が安定するまでの楔だ。
無理に抜けば、背後の二人ごと均衡が倒れる。
西縁で、もうひとつ白い影が揺れた。
細い。
冷たい。
教会の白ではない。
第三の追跡者だ。
あちらも黒土の脈動を見て、動き方を変えたのが分かる。
なら、なおさら今ここで内へ白布を差し込むのは悪手だった。
三方同時に刺激して、最悪の綻びを作るだけだ。
「ヘルマン殿」
私は目を離さずに呼んだ。
「進言します。中央への直接浄化を一時停止。
外周で切り、保持者と器体を黒土の中心から外へ戻させない形へ組み替えるべきです」
ラザルが吐き捨てる。
「囲い直すだと? もう輪は綻んだぞ」
「だからこそ、中央を壊さない輪に変える」
沈黙が落ちる。
その短い沈黙のあいだにも、黒土の上では状況が動く。
保持者は膝をつきかけ、娘の片翼が半ば開き、鱗の戦士は一歩も退かない。
その前方では、白陽上がりらしい娘が進路を測り、西では第三の追跡者が間合いを詰めている。
もう、「教会のやり方」だけで回せる盤面ではない。
「採る」
ヘルマンが低く言った。
「ラザル、布を下げろ。今は入れるな。
レネは西の単独を牽制。切るな、黒土へ踏ませるな。
メルは東を捨てて北へ上がれ。封鎖材を黒土の外周へ回す。中央へは一片も落とすな」
命令が走る。
ラザルの顔が露骨に歪んだ。
だが、従う。現場班がここで割れたら終わると分かっているからだ。
その時、黒土の上の鱗の戦士と目が合った。
近い。
思ったより、ずっと近い。
月明かりの下で見ると、その顔には単純な殺意だけではないものがあった。
守ると決めたものを通すまで退かない顔だ。
理屈ではなく、順番で動く顔。
「お前」
気づけば、私は声を投げていた。
「中央へ何をしに行く」
鱗の戦士は鼻を鳴らす。
「寝床へ寝かせるだけだ」
驚くほど簡潔だった。
だが、その簡潔さが一番厄介だ。
嘘を塗っていない。
本当にそうするつもりなのだと分かる。
「それで済む保証はない」
私は言う。
「今の一拍が、次も同じ形で返るとは限らない」
「知るか」
戦士は槍を少しだけ起こした。
「保証がないから、今やるんだろうが」
胸の奥に、妙な熱が走った。
反論したいのに、少しだけ分かってしまう。
書類の人間なら嫌う答えだ。
だが現場では、保証のある方を選べることの方が珍しい。
それでも、ここで通しきらせるわけにはいかない。
私は長柄を構え直し、黒土の縁へ半歩だけ踏み出した。
ぬるい。
外周ですら、足裏に嫌な脈が残っている。
「中央へは通さない」
私は言った。
「壊さないために、だ」
戦士が牙を剥いた。
「同じ口で囲いもするくせに、よく言う」
「囲うのと壊すのは別です」
「こっちにとっちゃ同じだ」
その通りだった。
だからこそ、言葉では届かない。
西で金属音が跳ねる。
レネが第三の追跡者に牽制を入れたのだろう。
白い細影は黒土の縁を舐めるように移り、まだ中央へ飛び込まない。
待っている。
教会と保護線の最初の崩れを。
ヘルマンが位置を変え、北東の縁から私へ短く言う。
「トビア。押し戻せ。だが、娘の接地を断つな」
無茶だ。
だが、現状では一番正しい。
私は息を整え、長柄の先を低くする。
狙うのは娘でも保持者でもない。
鱗の戦士の槍の外側、進路だけだ。
中央へ通す線を斜めにずらし、黒土の内で横へ逃がす。
奪うのではなく、まっすぐ通させない。
「行くぞ」
私は告げた。
戦士も同時に動いた。
槍と長柄が、黒土の縁で短く噛む。
重い。
真正面から押し切る力だ。
だが、力任せだけではない。娘の指先が土から浮かない角度を、本能で守っている。
だからこちらも、そこへは入れない。
一度、二度。
打ち合いというより、進路の奪い合いだった。
私が外へ押せば、戦士は中央へ寄せる。
中央へ寄せられすぎれば危うい。だが外へ弾けば、今度は西の白い影が刺さってくる。
最悪の綱引きだ。
その時、保持者が喉の奥で浅く呻いた。
灰色の剣がまた明るさを増しかける。
娘の片翼もびくりと跳ねた。
脈動の余波が切れ始めたのだ。
「長くは持ちません!」
私は叫んだ。
誰に向けたのか、自分でも分からない。
ヘルマンへか、鱗の戦士へか、それともこの場そのものへか。
戦士は低く笑った。
「なら、余計に急ぐだけだ」
そして、私の長柄を半歩だけ外へ払い、その隙に保持者の肩を押した。
三人分の重みが、中央へほんの一尺だけ進む。
しまった、と思った時にはもう遅い。
黒土の上に、細い白が差した。
西縁からだ。
第三の追跡者が、ついに動いた。
教会でも、保護線でもない。
もっと個人的で、もっと冷えた刃が、中央を奪うために黒土へ足を入れる。
「レネ!」
私が叫ぶ。
だが白い影は早い。
速さだけなら、この場で一番だ。
月光の下、初めてその横顔が見えた。
白い髪。
冷えた目。
侍女ではなく、もう完全に追跡者の顔。
やはり、お前か。
名を呼ぶ前に、影は黒土の上へ滑り込んだ。
帝国暦849年。冬。
トビアは揺り籠の脈動を目の前で見たことで、ここで浄化布を差し込めば壊れると悟り、教会側の回収手順を `即時奪取` から `中央を壊さない外周制御` へ切り替えざるを得なくなりました。
しかしその再編の最中、ガルドとの真正面の押し合いで中央への進路を完全には止めきれず、ついに西縁から第三の追跡者ミナが黒土へ踏み込みます。交差点は、教会と保護線の二者対立ではなく、三者が同時に中央を奪い合う局面へ入ったのです。
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