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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第64話:白鐘の見習い、破られた影穴 【ルカ】

いつもお読みいただきありがとうございます。感想お待ちしています!

聖堂の雑用というものは、大抵がろくでもない。

床磨き、香油の補充、鐘の綱のほつれ直し、貧民向けの薄い粥の配給。

そして、誰もやりたがらない現地確認は、たいてい見習いに回ってくる。


「ルカ。南方第二影穴の様子を見てきなさい」


朝の祈りが終わった直後、古びた執務卓の向こうから助祭がそう言った時、僕は胃のあたりが冷たくなるのをはっきり感じた。


西辺境の小聖堂は、もう昔みたいな威厳のある場所じゃない。

壁にはひびが入り、祭具は減り、白陽騎士団の巡回も月に一度あるかどうか。

それでも表向きには、僕たちは変わらず「光の秩序」を守っていることになっている。

だからこそ、守れていないと証明するような仕事は、みんな目を逸らしたがるのだ。


「南方第二影穴って……旧巡礼路の監視点ですよね」

「そうです」


助祭は白手袋をはめたまま、僕の顔を見ようともしなかった。

机の上には、昨夜届いたばかりの薄い報告書が数枚、重ねて置かれている。


『旧塩商路南縁にて祈り石の異常』

『浄光針の反応消失』

『影穴付近での野営痕らしきもの』


どれも断片的で、誰かが責任を持って断定するには弱い内容だ。

だからこそ、雑用係の見習いが現場へ出される。


「誤報なら誤報で構いません。祈り石を点検し、影穴が無事なら封を確かめて戻りなさい。

もし破損していたなら、どの程度かを見て、余計なことはせず戻ること」

「余計なこと、ですか」

「異端を見つけても、自分が討てるなどと思わないことです」


助祭はそこで初めて目を上げた。

疲れていた。

光の正しさを説く時の司祭の顔ではなく、寝不足の会計係みたいな目だった。


「今の聖堂に、余計な英雄譚は要りません」


僕は黙って頷いた。

返事をしながら、胸のどこかが妙にざらつく。

英雄譚なんて、もうずっと聞かされてきたはずなのに。

帝国を救った英雄。

光を地に繋いだ聖剣。

泥を焼き払い、人々を導いた完全な奇跡。


けれど現実の聖堂は、雨漏りと不足した蝋燭と、足りない人手でできている。

僕みたいな見習いが、錆びた巡礼路の影穴を見に行く程度には。


僕は小さな巡察鞄へ、祈祷書、携帯灯、予備の聖印紙、それから掌に収まる観測硝子を放り込んだ。

観測硝子は、本来なら白陽騎士団か異端審問補佐が持つものだけれど、今の小聖堂にはまともな人手がいない。

だから壊れかけの旧式が、僕みたいな半人前に回ってくる。


聖堂を出た時、冬の空は白く濁っていた。

道の先には、塩の粉を被った荒れ地と、埋もれた旧道の石杭が続いている。

誰も好きこのんで歩きたがらない道だ。

だから異端も、巡礼も、噂も、だいたいこういう場所へ流れ込む。


旧塩商路を南へ下るにつれて、景色はどんどん寂しくなっていった。

崩れた見張り台。

半分埋もれた荷車。

風に磨かれて文字の消えかけた祈り石。

教会が昔はこの辺りまで手を伸ばしていた証拠だけが、みっともなく残っている。


僕はそのたび、胸の中で祈祷文を繰り返した。

恐怖を押し込めるためだ。

信仰心からというより、そうでもしないと一人で歩くには静かすぎた。


南方第二影穴の入口が近づいたのは、昼前でした。

半ば倒れた祈り石を見つけた瞬間、僕は足を止めた。


遠目にも分かったからだ。

封が、生きていない。


石の角度がおかしい。

死塩の筋が切れている。

それに、裏面の泥が新しい。


「……嘘だろ」


駆け寄って膝をつく。

指先で裏側をなぞると、そこには白陽側の査閲印と、その真下に走る新しい傷がありました。

浄光針を無理やり引き抜いた跡ではない。

石を半回転させ、噛み合わせを外し、杭を横へ滑らせた跡だ。


正規の手順。

少なくとも、教会の監視点の仕組みを知っている人間のやり方でした。


僕の喉がからからに乾く。


黒土教の巡礼が偶然解けるような罠じゃない。

ただの盗賊崩れが見抜ける印でもない。

これをやったのは、教会の古い手順を学んだ者か、あるいはそれを目の前で見てきた者だ。


「誰だよ……」


観測硝子を取り出し、割れかけた祈り石へ翳す。

硝子の表面に、細い白線が一本浮かび、すぐその隣へ灰色の濁りが滲んだ。


僕は息を呑んだ。


浄光だけじゃない。

泥の反応に似た、暗い残り滓がある。

なのに完全な穢れとも違う。むしろ、光と泥が擦れ合った後みたいな、曖昧で気味の悪い波形。


教本では、こんなものは習わない。

光は光で、泥は泥で、混ざれば冒涜として切り分ければいいはずだった。

なのに硝子の中の線は、嫌になるほど中途半端に絡みついている。


背筋に冷たい汗が流れました。


影穴の隠し鉄環も、もう半分ほど露出していた。

誰かがつい最近、そこを開けたのだ。

僕は喉を鳴らし、用心しながら岩壁を押し開けた。


中はひどく静かでした。

半地下の小部屋。

鉛板の残る壁。

床に撒かれた死塩。

古い棚。

そのどれもが古びているのに、中央だけが新しい。


塩袋の繊維。

踏み荒らされた床。

壁際に残る複数の靴跡。

それに、子供が丸まって眠ったみたいな小さな窪み。


誰かがここで一夜を明かした。

それも、かなり切羽詰まった状態で。


しかも、ただ逃げ込んだだけではない。

小さな窪みの周りだけ、死塩がきれいに寄せられていました。

即席の円だ。

素人が撒き散らしたのではなく、外から何かが入り込まないよう、意図して囲った形。


その外側には、大人の足跡が半円状に残っている。

入口を向く重い足跡。

壁際で何度も立ち位置を変えた細い靴跡。

そして一つだけ、ずっと中央の窪みから離れなかった、引きずるような浅い踏み跡。


守っていたのだ、と僕は思いました。

部屋の真ん中にいた小さな何かを、周りの連中が一晩中囲っていた。

祈り石も影穴も、本来は異端を追い詰めるためのものなのに、その夜ここでは逆に、誰かを生かすために使われたのだ。


僕は窪みの傍へしゃがみ込んだ。

死塩の上に、細い銀色のものが一本落ちている。

髪の毛だった。

雪みたいに白いのに、硝子を近づけると、端の方だけうっすら灰に曇る。


ぞっとして手を離しかけた、その時。


壁の上部に、黒い擦れ跡が見えました。

煤ではない。

羽根が濡れた泥を擦りつけたみたいな、不吉な半月形の跡。

高さは、成人より低い。

まるで小柄な何かが、壁にもたれていたみたいに。


「子供……?」


自分で口にした言葉が、部屋の中でひどく場違いに響いた。


観測硝子が、ちり、と小さく鳴ります。

ガラスの縁に浮かんだ線は、白でも黒でもなく、どこまでも鈍い灰色へ濁っていた。


僕はたまらず、祈祷書を胸へ押し当てました。

神よ、ではない。

口から出たのは、ただの癖でした。


こんなものを見た時、何と祈るのが正しいのか、僕は知らなかった。


部屋の奥へ目をやると、古い書き付けのある壁が削られている。

誰かが最近、そこを指でなぞった痕がありました。

砂埃を払って読み取る。


『南方第二影穴。巡礼群、さらに南の伏土の窪みへ退避せし形跡あり』


伏土の窪み。

聞いたことだけはありました。

黒土教の巡礼が使ったという、窪地型の古い避難所。

外から見えにくく、風を避けやすい一方、昔は教会の監視対象でもあった場所。


僕は壁の文字と、荒らされた床と、あの銀髪を見比べました。


誰かがここで休み、教会の影穴を利用し、その先の避難所へ向かった。

しかも封を壊したのではなく、正しく外して。

そして中心にいたのは、おそらく子供ほどの小さな何か。


「あり得ない……」


けれど、あり得ないからこそ、ここまで残っている。

もし本当にただの誤報なら、祈り石も、死塩も、影穴も、こんなふうにはならない。


僕は鞄から封蝋紙を取り出し、震える手で簡易報告を書き始めました。


『南方第二影穴、封破損。

浄光針は正規手順にて解除済み。

内部使用痕あり。複数成人、幼体一。

観測硝子にて灰色複合波形を確認。

進路は南、伏土の窪み方面と推定――』


書いていて、自分の筆先がひどく頼りなく見える。

こんな数行で済ませていい話じゃない。

けれど、見習いの僕にできるのは、せいぜいここまでだ。


僕は報告書を巻き、聖堂印で仮封を施しました。

その時、ふと迷ったのです。

銀髪のことも、黒い擦れ跡のことも、全部そのまま書くべきかと。


もし書けば、上は間違いなく動く。

僕の知らないもっと偉い誰かが、騎士か審問官を回して、この道を踏み荒らす。

もし書かなければ、何かを見逃した罪が僕に残る。


結局、僕は全部書きました。

怖かったからです。

自分一人の胸にしまっておけるほど、あの灰色は軽くなかった。


外へ出ると、冬の光がやけに白く見えました。

僕は影穴の入口を仮に閉じ直し、南を振り返ります。

岩の裂け目の向こうへ続く細道は静かで、もう誰の姿もありません。

けれど、道の上に残る薄い冷えだけが、今もそこを何かが通っていったと告げていた。


聖堂へ戻ったのは、日が傾く頃でした。

助祭は僕の報告を読み終えるなり、顔色を変えました。


「……誇張はありませんね」

「する理由がありません」


僕がそう答えると、助祭は短く息を吐き、封書をもう一枚用意しました。

今度は小聖堂の仮印ではなく、西方司教座へ送る上申用の封印です。


「鐘は鳴らしません」

助祭は言いました。

「まだ、です」


その「まだ」が、僕にはひどく重かった。


鐘を鳴らさないということは、公にはしないということ。

けれど封書を上へ回すということは、もう小聖堂ひとつで抱えられる話でもないということです。


僕は窓の外を見ました。

曇天の下、荒れた巡礼路はどこまでも静かに伸びている。

その先で、銀髪の何かを守る者たちと、追う者たちが、もう同じ道の上へ乗っているのだとしたら。


光の秩序は、とっくにひび割れているのかもしれません。

それでも僕たちは、その割れ目へ名をつけ、封をして、遅れて追いかけることしかできない。


見習い修道士ルカ。

その日、僕が運んだのは奇跡の報せではなく、教会が現実に追いつかれ始めたという、ひどく冷たい確認でした。


帝国暦849年。冬。

旧巡礼路の影穴で見つかった灰色の痕は、この日ついに、聖教会の上層へ向けても送り出されたのです。

お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!

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