第65話:伏土の揺り籠、灰剣の返し荷 【セト】
ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。
眠れない夜ってのは、大抵ろくでもない発見を連れてくる。
旧巡礼路の影穴は、外から見ればただの岩穴だ。
だが中へ入ってしまえば、塩と鉛と湿った土の匂いが鼻の奥へべったり張りついて、まともな寝心地なんて一欠片もありはしない。
壁に打たれた鉛板は冷えすぎていて、背を預ければ熱を奪われる。
床に残る死塩は踏むたびにじゃり、と嫌な音を立てる。
おまけに今夜は、部屋の真ん中へ転がっている荷物が荷物だ。
片翼の黒泥を背負った銀髪の少女。
その少女を壁際に抱え込んだまま、半分気絶みたいに眠っている泥ネズミの運び屋。
ついでに、その右腕へ食い込んだまま、時々いやらしい脈を打つ灰色の聖剣。
こんな状況でぐっすり眠れる奴がいるとしたら、レオンみたいに場数で神経が摩耗してるか、リノみたいに馬鹿みたいな度胸をしてるかのどっちかだろう。
実際、入口側ではレオンが剣を抱いて浅く眠り、リノは壁際へ丸まりながらも、何かあればすぐ飛び起きられる姿勢のままだった。
ガルドはいびきこそ抑えているが、槍を手放していない。
ヴェルは眠っているのか起きているのか判然としない顔で、奥の壁へ凭れて目を閉じている。
セリアだけは高熱で浅く落ちていた。
で、そういう中で一人だけ、本当に眠れない役目が回ってくるのが僕だ。
だいたい毎回そうだ。便利屋の知識係なんて、寝不足込みで給料を上乗せしてほしい。
僕は小さく舌打ちして、携帯灯の蓋を半分だけ開けた。
橙の火が、足元の祈り石の欠片と、壁際の削れた文字をぼんやり照らす。
さっきセリアが見つけた手記は、白陽騎士団の監視記録だった。
だが、その裏にまだ別の層があるのが気になっていた。
教会の連中は、ただ何もない荒れ地へ影穴なんて作らない。
監視する価値があるから張る。
なら、その先にあるという伏土の窪みも、ただ風を避けるだけの地形じゃないはずだった。
僕は壁の端に残っていた鉛板の浮きを、ナイフの先で慎重にこじった。
ぱき、と乾いた音がして、細い釘が一本外れる。
その下から覗いたのは、灰色の石じゃない。
もっと黒い、油を吸ったみたいな土の筋だった。
「……やっぱりか」
指先でそっと撫でる。
乾いているのに、妙に粘る感触。
黒土教の祭場跡で一度だけ触ったことがある、祈りを吸った土だ。
教会は、黒土教の古い施設を潰して、自分たちの監視点を上から被せていた。
影穴はその残骸の上にある。
だったら、監視されていた伏土の窪みの正体も見えてくる。
僕は携帯灯を近づけ、土の筋に残る掠れた刻みを追った。
古い黒土教文字だ。
地方差の強い癖字だが、読めなくはない。
『器、裂けるときは土へ伏せよ』
『魂、浮くときは息を減らし、外の流れを断て』
『窪みは揺り籠、還すまで寝かせる場』
喉の奥がひやりと冷えた。
「揺り籠、ね」
避難所じゃない。
もっと性質の悪い、暫定処置の場所だ。
魂と器の噛み合わせが壊れかけた時、完全にほどける前に地脈の薄い窪地へ沈めて、外から入る流れを減らし、内側の擦れをやり過ごす。
治すんじゃない。
壊れ方を遅くするための寝かせ場所だ。
師匠ならこう言うだろう。
「根本解決ではない応急処置ほど、後で高くつくものはない」と。
僕は思わず、部屋の中央を見た。
眠っている少女の呼吸は浅い。
時々、胸が小さく跳ねるたびに、黄金の目の側と黒い目の側で、まぶたの震え方が噛み合っていない。
中で三人が擦れている。
あれは誰が見たってまともな状態じゃない。
今夜の影穴で少し落ち着いているのは、鉛板と死塩で外の流れが細っているからだ。
だが、この程度じゃ足りない。
もし伏土の窪みが本当に黒土教の揺り籠なら、あそこへ辿り着けば、少女の器は一時的には持ち直すはずだ。
問題は、その「一時的」の代金を誰が払うかだった。
僕は灰色の剣へ目を向けた。
泥ネズミの右腕から肩口まで、鈍い灰が細く走っている。
いつもは悪趣味な装飾にしか見えないその筋が、今夜は妙に規則正しく明滅していた。
少女の呼吸が乱れる時だけ、右腕の灰も脈打つ。
気のせいじゃない。
僕は背嚢から銅線と、白墨と、親指の爪ほどの観測石を取り出した。
高位魔術師なら鼻で笑うような、師匠仕込みの三流測量術だ。
だが、こういう「派手じゃないが外しにくい」調べ物に関しては、下手な宮廷術師よりよっぽど信用できる。
白墨で床へ細い半円を三つ描く。
一つは少女の足元。
一つは泥ネズミの右腕の先。
一つは影穴の奥、黒土の筋が濃く残る壁際。
それぞれを銅線で繋ぎ、中央へ観測石を置く。
「おい、セト」
低い声が落ちてきて、僕は肩を跳ねさせた。
いつの間にかヴェルが目を開いていた。
相変わらず死体みたいに気配が薄い魔族だ。
「起きてたのかよ」
「眠っていたら、お前が人の主君の器の周りで怪しい落書きを始めても止められないでしょう」
「落書きじゃない。まともな検査だ」
「まとも、ですか。お前基準では」
うるさい悪魔だ。
僕は舌打ちしながら、最後の線を繋いだ。
「騒ぐな。今、伏土の窪みが何か当たりを取ってる」
「ほう」
「教会の影穴は、あれを監視するための前哨だ。で、その窪みはたぶん避難所じゃない。器が割れかけた奴を土の流れで寝かせる、黒土教の揺り籠だ」
ヴェルの赤い目が、わずかに細くなった。
「……続けなさい」
僕は携帯灯の火を観測石へ近づけた。
石の中に、細い三本の線がぼんやり浮かぶ。
黄金、白、黒。
少女側から立ち上がる三色の揺れだ。
予想通り、互いにぶつかってひどく不安定に散る。
だが次の瞬間、泥ネズミの右腕側から、もっと鈍い灰色の筋が一本、そこへ割り込んだ。
三本をまとめて引っ張るみたいに、ゆっくり中央へ寄せていく。
「やっぱりそうか」
「何が見えた」
「剣だよ。あの灰色の剣が、もうただの武器じゃない」
僕は石の明滅を睨んだまま言った。
「あの子の中で擦れてる三人分のズレが、今は剣へ逃がされてる。
完全に受け止め切れてるわけじゃないが、少なくとも外へ撒き散らす前に一度まとめてる。
つまり、あの剣は今、器の継ぎ目を仮止めする杭の役をやってる」
ヴェルはすぐ答えなかった。
その沈黙が、肯定みたいで腹が立つ。
「そして?」
「そして、その杭は泥ネズミの右腕に刺さってる」
口にした瞬間、ぞっとするくらい腑に落ちた。
だからこそ、少女が乱れるたびに、こいつの右腕は鈍く脈を打っていたんだ。
剣が受けた分の残り滓を、預かり手の肉へ逃がしていた。
「今の状態でも、もう返し荷は始まってる」
僕は低く続けた。
「伏土の窪みは、たぶんその流れをもっと強く使う。外の流入を減らして、内側の擦れを土へ伏せる代わりに、まとめた歪みを剣へ流す。剣は受ける。で、その剣は泥ネズミに食い込んでる。……つまり、代償はこいつにも返る」
ヴェルが目を細めた。
「具体的には」
「高熱、感覚の鈍麻、夢の侵食。最悪、右腕の主導権が少しずつ剣寄りになる」
「随分と嫌な言い方ですね」
「嫌なもんは嫌なんだよ」
僕は唇を噛んで、銅線の一本を黒土の筋へずらした。
本当にそうなるのか。
そこまで確かめないと、ただの脅しで終わる。
観測石の光が、ひときわ強く脈を打った。
その瞬間だった。
壁際で眠っていた泥ネズミが、短く息を呑んで身を強張らせた。
右腕の灰が、骨の形を内側から浮かび上がらせるみたいに明るくなる。
同時に、少女の呼吸は目に見えて穏やかになった。
さっきまでちぐはぐだったまぶたの震えが、ほんの数拍だけ綺麗に揃う。
「っ、ぐ……!」
泥ネズミが呻いて目を開けた。
遅れてリノが跳ね起き、レオンも剣へ手をかける。
ガルドが槍の石突きを鳴らし、セリアが熱に浮かされたまま身じろいだ。
「な、何!? 何やったのセト坊!」
「騒ぐな、実験だ!」
「実験で済む顔じゃないでしょそれ!」
言われなくても分かってる。
泥ネズミの顔色は最悪だった。
右腕を庇うように抱え込みながら、歯を食いしばっている。
だが、その腕へ寄りかかった銀髪の少女は、さっきまでよりよほど安らかに眠っていた。
レオンが一歩前へ出て、観測石と僕の顔を見比べた。
「説明しろ、坊主」
「簡単に言う。伏土の窪みは隠れ家じゃない。器のズレを一時的に寝かせる黒土教の揺り籠だ。あそこへ行けば、この子は少し持ち直す」
「その代わりに、カイルへ返るわけか」
「そういうこと」
リノの顔から血の気が引いた。
「ちょっと待ってよ。じゃあカイルくん、あの子を落ち着かせるたびに削られるってこと?」
「今でも少しずつな。影穴の中ですらこれだ。伏土の窪みじゃ、もっとはっきり返る」
沈黙が落ちた。
誰もすぐには口を開かなかった。
この場にいる連中は、英雄譚で腹を満たせるほど馬鹿じゃない。
誰かを生かす処置に別の誰かの肉が要る、なんて話は、嫌になるほど見てきた顔をしている。
泥ネズミ――カイルは壁へ背を預けたまま、荒い息を整えていた。
右腕の灰はまだ薄く残っている。
けれど、痛みに顔を歪めながらも、真っ先に見たのは自分の腕じゃなかった。
胸元で眠る少女の顔だ。
「……落ち着いたのか」
かすれた声で、最初に出たのがそれだった。
本当に救いようがない。
「数拍だけな」
僕はぶっきらぼうに答えた。
「でも当たりは見えた。伏土の窪みへ着けば、一時安定はできると思う」
カイルは眉を寄せたまま、僕を見上げた。
「一時、ってのはどれくらいだ」
「分からない。数日か、もっと短いか。器そのものが育つわけじゃないし、元の身体が戻るわけでもない。ただ、外からの流れに振り回されて崩れる速度は落ちる」
「じゃあ行くしかねぇだろ」
即答だった。
リノが弾かれたように振り向く。
「いやいやいや、そこ即決するところ!? 返るって今言ったじゃん!」
「聞いてたよ」
「だったらもっと悩んで!」
カイルは困ったみたいに頭を掻こうとして、右腕が使い物にならないのを思い出したらしい。
顔をしかめて、代わりに左手で髪をぐしゃりと撫でた。
「悩んだところで、他に置き場がねぇんだろ」
「それは」
「俺は英雄様じゃねぇ。立派に世界を背負う趣味もねぇよ」
吐き捨てるみたいな声だった。
なのに、妙にまっすぐだった。
「でも、預かった荷を途中で泥ん中へ落とすほど、安くもねぇ」
その言葉に、部屋の空気がわずかに止まった。
リノが唇を噛み、レオンは目を伏せる。
ガルドが鼻を鳴らし、ヴェルだけがひどく冷静な顔のまま、少女の脈を確かめた。
「覚悟を決めるのが早すぎるのも、無能の一種ですよ」
ヴェルが淡々と言う。
「ただし、選択自体は正しい。今の器に必要なのは、完成ではなく猶予です」
「悪魔に褒められても嬉しくねぇな……」
カイルは肩を落とし、それでも少女を抱く腕だけは緩めなかった。
僕は観測石を拾い上げた。
石の中で、三本の揺れはまだ不安定だ。
ただ、さっきよりほんの少しだけ、灰色の線との繋がりがはっきり見えてしまっている。
見えてしまった以上、知らないふりはできない。
「一つだけ、勘違いするなよ」
僕はわざと冷たい声を作った。
「伏土の窪みは万能薬じゃない。着いた瞬間に全部解決、なんて甘い話はない。下手すりゃお前、数日ずっと熱に焼かれる。右腕の感覚が飛ぶかもしれないし、あの子の夢が流れ込んで寝ても休めないかもしれない」
カイルは鼻で笑った。
「今さらだな。最初からずっと、ろくでもねぇ荷運びだ」
「そういう雑な達観が一番嫌いなんだよ」
「知ってる」
そこで初めて、こいつは少しだけ笑った。
いつもの軽口みたいな笑いじゃない。
痛みをごまかすための、ひどく不格好な笑いだった。
レオンが壁から背を離した。
「なら、夜明けと同時に出る。坊主、窪みまでの見立ては」
「影穴の手記と黒土の筋が正しければ、南へ半日ちょい。裂け目沿いを下って、二本目の巡礼標を西へ折れる」
「追っ手の目も寄るな」
「寄る。教会がここを監視してた理由そのものだからな。見つからない場所じゃなく、見つけやすい場所を逆手に取った揺り籠だ」
ヴェルが短く頷く。
「結構。なら急ぎましょう。猶予は、考えているより短い」
その言葉に重なるように、少女が小さく身じろいだ。
黄金の目がうっすら開き、すぐ閉じる。
眠りの底から漏れた声は、誰とも言い切れない、混ざった音だった。
『……あったかいの、いまだけ』
リノが息を呑む。
カイルは何も言わず、ただ背を丸めた。
自分へ返ってくる痛みより、その一言の方がよほど堪えた顔だった。
僕は携帯灯の蓋を閉じた。
火が細くなり、影穴の中はまた鉛色の暗さへ沈む。
避難先が、目的地に変わった。
ただ隠れるためじゃない。
この継ぎ接ぎの器へ、少しでも次の朝を渡すために行く場所だ。
その代わり、泥ネズミの右腕には、剣ごと返し荷が積まれていく。
ひどく嫌な設計だと思う。
だが、僕たちが今さら綺麗な救済を期待していないのも事実だった。
帝国暦849年。冬。
旧巡礼路の影穴で暴かれたのは、次の避難所の位置だけじゃない。
伏土の窪みが三位一体の少女を一時的に寝かせる古い揺り籠であり、その猶予の代金が、灰色の聖剣を預かるカイルへ返ってくるという、あまりにも泥臭い仕組みそのものだった。
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