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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第69話:静修の囲み、死谷の第三歩 【トビア】

いつもお読みいただきありがとうございます。感想お待ちしています!

鐘を鳴らさない任務は、祈るより喉が渇く。


西方司教座を出る前、書記司祭マティアスはそう言っていなかった。

あの人は、紙と印章の人間だ。

鳴らない鐘の重さなんて、たぶん本当には分かっていない。


「ここから先、発声は必要最小限。

祈祷文も抜け。灯も覆え」


先頭を行く執行司祭ヘルマンが、振り返りもせずに言った。

私は短く頷き、外套の内側へ手を差し入れる。

指先が触れたのは、磨かれた剣の柄ではなく、薄い鉛板と死塩の小袋だった。

今夜の任務は討伐ではない。

記録上はあくまで「保全対象の回収補助」、現場での言い換えでは「囲って持ち帰る」だ。


荷車には、補修用の石灰袋と割れた祈り石に見せかけた封鎖材が積んである。

白布で覆えば、山道を回る修繕隊にしか見えない。

もっとも、その白布の下に眠っているのが、錆びた金槌ではなく、浄光釘と封蝋と拘束布だと知っているのは、ここにいる七人だけだった。


風は細く、冷たい。

それでも、裂けた尾根の向こうから上ってくる空気は、普通の冬の匂いではなかった。

土が、冷えきっていない。

塩を吹いた岩肌の下で、何か古いものがまだ息をしているような、生ぬるい湿り気が混じっている。


伏土の窪み。


旧記録では「揺り籠型保留地」。

黒土教の古い避難穴であり、混成器を一時的に寝かせるための場所。

教会は昔、その性質を危険視して監視環を置き、いざという時は祈りごと埋め戻すつもりでいた。

だが、年月が経つうちに、その場所自体が棚の奥へ押し込まれた。

捨ててはいないが、思い出したくもない禁忌の記録として。


今夜、私たちはその棚を開け直しに来ている。


尾根の上で、ヘルマンが手を上げた。

全員が立ち止まり、しゃがむ。

私は荷車の脇へ膝をつき、覆い布の端だけを持ち上げて前を見る。


窪みは、思っていたより広かった。

地割れに囲まれた浅い盆地のような地形で、底の土だけが不自然に黒い。

周囲には、風化した祈り石と、半ば地面へ呑まれた監視杭が円を描いている。

黒土教の祈りと、教会の封じが、長い年月をかけて互いを削り合った跡だ。


誰もいない。


だが、誰も来ていない場所の静けさではなかった。


「東の裂け目に新しい崩れ」


同輩の封鎖手レネが囁く。

私は視線だけで同意を返した。

崩れた砂の流れが浅い。

半刻も前ではない。


ヘルマンが荷台から短い観測筒を取り出し、窪みの外縁を順に見ていく。

その横顔には、驚きも嫌悪もなかった。

あるのは、書類を読む時と同じ種類の集中だけだ。


「先行使用あり」

と、彼は淡々と言った。

「影穴から一隊。人数は六から七。大型個体ひとつ、荷重偏りあり」


私はそこで初めて、はっきりと足跡を見た。


裂け目沿いの痩せ道から下ってきた一団の痕。

重い荷を負った者の踏み込みが一つ、常に深い。

そのすぐ左右を、護るように広がる複数の足。

歩幅の大きい戦士、軽いが躊躇のない女、途中で何度か立ち止まって砂を払った観測者めいた細い歩幅。


運んでいる。

何かを。

しかも、落とさないように囲いながら。


レネが吐息混じりに言った。

「回収対象か」

「断定するな」

ヘルマンは切った。

「剣憑き保持者、護衛群、器体、いずれかの組み合わせの可能性が高い。順序はまだ決めるな」


器体。


報告書で使う語だ。

生きているものの形をしていても、まずそう呼ぶ。

それは分かっている。

分かっているのに、岩陰へ残った小さな寝跡を見た瞬間、私は喉の奥に苦いものを感じた。


そこには、子供一人分ほどの窪みがあった。

外套を敷いた形。

その脇に、短い銀の髪が一本、岩に貼りついている。


私は手袋のまま、それを拾い上げた。

風に煽られた糸みたいに細い。

けれど、月の下でも分かるくらい白い。


「トビア」


ヘルマンに呼ばれ、私は髪を見せた。

彼は一瞬だけ目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。


「記録どおり、幼体外見の可能性が上がっただけだ」


その言い方の正しさが、今は少しだけ嫌だった。


私は静修騎士だ。

祈りより先に観察を学び、憤りより先に区分を叩き込まれた。

異常を異常として見ろ。

哀れみは判断を鈍らせる。

剣を抜くのは最後だ。

そう教えられてきた。


だからこそ、目の前の痕跡が「抱えて運ばれた子供」に見えてしまうこと自体、すでに判断を鈍らせているのかもしれなかった。


その時だった。


窪みの西縁、死んだ谷筋へ下る斜面を見ていたレネが、低く舌を鳴らす。


「……待て。もう一本ある」


全員の視線がそちらへ寄った。

私も腹ばいになって縁の土を覗き込む。


あった。


先の一隊とは違う。

人数は一。

細い。

だが、速い。


谷筋の石を選んで踏み、足場の悪い箇所だけ最短で切っている。

無駄な停滞がなく、転倒痕もほとんどない。

追う者の足だ。

しかも、ただ後をなぞっているのではない。

先行する一隊の進路を読んで、横から食い込むように窪みへ寄せてきている。


「別働か」

若い助祭メルが囁いた。

「護衛の散開では?」


私は首を振った。

「違う。足圧が軽すぎる。単独です」


その足跡の周囲だけ、薄く霜が残っていた。

風の通り道では消えているはずの白さが、石の陰に糸みたいに引っかかっている。

不自然な冷えだ。


報告書の脇注にあった言葉が、頭をよぎる。

白百合めいた欠片。

地下宮殿崩落後に失踪した、元侍女。


まだ推測にすぎない。

だが、推測としては十分だった。


「第三勢力です」

私は言った。

「回収対象を追っている。こちらと同目的ではない可能性が高い」


沈黙が落ちた。

鐘を鳴らさない任務では、沈黙は珍しくない。

だが今のそれは、全員が同じ計算を始めた時の重い沈黙だった。


先行する一隊。

死んだ谷筋から食い込む単独者。

そして、窪みの外縁に伏せる私たち。


もう「待てば来る案件」ではない。

ここはすでに、誰かが誰かより先に触れれば均衡が崩れる場所になっていた。


最初に口を開いたのは、護衛役の年長騎士ラザルだった。


「囲いますか」


囁きなのに、刃のような声だった。


「今のうちに外縁を閉じれば、三方とも窪みに押し込める。

回収対象が器体であれ剣憑きであれ、中で動きが鈍ったところを確保すればいい」


「乱暴すぎる」

メルが青い顔で言う。

「揺り籠型保留地ですよ。起動の仕方を誤れば、内部の歪みがどこへ逃げるか」


「ならなおさら外で遊ばせるな」

ラザルは切り返した。

「第三勢力までいる。静観して三つ巴になれば、目の前で取り逃がすぞ」


ヘルマンはすぐには答えない。

代わりに、窪みの底へ立つ半ば埋もれた監視杭をじっと見ていた。

風が吹くたび、その杭に巻きついた古い祈祷布が、死んだ魚の腹みたいに白く翻る。


私はその横顔を見ながら、マティアスの言葉を思い出していた。


回収を優先。

公鐘は鳴らすな。

現地で封鎖を要する場合も、対象を刺激するな。


書面で読んだ時は、ただの慎重な命令に見えた。

だが今は分かる。

これは慈悲ではない。

爆ぜさせないための、冷たい配慮だ。


その冷たさの中心に、もし本当に子供の姿をしたものがいるのなら。


「トビア」


ヘルマンが呼ぶ。


「お前はどう見る」


意見を求められる立場ではない。

それでも、静修騎士は現場の観測を誤魔化さない。

私は一度だけ息を整えた。


「先行一隊は、逃走より保全を優先しています」

私は窪みへ続く深い足跡を見ながら言った。

「荷重の中心が終始一定です。運搬物を揺らさない歩き方だ。

急いではいますが、捨てる気配がない」


ラザルが鼻を鳴らす。

「だからこそ囲うべきだ」


私は続けた。


「ただし、第三勢力は違う。あれは食い込みです。窪みの入口で接触を狙っている。

こちらが先に外縁を閉じれば、単独者を刺激して、先行一隊との衝突が早まるかもしれません」


「静観しろと?」


「いいえ。静観だけでは遅い」


自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。


「囲いは必要です。

ただし、輪は閉じきらない方がいい。

東の裂け目を細く残し、先行一隊を予定どおり窪みに入れた上で、第三勢力だけを手前で捌く。

窪みの内で回収するなら、少なくとも三方同着は避けるべきです」


メルが息を呑む。

ラザルは不満げに眉を寄せたが、否定はしなかった。


ヘルマンはしばらく黙っていた。

やがて、観測筒を畳み、短く言う。


「採る」


それだけで、空気が切り替わった。


「ラザル、レネ。西縁を回れ。死んだ谷筋から上がる第三勢力を止めろ。だが仕掛けるな。刃を見せるのは相手が窪みへ踏み込もうとした時だけだ」

「了解」


「メルは荷車を下げろ。封鎖材は東の裂け目へ寄せる。閉じるな、狭めるだけだ」

「はい」


「トビア」


私は顔を上げた。


「お前は私と来い。先行一隊の入りを確認する。

対象が器体なら、最初の発作を見逃すな。

剣憑き保持者が崩れるなら、その瞬間が一番回収しやすい」


回収しやすい。


また、正しい言葉だった。

正しすぎて、少しだけ吐き気がした。


私は返答の代わりに頷き、腰の短剣ではなく、外套の内の拘束布へ手を置いた。

祈りの言葉は口にしない。

今この場でそれを口にしたら、祈る相手がどこにもいない気がしたからだ。


配置が割れ、七人の輪が窪みの外縁へ静かに散っていく。

白布を被せた荷車は岩陰へ退き、代わりに細い封鎖線だけが土の上へ引かれていく。

鳴らない鐘の代わりに、死塩がさらさらと音を立てた。


その時、向かいの尾根で石が一つ跳ねた。


ごく小さな音だった。

だが私は反射的にそちらを見る。


死んだ谷筋の出口。

痩せた岩の影に、白が一瞬だけあった。

布ではない。

花弁でもない。

もっと鋭い、冷えた白。


人だ。


単独者は、もう見える距離まで来ている。


しかも、こちらより早く気づいていたような静けさで、じっと外縁を見ていた。

追う者の目だ。

祈らない目だ。


私は息を殺したまま、その視線の先を追った。

東の裂け目。

あの先から、先行一隊が窪みへ降りてくる。

熱を抱えた保持者か、幼い器体か、あるいはその両方を連れて。


もう遅い。

この場所は、静かに待てば済む監視点ではなくなった。


誰が最初に伏土の窪みへ足を入れるか。

誰が最初に、その中央の黒い土へ手を触れるか。


その順番ひとつで、今夜の祈りの意味は全部変わる。


帝国暦849年。冬。

西方司教座の少数回収班はついに `伏土の窪み` の外縁へ到達し、保護線の先行痕と、`死んだ谷筋` から食い込む第三の単独追跡者の存在を把握しました。

回収か、静観か、先囲いか。

鳴らない鐘の下で現地判断は揺れ始め、交差点はもう、避けて通れない形に固まりつつあったのです。

お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!

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