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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第72話:鱗で支える黒土、最初の踏み込み 【ガルド】

お読みいただきありがとうございます。毎日20時に更新しています。

細い道は嫌いだ。


踏み抜けば終わるような崖道は、腕の立つ立たぬの話ではない。

運と、重さと、順番だ。

特に今みたいに、熱を抱えた運び屋と、世界で一番厄介な娘をまとめて通す時はな。


「白百合、先を見ろ! 落ちる岩だけ教えろ!」


俺が怒鳴ると、前を行くセリアは振り返らずに手だけ上げた。

細い背だ。

だが、こういう時のあの娘は妙に足が速い。

昔どれだけ嫌な道を走らされてきたのか、考えるだけで腹が立つ。


北縁の古い補修路は、道というより傷跡だった。

崩れた岩棚に半分呑まれ、死塩を吸った石が白く粉を吹いている。

人ひとり通れるかどうかの幅。

下は、黒い。

泥でもなく、水でもなく、夜がそのまま地面へ沈んだみたいな色をした土が、静かに窪みの中央へ広がっていた。


嫌な土だ。

生き物の腹を見ている気分になる。


背後で、カイルが短く息を呑んだ。

俺は振り返らずに、その気配だけで分かる。

あの若造、もうだいぶ限界に近い。

右腕の灰色の剣ごと熱を抱え、足取りは最初から最後までふらつきっぱなしだ。

そのくせ、背の娘だけは絶対に落とすまいと肩に力を入れている。

馬鹿だが、嫌いじゃない。


「倒れるなよ、運び屋」

俺は前を見たまま言った。

「倒れるなら、土の上まで行ってから倒れろ」


「注文が細けえな……」

掠れた返事が返る。


まだ口が利けるなら上出来だ。


背中の娘は、さっきからやけに静かだった。

眠っているようにも見えるが、片翼だけが時々ぴくりと震える。

あの小さい身体の中で、三つの気配が押し合っているのだろう。

背負っているのがひとりの子供なら、もっと単純で済む。

だがこれは違う。

英雄だの、聖女だの、魔王だの、ろくでもない連中の残り火をまとめて抱きかかえた仮の器だ。

軽いくせに、重い。


「ガルド!」


前からセリアの声が飛んだ。

「右、踏むな! そこ、表だけ固い!」


俺は言われた通り左へ体重をずらす。

次の瞬間、右の石が薄く割れた。

音もなく崩れるあたりが気味悪い。

白陽の連中が昔いじった補修路というのは、こういう陰険さがある。


「チッ。嫌な道だ」

「だから言ったでしょ」

「言い方が気に食わん」

「そこは諦めなさい」


軽口を叩いている余裕は、正直もう大してない。

東の方から上がった怒鳴り声で、教会の沈黙は破れている。

つまり、向こうも隠れる段階を終えたということだ。

この細道を抜け切るまでに一手でも遅れれば、後ろから噛まれる。


その時、北縁の上から小石が跳ねた。


来た。


俺は槍を半歩引いて、肩越しに後ろを庇う。

崩れた岩棚の上、白布を巻いた細い影がひとつ、俺たちの進路を覗いた。

白陽騎士団みたいな馬鹿でかい鎧ではない。

布を抑え、音を殺し、まず間合いだけを測る動き。

教会の今の現場班か。

真正面から斬る気配じゃないのが、余計に厄介だった。


「止まれ」

低い男の声が落ちた。

「中へ入るな。そこで止まれば、まだ形を選べる」


形。


ふざけた言い回しだ。

人を囲っておいて、まだ選べるも何もあるか。


「断る」

俺は吐き捨てた。

「こっちは急ぎだ」


影はそれ以上余計なことを言わなかった。

ただ、長柄の先に巻いた白い布を少しだけ持ち上げる。

浄化布だ。

切るためではなく、触れさせて止める気だと分かる。


背中の娘が、そこでびくりと震えた。


『……やだ』


か細い声だった。

だが、その一言でカイルの肩が強ばる。

後ろでリノが舌打ちし、セトが「来るぞ」と短く告げた。


来るなら来い。

だが、ここで足を止めるわけにはいかん。


「セリア! 前を開けろ!」

「やってる!」


俺は槍を逆手に持ち替え、上から 내려てくる白布の先を横へ払った。

軽い。

力比べをする気はない武器だ。

布が鱗へ触れる前に逸らし、同時に肩から岩棚へ体当たりする。

乾いた音がして、古い石がひとつ崩れた。

上の影が半歩だけ引く。

それで十分だった。


「今だ、運び屋!」


カイルが歯を食いしばって前へ出る。

だが三歩目で膝が折れかけた。

熱のせいだけじゃない。

右腕の灰色が、布の下でぎらりと滲んでいる。

返し荷だか何だか知らんが、見てるこっちの胃まで焼けそうな熱だ。


俺は槍を片手で突き立てたまま、空いた腕でカイルの脇を掴んだ。

細い。

細いくせに、中で燃えてやがる。


「放すなよ」

「言われなくても……!」


セリアが前で崩れた石を蹴り落とす。

その先に、黒土の縁が見えた。

あと数歩。

だが、その数歩がやたら遠い。


後ろでセトが叫ぶ。

「ガルド、その石、持たない!」


遅い。

言われるより先に、足の下で道が鳴った。

補修路の白い石が、内側からぱき、と乾いた音を立てる。

崩れる。


だったら、先に踏み込むだけだ。


俺はカイルを前へ突き出すように押し、己の身体を半歩先へねじ込んだ。

右足が、黒い土に沈む。


ぬかるみじゃない。

なのに沈んだ。


冷たいと思った次の瞬間、奥からぬるい。

冬の土のはずなのに、深いところだけが生きているみたいにやわらかい。

鱗の裏へ、じわりと何かが触れる。

掴むでも、弾くでもない。

「そこにいるな」と確かめられたような感触だった。


これが、揺り籠か。


気味の悪さに奥歯を噛んだが、悪くはない。

少なくとも、崩れる岩よりは信じられる。


「来い! 土が持つ!」


俺は黒土へ膝まで踏み込み、カイルの腰を掴んで引いた。

カイルはほとんど転がり込むみたいに縁を越える。

その背で、娘の銀髪がばさりと揺れた。

片翼が半ば開き、夜気を払う。


その時、黒土の上に、小さな手が落ちた。


娘の指先だ。


カイルの肩からずれた拍子に、細い手が俺の胸を掠め、そのまま黒い地面へ触れる。

ただ触れただけ。

掴んでもいない。

押しつけてもいない。


なのに、土が脈を打った。


どくん。


本当に、そう聞こえた。

耳ではなく、足の裏で。

窪み全体が一拍だけ息をし、黒土の表面へ薄い波が走る。

崩れかけていた北縁の石が、ぎり、と逆に締まった。

後ろでセトが息を呑み、セリアが「嘘でしょ」と小さく漏らす。


娘の口が、かすかに開いた。


『……ここ、まだ、あったかい』


誰の声だ。

アレンか、エリスか、シオンか。

いや、三つとも違って聞こえた。

ひとりの子供が、やっと寝床へ触れた時の声だった。


それと同時に、カイルの身体が大きく揺れる。

俺は反射で腕を回し、二人まとめて支えた。

熱い。

だが、さっきまでの刺すような熱とは違う。

少しだけ、土へ逃げた熱だ。

完全に楽になったわけではない。

それでも、剣の暴れ方が一瞬だけ鈍ったのが分かった。


「効いたのか」

セトが後ろから叫ぶ。

「一拍だけだ! まだ押し込め!」


一拍だけで十分だ。

今ほしいのは永遠の安定じゃない。

この場を抜くための、ひと呼吸だ。


上で、また石が鳴る。

白布の騎士が追いつきかけていた。

今度はためらいが薄い。

向こうも見たのだ。

黒土が脈を打った瞬間を。

ここで捕れば、何かが決まると悟った目だ。


そのさらに向こう、西の縁に、白い細身の影が立っていた。

月に削られた刃みたいな白。

第三の追跡者だ。

顔は見えない。

だが、あの冷えた気配は忘れようがない。

教会の白とは違う。

もっと個人的で、もっと執念深い白だ。


チッ。

全員、間に合いやがった。


「ガルド!」

セリアが振り返る。

「中央まで、あと少し!」


少し。

その少しが、今は谷ひとつ分より遠い。


それでも、もう足は黒土に入った。

背後の道は崩れかけ、前には窪みの中央、横には教会、反対には白い追跡者。

なら、進むしかない。


俺は槍を引き抜き、黒土の上へ深く突き立てた。

ぬるい感触が柄まで返る。

気味悪い。

だが、立てる。


「聞け、運び屋」

俺はカイルの耳元で唸った。

「今から倒れるなら、中央で倒れろ。

その娘を土の真ん中まで通す。それまでは、意地でも立て」


カイルは荒い息のまま、かすかに笑った。

「……注文、また増えたな」


「黙れ。生きて返事できてるだけで上等だ」


リノがようやく北縁へ流れ込んできて、派手に息を切らしながらも笑う。

「ちょっとぉ! 置いてかないでよ、トカゲ親分!」


「遅い」

「囮って疲れるのよ!」


軽口が飛ぶ。

いい。

そういう音があるうちは、まだこちらの形は崩れていない。


だが次の瞬間、上から白布の先がもう一度伸びた。

今度は速い。

迷いがない。


俺は一歩前へ出る。

黒土の上で、最初の衝突を受けるために。


三位一体の娘の指先はまだ土へ触れている。

その小さな接点ひとつを守るために、槍の柄へ力を込めた。


帝国暦849年。冬。

ガルドは崩れかけた北縁の古い補修路を力で押し切り、自ら最初に `伏土の窪み` の黒土へ踏み込んでカイルと三位一体の少女を引き入れました。

続いて少女の指先が黒土へ触れたことで、古い揺り籠は一度だけ脈打ち、カイルの熱と灰色の剣の暴れをわずかに逃がしました。教会側も第三の追跡者もその瞬間を見ており、交差点はついに「中央へ通すか、ここで奪うか」を争う真正面の押し合いへ変わったのです。

最後までお読みいただきありがとうございます。一言でも感想いただけると励みになります。

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