表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
71/103

第71話:東口の綻び、北へ抜ける本命 【メル】

毎日20時更新中です。ブックマーク・感想いただけると励みになります!

僕は剣を預かっていない。

預かっているのは、死塩の袋と、封鎖用の浄光釘、それから「まだ閉じるな」という曖昧な命令だけだった。


東の裂け目の脇に膝をつき、荷車から降ろした石灰袋へ手を置いたまま、僕はずっと息を浅くしている。

ここを狭めろ。

でも、塞ぐな。

対象が口へ入るまで、形だけ保て。


執行司祭ヘルマンの指示は簡潔だった。

簡潔すぎて、若い助祭には怖い。

いつ閉じるのか。

どの瞬間に釘を打つのか。

もし中で何かが暴れたら、どこまで退くのか。

そういう肝心なところは、たぶん現場で判断しろという意味なのだろう。

でも、僕はまだ、現場で何かを決める立場の人間じゃない。


風が裂け目を吹き抜ける。

死塩と石灰と、古い祈祷布のほつれた匂い。

その奥に、少しだけ熱が混じっていた。

火の熱ではない。

熱を無理やり人の形に押し込めたみたいな、嫌に生々しい熱だ。


これが剣憑き保持者の気配なのか。

あるいは、記録にあった「器体」の方なのか。

書類の上ではいくらでも語が並ぶ。

でも現場へ来ると、どれもひどく人間に近い匂いがしてしまう。


西縁では、ラザルとレネが死んだ谷筋の監視へ回っている。

中央寄りにはヘルマンとトビア。

僕だけが東の口を預かる形だ。


正直に言えば、嫌だった。

嫌だけれど、少しだけ安心でもあった。

誰かと刃を合わせるよりは、塩と釘の番をする方が、僕にはまだ教会の人間らしく思えたからだ。


岩陰に張った白布が、ひとつ揺れた。


来た。


僕は反射で背を低くする。

裂け目の向こう、東の痩せ道に二つの影が出た。

ひとつは大きい。

もうひとつは細く、よく動く。


女の声が、やけに明るく風へ乗った。


「カイルくん、ちょっとくらい愛想よくしなさいよ!

今にも死にそうな顔してると余計怪しいんだけど!」


その軽さに、一瞬だけ思考が遅れる。

こんな場面で、あんな声を出すのか。


だが次の瞬間には、なるほど、とも思った。

わざとだ。

隠れるつもりのない護衛に見せている。

口へ誘い込むための半囲いに対して、予定どおり東から入ってくる一行の顔をわざわざ見せている。


僕は手元の釘を握りしめた。

合図が出れば、この白筋を狭める。

裂け目の口を細くして、中へ入ったあとで閉じる。

教会のやり方としては、何も間違っていない。


なのに、妙だった。


影は二つしかない。


いや、他にもいるのかもしれない。

岩に隠れているだけかもしれない。

でも、肝心の「重み」が見えない。


報告では、先行一隊は荷を抱えていた。

深い踏み込みがひとつあり、その周囲を護る足が広がっていた。

それなのに今、東の痩せ道に現れている二人は、軽すぎた。

歩き方が、見せるための歩き方だ。

荷を守る歩き方じゃない。


女はわざとらしいくらい肩で息をして、男は無言のまま剣を低く持っている。

けれど、その間にあるはずの「守るべき中心」が、どうしても見えなかった。


僕は裂け目の土へ指を当てる。

死塩は静かなままだ。

器が近いなら、もう少しざらつきが揺れるはずだった。

少なくとも、石灰の匂いに対する反発が出る。

さっき風に乗っていた、あの生々しい熱も、ここでは弱い。


おかしい。


女の声がまた飛ぶ。


「ほら、もうちょい!

あんたがそこでへばったら、せっかくの隠れ道が台無しでしょ!」


軽口。

笑いを含んだ声。

誰かに聞かせるための台詞。


ぞくりとした。


これは、本命じゃない。


そう思った瞬間、僕は反射で北縁へ目をやった。

見えるはずがない距離だ。

それでも、視線が吸われた。


そして、見えた。


監視環の北側に立つ古い祈祷布が、一枚だけ内側へ沈んでいる。

風向きじゃない。

誰かがその裏を通った時の、ほんの短い引きつり方だ。


さらに、そのすぐ下。

黒土の縁に打たれた細い釘が、ひとつだけ斜めに傾いている。

古い補修路だ。

書類でしか見たことのない、監視環の死角。


「まさか……」


喉の奥で声が潰れた。


東は囮だ。

北が本命だ。


理解した途端、身体から血が引いた。

じゃあ、ここで僕が待っている意味は何だ。

この釘も塩も、空っぽの口を閉じるためだけに並べられているのか。


合図を送らないと。


僕は腰の布信号へ手を伸ばす。

白を一振り、北へ二度。

異常進路。

訓練ではそう決められていた。


でも、手が止まる。

遅い。

こんな距離で布を振って、ヘルマンが気づいて、トビアが見て、ラザルたちが動き直す。

そのあいだに、本命は窪みへ入る。


東の二人は、まだ僕を見ていないふりをしている。

いや、違う。

見えている。

見えているうえで、こちらが気づくかどうかを測っている。


女の方が、岩陰の向こうで一瞬だけ笑った。

さっきまでの軽い声とは別の、底の据わった笑いだった。


僕はそこで初めて、本当に怖くなった。

相手は追われているのに、怯えていない。

こちらの囲いを知っている笑いだ。


その瞬間、北の風が熱を強めた。


東ではなく、北だ。

はっきり分かる。

焼けた鉄みたいな熱。

それに混じって、喉の奥を切るような、奇妙に澄んだ冷え。

熱と冷えが一緒に来る。

そんなものが人間であるはずがない。


でも、いる。

北に。


「違う……」


僕は立ち上がっていた。

沈黙を守れ、という命令が頭のどこかでまだ響いていた。

鐘を鳴らさない任務だ。

発声も最小限。

若い助祭が勝手に喚けば、それだけで囲いは乱れる。


それでも、もう布信号では間に合わない。


東の大男が、わざとらしく半歩だけ踏み込む。

それに合わせて、僕は反射で釘を打ちかけた。

ほとんど訓練の癖だった。

口へ入ったら狭めろ。

狭めてから閉じろ。


違う。

入っていない。

ここにいるのは、口を噛ませるための影だ。


僕は釘を取り落とした。

乾いた音が岩へ跳ねる。

その音で、東の女がこちらを見る。


目が合った。


笑っていた。


そこで、喉の奥の何かが切れた。


「北です!!」


自分でも驚くくらい大きい声だった。

裂け目に反響して、祈りのない山肌へ叩き返される。

鳴らないはずの鐘の代わりに、僕の怒鳴り声だけが夜へ走った。


すぐに後悔した。

言った瞬間、囲いが壊れるのが分かったからだ。


東の男が一気に踏み込み、僕の前へ剣の切っ先を差し出す。

斬るためじゃない。

これ以上、口を狭めさせないための、押し返しだ。


同時に、女はくるりと身を翻して裂け目の外へ退く。

逃げるんじゃない。

こちらの視線だけを東へ縫い止める、見事なくらい無駄のない退き方だった。


西で誰かが怒鳴った。

ラザルか、レネか、それとも第三の追跡者を見つけたのか。

もう判別できない。


ただ、北では石が崩れる音がした。

ひとつ、ふたつ、短く。

重いものを庇いながら、人が細い補修路を渡る時の音だ。


僕は東の剣先を避けながら、半ば転ぶように北を振り返った。


見えたのは一瞬だった。


黒い土の縁。

崩れた岩棚の影。

その間を、灰色の熱を背負った影がすべる。

その背で、子供みたいに小さい銀が揺れ、片方だけの黒い翼が、夜の切れ端みたいに畳まれていた。


本命だ。


しかも、もう半分は入っている。


「閉じて! 閉じてください! 北を!」


叫びながら、自分でも何を閉じろと言っているのか分からなかった。

古い補修路をか。

半囲いの輪をか。

それとも、もう遅れてしまったこの状況そのものをか。


ヘルマンの短い指示が飛ぶ。

けれど東も西も同時に動き始めた今、その声はもう、最初の静けさほど綺麗には届かない。

沈黙で保っていた囲いは、一度叫べば、叫んだ分だけ綻ぶ。


東の男がさらに一歩だけ押す。

僕は浄光釘ではなく、石灰袋を抱えて身を引くしかない。

助祭の役目なんて、こんなものだ。

正しい場所へ塩を置くことはできても、間違えた一瞬を斬って戻すことはできない。


そして、その一瞬を、僕はもう間違えた。


北の崩れの向こうで、誰かが笑った気がした。

明るくはない。

白く、冷たく、細い笑いだ。

第三の追跡者まで、この綻びを見たのだ。


囲いは終わった。

ここからは、囲いの中で捕る計画じゃない。

誰が先に中央へ触れるかを奪い合うだけの、むき出しの押し合いになる。


帝国暦849年。冬。

東の裂け目を預かっていた若い助祭メルは、リノとレオンの囮に一瞬遅れて違和感を掴み、北縁の古い補修路へ本命が抜けると見抜いて沈黙の任務を破りました。

その叫びで教会の `半囲い` は初めて実際に綻び、カイルと三位一体の少女は北から `伏土の窪み` へ入り始め、交差点はついに静かな罠ではなく、むき出しの先取り合戦へ変わったのです。

お読みいただきありがとうございました。感想・ブックマークお待ちしています!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ