第63話:砕けた祈り石、白陽の影穴 【セリア】
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最初に鼻を刺したのは、湿った土の臭いでした。
次に来たのは、死塩と古い血が混ざった、忘れたはずの戦場の匂い。
私は重いまぶたをこじ開け、ひどく不機嫌な現実へ引き戻されました。
視界のすぐ下には、緑色の鱗。
揺れるたび、硬い骨と筋肉の感触が腹へ響きます。
どうやら私は、あの不浄なる蜥蜴男――ガルドの背中へ担がれたまま、狭い岩道を運ばれているようでした。
「……降ろしなさい、悪魔」
掠れた声で命じると、前を歩いていた泥臭い少年が振り返りました。
右腕に、あの忌まわしい灰色の剣を喰らい込ませた、神への冒涜そのものみたいな運び屋です。
「うわ、起きた。よりにもよって今かよ」
「貴様に向けて口を利く許可を出した覚えはありません」
「はいはい元気元気。熱で死にかけてるくせに口だけ達者だな、おい」
無礼極まりない。
ですが、言い返そうとして喉が焼けつくように痛み、私は舌打ちだけで済ませました。
裂けた岩肌の細道。
頭上はほとんど塞がれ、冬の光も細くしか差し込みません。
足元には、磨り減った石が半ば泥に埋もれ、ところどころに黒土教の祈り石らしきものが転がっている。
その上を、奇妙な一団が進んでいました。
先頭に隻眼の剣士。
横で黒衣の魔族が周囲を睨み、後ろには口の軽い踊り子の女。
魔法使いの小僧は息を切らしながら荷を抱え、そしてあの運び屋の背中には、銀髪の幼い少女がしがみついている。
あれを見るたび、胸の奥がざわつきました。
片翼だけの黒い泥の羽。
右は黄金、左は漆黒の目。
神の奇跡にも、魔の眷属にも似ていて、そのどちらにも収まらない異形。
本来なら、私が真っ先に斬り伏せるべき存在です。
けれど今の私は、剣を持つどころか、自分の体温一つまともに制御できない。
騎士失格もいいところでした。
「セリア、起きたなら自分で歩くか?」
ガルドが肩越しに言いました。
私は即答しました。
「誰が貴様の情けなど」
そこで、不意に少女の体がびくりと震えました。
運び屋の背で眠っていたはずの小さな指が、布越しに彼の肩へ食い込む。
同時に、空気がぴんと張り詰めたのです。
「止まってください」
声にしたのは、私でした。
考えるより先に口が動いていた。
一団が一斉に足を止めます。
黒衣の魔族――ヴェルが細い目をこちらへ向けました。
「ほう。まだ熱で寝言を言う気力があるのですか、狂信少女」
「黙りなさい。……その石に、近づいてはいけません」
私はガルドの肩越しに、道の脇へ転がる祈り石を睨みました。
泥に汚れ、百合めいた刻印の半分が欠けている。
一見ただの巡礼標です。
ですが、その裏側の縁に、私には見覚えのある細い傷が刻まれていました。
白陽騎士団の現地符牒。
異端審問局が討伐路を管理する時だけ使う、隠し印です。
「あれは黒土教の祈り石だけではありません。裏に、教会側の査閲印がある。
第三線、欠けた二本線、左落ち。……『未清掃の穢れあり。接触時は浄光針を確認』の印です」
運び屋が嫌そうに顔をしかめました。
「なんだそれ。分かりやすく言え」
「罠、ということです」
その瞬間、銀髪の少女が低く息を呑みました。
『……痛い』
エリスともシオンともつかない、混ざりかけた幼い声。
私は思わず息を詰めました。
あの異形が、祈り石の方を見ただけで怯えたからです。
ヴェルがすぐに少女の脈を確かめ、舌打ちしました。
「……なるほど。死んだ浄化術式がまだ残っている」
「残っているどころではありません」
私はガルドの背から無理やり降り、よろめきながら祈り石の前へ歩み寄りました。
膝は笑っていたし、視界も熱で滲んでいます。
それでも、これを見間違えるはずがなかった。
白陽騎士団では、異端を焼く方法だけでなく、異端が隠れた痕跡の読み方も叩き込まれます。
祈り石の欠け方。
死塩の撒き方。
浄光針を埋めた位置。
こちらが踏み込み、相手が逃げ込み、どこで狩るか。
そういう卑しい知識ばかりが、私の骨にまで染みついていた。
私は石の裏へ手を差し入れ、泥を掻き落としました。
すると、白く細い杭が一本、岩の隙間から覗きます。
「やはり」
それは光の術式を帯びた銀杭でした。
今は半ば腐食しているものの、異端のマナにだけ反応して突き刺さる、審問局製の浄光針です。
黒土教の巡礼路を潰すため、道しるべへ偽装して残されたもの。
「おいおい……そんなもんが今さら効くのかよ」
運び屋が顔を引きつらせます。
「完全には効きません。ですが、あの子には十分刺さる」
私は振り返り、銀髪の少女を見ました。
彼女は小さく身を縮め、運び屋の背で苦しそうに眉を寄せています。
その仕草が、人間の子供みたいにあまりにも弱々しくて、一瞬だけ言葉が詰まりました。
「抜けますか?」
レオンが静かに訊きます。
私は唇を噛みました。
抜けます。
抜き方も、壊し方も知っています。
訓練で嫌というほど教わったからです。
けれどそれは、本来なら異端を逃がさぬための知識。
今ここで私がそれを使うということは、教会が仕掛けた牙を、私自身の手で折るということでした。
神の光を守るために学んだ術を、不浄なる者どものために使う。
ほんの数ヶ月前の私なら、そんな自分を迷わず斬っていたでしょう。
「セリア」
不意に、ガルドの低い声が背後から落ちました。
責めるでも、急かすでもない声でした。
私は目を閉じ、奥歯を噛み締めました。
思い出すのは、焼け落ちた泥濘の聖堂です。
光の名の下に押し潰されていった祈り。
そして、神は絶対だと叫び続けた私の、あまりに狭い世界。
「……この針は、根元から抜いてはいけません」
気づけば、私は説明していました。
「術式が死にきっていない。雑に引けば、残光が弾けて周囲へ散ります。
石を右へ半回転、下の噛み合わせを外してから、杭だけ横へ滑らせるのです」
ヴェルが片眉を上げます。
「随分と実務的ですね」
「黙って見ていなさい、悪魔」
私は祈り石へ両手をかけ、熱で震える指に力を込めました。
重い。
けれど回る。
ぎり、と石が鳴る。
その下で銀杭が白く瞬き、少女が背後で小さく呻きました。
「あと少しだ、セリア」
誰が言ったのか、一瞬分かりませんでした。
たぶん、踊り子の女だった気がします。
私は答えず、さらに石を捻りました。
噛み合わせが外れた感触。
そこへ指を差し入れ、銀杭を横へ滑らせる。
ぱきん、と乾いた音がして、杭の先端が折れました。
同時に、道に張りついていた嫌な緊張が、ふっと抜けていきます。
運び屋の背の少女も、苦しげな息を一つ吐いて、ようやく肩の力を緩めました。
『……まし』
その小さな声に、私は肩を落としました。
助かった、と感じた自分に、ほとほと嫌気が差しながら。
ですが、異変はそれだけで終わりませんでした。
針を抜いた石の底で、薄い空洞音が返ったのです。
私は眉をひそめ、周囲の岩壁へ視線を走らせました。
祈り石、死塩、浄光針。
さらに、その先の岩の割れ目に、白陽騎士団の補給符。
「……そういうこと」
「何が分かった」
レオンの問いに、私は壁の一角を指差しました。
「ここは、ただ巡礼路を潰すための罠だけではありません。
教会側が張っていた監視の影穴です。異端が現れた時、少人数で潜んで待つための、半地下の小部屋がこの先にある」
「そんなもんまで分かるのかよ」
「分かります。私たちが作ったからです」
声が少し、掠れました。
私は壁際の割れ目へ近づき、崩れた石を二つ、三つ退かしました。
すると、土に埋もれていた鉄環が現れる。
それを引くと、岩壁の一部がごり、と内側へずれました。
中から流れ出てきたのは、冷えた空気と、古い塩の匂い。
人が三、四人も入ればいっぱいになるほどの、小さな半地下室でした。
棚は朽ちていますが、壁には鉛板が打たれ、床には死塩が残っている。
外のマナを遮るだけなら、十分です。
ヴェルが中を一瞥し、珍しく感心したように呟きました。
「……悪くない。少なくとも今夜の器の均衡には使えます」
運び屋がその場にへたり込みました。
「助かった……。マジで助かった……」
私はその言葉を聞かなかったふりをしました。
代わりに、部屋の奥の壁へ刻まれた古い文字へ目を向けます。
白陽騎士団の手記です。
半分は削れていますが、まだ読める。
『南方第二影穴。巡礼群、さらに南の伏土の窪みへ退避せし形跡あり』
私は目を細めました。
「伏土の窪み……」
「知っているのですか?」
ヴェルが訊きます。
「名だけは。黒土教の古い避難所です。巡礼路の中でも、外から見えにくい窪地にある」
リノが顔を上げました。
「そこ、次に向かえそう?」
「すぐには無理です。ですが、道は繋がっています」
私は壁の傷をなぞりながら答えました。
「この影穴は、そこを監視するための前哨。つまり逆に言えば、この先を辿れば『伏土の窪み』へ近づける」
その時、銀髪の少女が運び屋の背からそっと顔を上げました。
黄金の目が薄く開き、壁の文字をぼんやり見つめる。
『……そこ、覚えてる』
エリスのものに近い、柔らかな声でした。
ですがその奥に、別の二人の気配も揺れている。
部屋の空気がしん、と静まり返りました。
「では決まりですね」
ヴェルが低く言います。
「今夜はここで器を休ませる。夜明け後、南の伏土の窪みへ向かう」
誰も異論を挟みませんでした。
運び屋は床へ崩れ落ちたまま頷き、レオンは出入口の確認へ向かい、ガルドは無言で私の隣を通り過ぎる時に、ほんの少しだけ肩を貸しました。
私はその厚意に礼を言いませんでした。
言えば、何かが決定的に変わってしまいそうだったからです。
神の名の下に隠された影穴。
異端を狩るために作られた小部屋。
そこで今、私たちは、守るために息を潜めている。
あまりにも皮肉で、あまりにも不敬です。
それでも、銀髪の少女の呼吸が少しだけ穏やかになっていくのを見て、私は目を逸らせませんでした。
白陽騎士団、第七位階騎士セリア。
その手は今日、初めて神の敵を焼くためではなく、逃がし、生かし、導くために動きました。
帝国暦849年。冬。
砕けた祈り石の先で、保護線は次の影へ辿り着いた。
そして私もまた、自分が何を守り、何を壊し始めているのかを、もう見ないふりでは済ませられなくなっていました。
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