第67話:白百合の冷え筋、祈らない轍 【ミナ】
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雪ではなく、塩気を含んだ細かな砂が頬を打っていました。
荒野の冬は、ともすれば白く静かなものだと人は思うのでしょう。
けれど実際には、砕けた石と死んだ草の匂い、乾いた風が巻き上げる灰、そして、何よりも「何も育たない場所」特有の薄く鋭い冷えが、絶えず肌を削っていくのです。
私は足跡ではなく、その冷えを追っていました。
衣の内に隠した白い欠片を、掌の中でそっと転がす。
白百合に似た輪郭を持つ、あの玉座の間で拾った破片。
進む方向が外れるとただ冷たい石でしかないそれが、正しい筋に近づくたび、氷針のような痛みを伴って脈を打つのです。
まるで、私の知らない「何か」が、その先にあると告げるように。
最初のうちは、ただアレン様の残した靴跡を追っていました。
泥を深く噛んだ、重たい歩幅。
何かを抱えたまま無理やり前へ進んだ者の、鈍い沈み。
けれど数日前から、それだけでは足りなくなりました。
風が吹けば跡は飛ぶ。
凍れば輪郭は曖昧になる。
それでも、欠片が示す冷えの筋だけは、土の下に細い水脈のように残り続けていたのです。
今ではもう、目で見るより早く分かります。
この先で誰が立ち止まり、どこで荷を抱え直し、誰が周囲を囲っていたのか。
割れた巡礼標の陰へしゃがみ込み、私は地面へ指を這わせました。
表面は乾いているのに、その下だけが妙に冷たい。
中央には小さな窪み。
両脇には、何度も位置を変えた大人の足。
さらに一つ、右へ偏って深く沈んだ跡が、短い間隔で繰り返されている。
「……やはり」
独り言は、風にすぐ攫われました。
ここでも同じです。
中心にいるのは小さいもの。
周囲が守る。
そして、右側へ荷重の偏ったあの跡は、進むたびに少しずつ深くなっている。
影穴でセトが見抜いた『返し荷』とやらが始まっているのなら、あの泥街の運び屋が背負わされている負荷も、もう誤魔化しの利く段階ではないのでしょう。
逃げているのではありません。
運んでいるのです。
しかも、殺すためではなく、生かすために。
その事実が、胃の奥を冷たく撫でました。
私はあの日、玉座の間で何が生まれたのかを見ていません。
ただ、足りないのです。
シオン様の気配も、アレン様の泥も、あの地下宮殿を満たしていたはずの呪わしい熱も、今は一つの不自然な欠落としてしか残っていない。
だからこそ、欠片が示す先にある「小さいもの」が、私から奪われた何かの、歪んだ続きなのだと分かるのです。
私は立ち上がり、次の筋へ歩を進めました。
左手は常に欠片へ添え、右手は腰の後ろの短剣に触れています。
刃は欠け、光沢も失っている。
それでも、あの日シオン様の血を受けた重みだけは、まだ私の手に残っていました。
しばらく進んだ先で、欠片の冷え方が変わりました。
対象の筋へ寄った時の細く鋭い冷えではない。
もっと浅く、広く、どこか人工的な冷え。
私は反射的に身を低くし、岩の裂け目へ滑り込みました。
眼下には、古い商路の名残である浅い道が一本、南へ伸びています。
そこに、新しい轍がありました。
荷馬車一台。
車輪幅は狭く、荷重は軽い。
けれど、普通の補修荷ではありません。
轍の脇へ下り、土を摘まむ。
石灰。
死塩。
それに、聖堂で使う安い蝋の匂い。
荷車の後ろへ落ちていた麻紐には、染み抜きの失敗したみたいな白い粉が付着していました。
見習い修道士の服や祭布を扱ったことはありませんが、侍女として衣擦れと洗いの痕を見分ける目くらいは持っています。
これは巡礼民の荷ではない。
飢えた商隊の縄でもない。
使い慣れていない人間が、清潔に見せるためだけに急いで拵えた偽装です。
さらに妙だったのは、歩き方でした。
六人分。
一人は御者。二人は荷の左右で一定の幅を保つ。残り三人は後方で、あまりにも規則正しく間を空けている。
疲れた修繕夫の歩幅ではありません。
命令を受けた兵の歩き方です。
私はそっと岩をよじ登り、尾根の上から先を覗きました。
豆粒ほどの黒い列が、遠くの白茶けた地平を横切っているのが見えます。
旗はない。
十字の紋も見せていない。
けれど、荷の上に被せた布の端が風でめくれた一瞬、内側の白い木箱と、袋口を固く縛った死塩袋が見えました。
前を歩く男の一人は、剣ではなく長い筒状の器具を背負っている。
観測鏡か、封緘棒か。
どちらにせよ、補修班には過ぎた装備です。
「教会」
声は、ほとんど息と一緒に漏れました。
なるほど、と私は思いました。
あの影穴が正規の手順で解かれていた時点で、教会の犬が黙っているはずがない。
鐘を鳴らし、鎧を光らせ、大仰に浄化へ来るかと思っていました。
けれど連中は、今回は祈りも歌も持ち込んでいない。
鳴らない鐘のまま、黙って先へ回るつもりなのでしょう。
賢明です。
そして、ひどく腹立たしい。
列はそのまま南へ流れていくかに見えましたが、先頭の一人が、半ば埋もれた巡礼標の前で足を止めました。
男は周囲を見回してから、手袋をはめた指で石の裏を探り、何かを確かめるように一度だけ頷きます。
祈りの仕草はありません。
聖句も、祝福もない。
ただ印を読み、道具のように先へ進むだけ。
その無音の手つきに、私は確信しました。
あれは信仰で動く巡察ではない。
どこかの文書庫か執務室で許可を受け、騒ぎを広げぬよう命じられた追手です。
つまり教会はもう、この件を「祈れば済む異端騒ぎ」とは見ていない。
回収すべきものとして、伏土の窪みへ手を伸ばしているのです。
もしあれが大軍なら、道の外からでも気配で読めたでしょう。
けれど六人なら、荒野の風に紛れる。
伏土の窪みへ先に入られれば、教会はそこを『回収』と呼び、帝国は『案件』と呼び、誰かがまた、シオン様の残り滓へ都合の良い名札をぶら下げるのです。
そんなことは、許しません。
私は再び欠片を握りました。
冷えが、今度は尾根の下ではなく、さらに西寄りの崩れた谷筋へ針のように伸びる。
古い水路の跡です。
水はとうに枯れ、今は塩を噛んだ岩だけが口を開けている。
荷馬車では通れない。
人一人なら、怪我を覚悟で抜けられる。
「……死んだ谷筋」
黒土教の巡礼たちが、かつて遠回りの際に口にしていた名を思い出しました。
普段は誰も使わない近道。
見通しが悪く、足場も崩れやすい代わりに、地形の癖を知っていれば伏土の窪みの西縁へ先回りできる。
私は迷いませんでした。
轍を追えば、教会の後ろにつく。
冷えの筋だけを素直に追えば、運搬の一行の背へ噛みつく形になる。
それでは遅い。
欲しいのは遭遇ではなく、先回りです。
私は尾根を滑り降り、谷筋の入口へ立ちました。
風が下から吹き上げ、乾いた塩の粒が頬を叩く。
崩れた岩肌の途中には、古い巡礼印が半分だけ埋もれていました。
その欠け方が、妙にあの日の玉座の残骸に似て見えて、私は唇を噛みます。
ふと、遠い記憶が蘇りました。
まだ私が侍女として、毎朝シオン様のお茶の温度ばかり気にしていた頃のことです。
巡礼の中に、魂縫いの儀で気を失う者が出ると、シオン様は土間へ膝をつき、手を汚すことも厭わず額へ泥を当てていらっしゃいました。
『痛んだ魂は、火へ近づけてはだめよ』
あの方は、困ったように笑いながらそう仰っていたのです。
『怖がって暴れる時ほど、土へ伏せて、息が戻るのを待たないと』
当時の私は、その意味を深く考えませんでした。
聖女の優しさの一つとしか思っていなかった。
けれど今なら分かります。
伏土の窪みとは、まさにそういう場所だったのでしょう。
壊れかけたものを、その場で治すのではなく、いったん土へ伏せて、裂け切るのを遅らせる場所。
だからこそ、あの一行はそこを目指している。
だからこそ、教会も黙っていられない。
そしてだからこそ、私には、誰より先にそこへ着く理由があるのです。
シオン様。
あの方は、どこまで奪われたのでしょう。
この先で運ばれているものが何であれ、アレン様が守るために抱え、教会が回収するために追っているのなら、そこにはきっと、あの日私が壊してしまった何かの続きがある。
私はそれを救いたいのではありません。
赦したいのでもない。
ただ、誰かの都合の良い言葉で、また勝手に連れ去らせたくないのです。
谷へ一歩、足を踏み入れます。
靴裏の下で石が鳴り、暗い裂け目の奥へ音が落ちていく。
右手は短剣を抜き、左手は欠片を握ったまま。
欠片は痛いほど冷たく、けれど確かに、この死んだ谷筋の先を指していました。
二歩、三歩と下るごとに、外の風音が遠のきます。
代わりに聞こえてくるのは、自分の呼吸と、靴先で転がる小石の乾いた音だけ。
谷の壁はところどころ崩れ、古い水の跡が白い塩の筋になって残っていました。
私は壁へ手をつき、滑らぬよう体重を逃がしながら進みます。
侍女の柔らかな靴ではとっくに足首を折っていたでしょう。
けれど今の私は、そんな歩き方をとうに捨てています。
曲がり角のひとつで、私は再び足を止めました。
岩陰に、ひどく浅い擦れが残っていたからです。
人が最近通った痕ではありません。
もっと小さく、軽い。
けれど欠片を近づけた瞬間、その擦れの周囲だけ空気がひやりと沈みました。
羽根の先か、衣の端か。
断定はできない。
それでも、この谷筋がまるで的外れではないのだと知るには十分でした。
「待っていてくださいませ、シオン様」
その言葉が祈りではなく、狩りの前の確認に変わっていることを、私は自覚していました。
背後では、補修班を装った教会の轍が、何も知らぬ顔で南へ続いています。
正面では、私が追ってきた冷えの筋が、細く、しかし切れずに伏土の窪みへ流れている。
二本の線は、もう同じ一点へ向かっていました。
「アレン様」
私は谷の闇へ向けて、小さく呟きました。
「今度は、誰にも先を越させません」
風が強くなり、裾を引きました。
私は身を屈め、そのまま死んだ谷筋の底へと降りていきます。
侍女の歩き方ではない。
祈りを運ぶ者の足取りでもない。
ただ一つの獲物へ先回りする追跡者の歩き方でした。
帝国暦849年。冬。
白百合の欠片が示す冷えの筋を辿った果てに、私はついに、祈りも鐘も持ち込まない教会の追手を見つけました。
伏土の窪みへ向かっているのは、保護線だけではない。
追跡者も、回収者も、すでに同じ交差点へ足を踏み入れ始めていたのです。
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