第68話:熱を抱いた背中、鳴らない祈り 【リノ】
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「ねえカイルくん。
その顔、今にも死ぬ人の色してるけど大丈夫?」
「大丈夫に見えるなら、アタマの医者行け……」
見えるわけないでしょ、馬鹿。
アタシは乾いた岩肌をよじ登りながら、前を行くカイルくんの背中へ思いきり眉をひそめた。
忘却の荒野を抜けてからずっと、こっちの旅は「しんどい」の基準を景気よく更新し続けてるけど、今日のカイルくんはその中でも特にひどい。
足取りは遅いくせに、変な意地で止まろうとしない。
右腕は灰色の剣ごと布で巻き直してるけど、その下で時々ぴくっと痙攣してるのが、後ろからでも分かる。
おまけに背中には、例によって世界最悪の預かり物つきだ。
銀髪のちびっ子は、今はおとなしくカイルくんの首へ腕を回して眠っている。
片方だけの黒い翼を、寒さを嫌がる子供みたいに背へ巻きつけて。
ぱっと見はただの可愛い寝顔だ。
でも中身を知ってるこっちからすると、可愛いで済ませていい代物じゃない。
元英雄と、元聖女と、元魔王の三人分が、あの小さい身体の中で仲良く喧嘩してるんだから。
そのうえ、セト坊の見立てじゃ、あの子が落ち着くぶんのツケは、灰色の剣を通ってカイルくんへ返ってくるらしい。
返し荷、だっけ。
まったく、荷運びの比喩で言われると分かりやすすぎて腹が立つ。
「リノ、無駄口を叩くな。風向きが変わる」
前方の岩陰で、レオンのおっさんが短く手を振った。
その声で、アタシは冗談を飲み込む。
こういう時のおっさんは、だいたい嫌なことしか言わない。
今アタシたちが進んでるのは、伏土の窪みへ繋がる裂け目沿いの痩せた道だ。
右は崩れた岩壁、左は塩を吹いた浅い斜面。
一歩踏み外せば派手に転げ落ちるし、風が吹くたび細かい砂が目に入る。
あんまり長居したい場所じゃない。
でも、長居できない理由は景色よりもっと別のところにあった。
「止まって」
後ろからセト坊が声を上げた。
その一言とほぼ同時に、カイルくんの身体がぐらりと揺れる。
「ちょ、カイルくん!」
アタシが慌てて背中を支えると、触れた肩がぞっとするくらい熱かった。
寒風の中を歩いてる人間の熱じゃない。
火鉢でも抱えてんのかってくらい、内側からじりじり焼けてる。
「はは……最悪。笑えるくらい熱いじゃん、アンタ」
「笑うなよ……」
「まだ笑えるうちは笑っとくの。泣くと余計しんどいから」
アタシが軽口を叩く横で、ヴェルりんがするりと寄ってきた。
相変わらず嫌なくらい静かな足音だ。
ちびっ子の額へ指を当て、次にカイルくんの首筋へ触れて、露骨に顔をしかめる。
「進行していますね」
「何が?」
「返し荷です。熱の出方が、昨夜より露骨だ」
「露骨って言い方やめてくれる?」
アタシが睨むと、ヴェルりんは肩をすくめた。
「事実ですので。
器の方はまだ保っていますが、保っているということは、どこかに歪みの逃げ場があるということです」
「それがカイルくんってわけ」
「今のところは」
今のところ、って。
便利な言い回しよね、ほんと。
カイルくんは、アタシの肩へ半分もたれたまま荒く息をしていた。
右腕の布の下で、鈍い灰色の光が一瞬だけ滲む。
それに合わせるみたいに、背中のちびっ子が小さく身じろいだ。
『……やだ』
掠れた声だった。
誰の声とも言い切れない、三つが薄く混ざった感じの音。
「何がやだなの?」
アタシはできるだけ明るく訊いた。
ちびっ子は目を閉じたまま、眉だけ寄せる。
『まぶしい匂い、する』
その一言で、空気が変わった。
レオンのおっさんが即座に振り返り、ガルドのおっさんは槍の石突きを岩へ軽く打つ。
セト坊は嫌そうに鼻を鳴らした。
アタシも、そこでやっと風の匂いが変わってるのに気づいた。
土と塩と乾いた草の匂いに混じって、薄く、甘ったるい蝋の気配がある。
安い祭壇蝋の匂いだ。
それに死塩。
あと、洗いたての布を無理やり清潔に見せようとした時の、あの妙に鼻につく石灰の粉っぽさ。
「うわ、やだ。ほんとだ」
「やっと分かりましたか、踊り子」
「アンタは言い方が毎回感じ悪いのよ」
でも、感じ悪かろうが何だろうが、言ってることは正しい。
この匂いは古い祈り石の残り香じゃない。
もっと新しい。
人が持ち歩いてる匂いだ。
レオンのおっさんが低く問う。
「距離は」
セト坊が膝をついて砂を指先で払った。
そこに残っていたのは、ついさっき踏まれたばかりみたいな細い車輪痕と、整いすぎた靴底の並びだ。
「近い。半刻も離れてない」
「前か」
「風の運び方だと、斜め前。たぶん窪みの外縁へ回り込んでる」
アタシは思わず、カイルくんとちびっ子を見た。
最悪じゃん。
こっちは熱を抱えた荷物持ちつきで、向こうは祈りもしない教会の追手。
しかも、ちびっ子本人がその匂いに反応してる。
「ねえヴェルりん。あの子、教会の匂いって分かって嫌がってるの?」
「単純な好き嫌いではないでしょうね」
「分かりやすく言って」
「器のどこかが、あの手の浄化資材を『自分を裂くもの』として記憶している」
ぞくりとした。
優しい言い方を選ぶ気なんて、最初からないらしい。
ちびっ子はまだ眠ったまま、カイルくんの背中へ頬を押しつけている。
でも、さっきより明らかに力が入っていた。
怖がってる子供が、抱きつけるものへしがみつく時のあの感じだ。
カイルくんが、焼けた喉みたいな声でぼそっと言う。
「……休むか?」
レオンのおっさんは即答しなかった。
代わりに、アタシの方を見た。
たぶん、ちびっ子の様子を一番近くで見てるのがアタシだからだろう。
「リノ。走らせたらどうなる」
「どうなるっていうか、泣く」
「断言するな」
「だって今にも泣きそうな抱きつき方してるもん」
アタシは唇を噛んだ。
本音を言えば、少しでも休ませたかった。
カイルくんは熱でふらついてるし、ちびっ子も匂いだけでこんなに強張ってる。
でも、こんな場所でしゃがみ込んだら、追いつかれる未来しか見えない。
「……ちょっとだけ」
アタシは言った。
「ほんとにちょっとだけ、岩陰で息整えよう。
そのかわり、その後は一気に窪みまで行く。
中途半端に止まる方がたぶんきつい」
ヴェルりんが細い目でアタシを見る。
嫌な悪魔のくせに、こういう時は人の値踏みを隠そうともしない。
「情緒論にしては、珍しく妥当ですね」
「褒めるならもっと感じよく褒めなさいよ」
「今ので十分でしょう」
ガルドのおっさんが鼻を鳴らした。
「では、我が前へ立つ。匂いの元が寄れば、先に槍で迎えるまでだ」
「それやると静かじゃ済まなくなるから、最後の最後ね」
アタシたちは道を外れ、裂け目の途中にできた浅い岩陰へ滑り込んだ。
人二人が腰を下ろせるかどうかの狭さだけど、風を避けるには十分だ。
カイルくんは壁に背を預けて座り込むなり、長い息を吐いた。
ちびっ子はその膝へ移されても、すぐには腕を離さない。
「水、飲む?」
アタシが革袋を差し出すと、カイルくんは左手だけで受け取った。
右は相変わらず、布の下でじくじく熱を持ってる。
「……悪い」
「ほんとにね」
「そこで即答すんの?」
「するする。アタシ、気ぃ遣える女だけど、甘やかし専門じゃないし」
そう言いながら、濡らした布を絞って首筋へ当てる。
うわ、やっぱ熱い。
でもさっきみたいな暴れる熱じゃなくて、無理やり閉じ込めてる熱だ。
外へ出せないぶん、身体の中で煮えてるみたいな。
「夢、見た?」
なんとなく訊くと、カイルくんは一瞬だけ目を逸らした。
それで十分だった。
「見たんだ」
「……別に」
「その顔は見た顔」
「お前、やたらそういうとこ鋭いよな」
「踊り子だからね。人の顔色で飯食ってるし」
少し間があってから、カイルくんは諦めたみたいに呟いた。
「知らねえ場所の夢だよ。
泥でも雪でもなくて、もっと柔らかい土の上で、誰かが歌ってた」
ちびっ子のまぶたが、ぴくりと揺れた。
「歌?」
「言葉は分かんねえ。でも、あったかいのに、息が詰まる感じで……。
その後から腕がやたら熱い」
伏土の窪み。
揺り籠。
土へ伏せる。
頭の中で言葉が嫌につながって、アタシは布を握る手に力を入れた。
たぶんもう、あの場所はカイルくんの夢にまで触ってきてる。
ただの目的地じゃない。
向こうもこっちを引いてるんだ。
その時、外で小石の転がる音がした。
全員の視線が一斉に入口へ向く。
ガルドのおっさんが槍を持ち上げ、レオンのおっさんは音もなく立ち上がった。
でも飛び込んできたのは敵じゃなかった。
風だ。
強いひと吹きが裂け目を抜け、蝋と死塩の匂いをさっきより濃く運んできた。
まるで「近いぞ」とわざわざ告げるみたいに。
ちびっ子が、カイルくんの膝の上で小さく震える。
『……やだ、あれ、切るやつ』
アタシは反射的にその頭を抱いた。
自分でもびっくりするくらい、身体が先に動いてた。
「大丈夫、大丈夫。切らせない」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。
ちびっ子にか、カイルくんにか、それともアタシ自身にか。
けれど、その一言でカイルくんが顔を上げた。
熱でぼんやりしてるくせに、目だけは妙に真っ直ぐだ。
「……行くぞ」
また即決。
ほんと、こういう時のこの子は馬鹿みたいに早い。
「休めって言ったばっかでしょ」
「休んだ」
「一瞬!」
「一瞬でも休んだろ」
アタシは思わず吹き出しそうになって、でも笑ってる場合じゃないと思い直して、結局ただ大きく息を吐いた。
「はいはい、分かったわよ。
その代わり倒れる時はちゃんと声かけて。黙って倒れられるのが一番困るから」
「善処する」
「信用ならなっ!」
言い切る前に、レオンのおっさんが短く手を振った。
出る合図だ。
ここから先は、窪みまで一気に押し込むつもりなんだろう。
アタシは立ち上がって、ちびっ子の片翼をそっと整えた。
その泥の羽は冷たいのに、触れてると妙に脈があった。
生きてる。
継ぎ接ぎで、危なっかしくて、今にも壊れそうなのに、確かに。
だから、まだ渡さない。
教会にも、誰にも。
裂け目の外では、鳴らない鐘の代わりみたいに風が鳴っていました。
古い祈りの匂いと、死塩と、熱を抱えた背中。
その全部を連れて、アタシたちは伏土の窪みへ向かって歩き出します。
帝国暦849年。冬。
返し荷に焼かれるカイルくんと、鳴らない祈りの匂いに怯える三位一体の少女を抱えたまま、保護線はついに、教会の気配を肌で感じる距離へ入りました。
伏土の窪みは、もうただの目的地じゃない。
誰が最初にそこへ触れるかを争う、切迫した交差点そのものになりつつあったのです。
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