第62話:塩路の拾い子、白百合の追跡者 【ハロ】
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灰嵐が止んだ後の廃宿は、金になる。
まともな商人ならそんな場所に近づかないけど、まともじゃない荷漁りにとっては、むしろ掘り出し物の山だ。
死塩にまみれた板切れ。
割れた風見鶏。
旅人の骨からまだ外れていない革紐。
そういうのを拾って南の行商崩れに流せば、薄い粥くらいは腹に入る。
だから俺は、夜明け前の薄青い空の下、誰より先に旧塩商路の脇道へ潜り込んでいた。
名前はハロ。
歳は十三だ。
昔は親父が塩運びの下働きをしていたらしいけど、俺が覚えているのは、骨みたいに痩せた母親が「灰の風が止んだ直後だけは道へ出るな」と何度も言っていたことだけだ。
もっとも、その母親も三年前の飢えで死んだ。
だから今は、止むなと言われた風の直後を狙って、俺はこうして死にかけの道から金目のものを漁っている。
その朝の狙いは、『塩鳴亭』の北にある崩れた見張り台だった。
昨日の夕方、灰嵐が吹く直前に、あっちで妙な光が見えたのだ。
雷でも焚き火でもない、金と黒がぐちゃぐちゃに混じった、嫌な色の光。
こういう時はたいてい、馬鹿な旅人が荷でも落としている。
崩れた石垣の間を這い上がり、見張り台の陰に体を滑り込ませた時、俺は足を止めた。
足跡があった。
一人や二人じゃない。
重い荷を背負った大人の深い靴跡。
剣を引きずったみたいな筋。
獣人じみた、爪の尖った足跡。
それに混じって、小さいのに妙に踏み込みの浅い、子供みたいな跡が点々と続いている。
おかしいのは、その小さな跡の周りだけ、灰の上に薄い霜みたいな白が浮いていたことだ。
荒野の冬なんてどこも寒いが、足跡の縁だけがきれいに白く凍るなんて、見たことがない。
俺はしゃがみ込み、そっと指先でそこを撫でた。
冷たかった。
ただの朝露じゃない。指の腹の奥まで刺すような、骨の芯に沈む冷たさだった。
「……なんだよ、これ」
その時だった。
背中のすぐ後ろで、泥を踏む音がした。
柔らかいのに、逃げ道を全部塞ぐみたいな足音だった。
俺は反射で腰の小刀に手をかけ、振り返った。
そこに立っていたのは、黒ずんだ外套を羽織った女だった。
年は、たぶん若い。けれど若く見えない。
頬はこけ、灰を浴びた髪は乱れているのに、背筋だけが刃みたいに真っ直ぐだった。
泥で汚れた裾の奥から覗く指先は細く、その右手には、擦り減った短刀が逆手に収まっている。
何より怖かったのは、その目だ。
泣き潰した目でも、怒鳴り散らす目でもない。
何か一つだけを見続けすぎて、他のものを全部置いてきた目だった。
「その足跡を、いつ見つけましたか」
声は静かだった。
なのに、喉元へ刃を当てられたみたいに背中が強張る。
「し、知らねえよ。今来たばっか」
「嘘です」
女は一歩、近づいた。
俺は一歩、下がろうとして、背中を石壁へぶつけた。
「貴方の膝に付いている塩粉は、見張り台の上段のものです。
そこから先に、何を見ましたか」
俺は口を噤んだ。
こういう時、喋るとろくなことにならない。
昔からそうだ。兵隊にも、盗賊にも、飢えた旅人にも、余計なことを言った奴から死ぬ。
女の視線が、足元の霜の跡へ落ちた。
その瞬間、彼女の表情がほんの少しだけ変わった。
胸元へ手を差し入れ、何かを取り出す。
白く透き通った、小さな欠片だった。
百合の花びらみたいな形をしているのに、周りの空気だけがひやりと冷える。
彼女がそれを足跡の上にかざした途端、欠片の先が、まるで方角を知っているみたいに南へ傾いた。
俺は息を呑んだ。
女の方も、それで何か確信したみたいだった。
「……やはり」
その声の方が、さっきよりずっと怖かった。
俺はたまらず叫んだ。
「ま、待て! 何も盗んでねえ! 俺はただ、見ただけだ!」
「なら、見たことを順に話しなさい」
短刀の切っ先が、俺の喉元へぴたりと止まる。
押しつけてはいない。ただそこにあるだけだ。
なのに、あと少しでも余計なことを言ったら、俺の首は何の迷いもなく裂かれると分かった。
「お、俺は昨日の灰嵐の前に、ここの上から見ただけだ」
喉が鳴る。
言葉が勝手に口から零れ落ちていく。
「大人が何人かいた。でっかい剣を持ったのと、黒い服の細いのと、変な槍を背負ったデカい影。あと、女が一人と、ガキみてえな男が一人……いや、男かどうか分かんねえけど、とにかく小汚えのが一人」
なぜか最後だけ、背中にぞくりと寒気が走った。
あの女の目が、ほんのわずかに細くなったからだ。
「続けなさい」
「そ、その小汚えのが、銀髪の子供を背負ってた。
最初は怪我人かと思ったけど、違う。片っぽだけ、黒い布みたいなのが垂れてて……翼、みたいに見えた」
女の手の中の欠片が、ぴしりと小さく鳴った。
白い表面を、薄い霜が一筋走る。
「その子供は、喋りましたか」
質問の形をしていたが、声はもう決めつけに近かった。
「き、聞こえた。風でよく分かんなかったけど……笑ってるみたいでも、泣いてるみたいでもあった。
一回、声が重なってた。ガキの声なのに、何人もいっぺんに喋ってるみたいで……」
思い出しただけで、胃が縮む。
あの時の俺は、見張り台の隙間に頭を押し込んで、息もできずに震えていた。
まともな旅人じゃない。あんなの、道が産んだ怪談の類だ。
しかも、妙だったのはそれだけじゃない。
「背負ってた小汚えの、ずっと文句言ってた。重いとか、腕が取れるとか。
なのに、背中の子供に袖を掴まれた途端、急に黙ったんだ。でかい剣の男に怒鳴られても、黒い服の細いのに何か言われても、結局そいつが真ん中から離れなかった」
女の眉が、ごくわずかに寄る。
「……外部アンカー」
何を言ったのかは分からなかった。
けれど彼女の中で、ばらばらだった何かが、今のでまた一つ繋がったのは伝わった。
「あと、女が一人、妙に明るい声で笑ってた。灰嵐の前だってのにだ。
でも笑ったあと、すぐその銀髪の方を見て……泣きそうっていうか、怒りそうっていうか、変な顔してた。
みんな、あの子供を中心に動いてた」
そうだ。
あの一団は、誰か一人を守っている歩き方だった。
逃げている癖に、荷物を庇う時みたいに、真ん中の小さい影だけは絶対に風へ晒さないようにしていた。
「それで?」
「塩鳴亭に入った。だけど夜のうちにまた出たんだ。
まっすぐ南へじゃない。旧道の石杭を三つ越えたところで、本道を外れてた。
崩れた祈り石の方だ。昔、黒土教の巡礼が使ってたって噂の、細い裂け道」
女の瞳が、そこで初めてはっきり動いた。
「巡礼標の残骸が、まだ立っているのですね」
「半分埋まってるけどな。百合みてえな刻印が欠けて残ってる。
塩運びの連中は縁起が悪いって近寄らねえ。俺も、あんまり行かねえ」
「そこへ向かった理由は」
「知らねえよ! でも、黒い服の細いのが石を撫でてた。
それから、背負ってたガキが騒いで……銀髪の子供の方が、そっちを向いた。あいつら、道を探してるっていうより、最初からそこを目指してた」
女は短刀を下ろした。
力が抜けそうになる俺の前で、彼女は足跡と白い欠片を見比べる。
欠片の尖った先は、相変わらず南南西を向いたままだった。
「……足跡の冷えと共鳴するのですね」
その呟きは、ほとんど独り言だった。
彼女はしゃがみ込み、霜の残る小さな足跡へ自分の指を触れさせた。
その指先が、ためらいなく泥の上をなぞる。
まるで追い慣れた猟犬みたいに。
「貴方、その裂け道まで案内できますか」
「は?」
間抜けな声が出た。
行きたくない。行けるけど、行きたくない。
あの先は、荷漁りの子供が近づいていい道じゃない。
俺が黙っていると、彼女は懐から小さな革袋を投げてよこした。
受け損ねて地面に落ちたそれを拾うと、中には塩貨が三枚入っていた。
こんな額、三日どころか十日は食える。
「案内は、裂け道の入口まででいい。
そこから先は、貴方は来なくていい」
「……行かなきゃ、殺すのか」
自分でも馬鹿なことを聞いたと思った。
だが彼女は少しだけ黙ってから、妙に平坦な声で返した。
「今は殺しません。
貴方より先に、追うべき相手がいるので」
慰めにも何にもならなかった。
むしろ、その順番だけで生き残っているのだと分かって、余計に足が震えた。
結局、俺は女を連れて歩いた。
見張り台から南へ。
崩れた石杭を二つ、三つ。
死塩の溜まる窪地を避け、割れた荷車の残骸を越え、最後に半ば砂へ呑まれた巡礼標の前で立ち止まる。
歩いている間、女はほとんど喋らなかった。
ただ何度か屈み込んでは、泥の上の掠れた跡へ欠片をかざした。
欠片は足跡の濃い場所でだけ、白く曇る。
風でほとんど消えた場所でも、彼女は迷わず進んだ。
見えていないはずの跡を、別の感覚で拾っているみたいだった。
一度、割れた岩棚の前で俺が進路を間違えかけた時も、女はすぐに首を振った。
「違う。こちらではありません」
「なんで分かるんだよ」
「冷え方が途切れています」
それだけ言って、彼女は欠片の先を見た。
俺にはただの石と灰の道にしか見えないのに、彼女にとってはもう、追うべき線が一本くっきり浮かんでいるらしかった。
石柱には、確かに百合に似た刻印が残っていた。
その半分は削れ、もう半分は泥で埋まっている。
だが女の手の中の欠片は、それに近づいた瞬間、凍えるみたいに白く光った。
彼女は息を呑み、裂け目の向こうを見た。
荒野の岩肌が割れ、獣道より少し広いくらいの細い下りが、南へ向かって伸びている。
灰は薄く、風は弱い。大勢で隠れて進むには、たしかに都合がいい。
「ここです」
俺が言うと、女は頷いた。
それだけだった。
礼もない。愛想もない。だが、もう十分だった。これ以上あの目で見られたくない。
彼女は巡礼標の根元にしゃがみ込み、欠片を地面へ近づけた。
すると白い冷気が、細い糸みたいに裂け道の奥へ伸びる。
足跡は風で半分消えかけていたのに、その糸だけは迷わず先を指していた。
「見つけた」
初めて、女の声に熱が混じった。
怒鳴り声でも嗚咽でもない。
獲物の匂いを捉えた刃物みたいな、細い熱だった。
彼女は立ち上がり、俺の方を振り向いた。
「今日ここで見たことは、誰にも言わない方がいい」
「言うわけねえだろ……」
「賢明です」
それだけ残して、彼女は裂け道へ足を踏み入れた。
黒い外套の裾が揺れ、泥をほとんど跳ね上げない。
人が歩いているのに、道の方が自分から彼女へ開いていくみたいに見えた。
数歩先で、彼女は胸元の欠片を握り直した。
白い冷気の筋が、彼女の進む先へぴたりと沿う。
もう迷っていない。
あの女は、ただ憎しみで歩いているんじゃなかった。
あの欠片と足跡と巡礼標、全部を一本に繋いで、追うための道に変えてしまったのだ。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
手の中の塩貨は重かったし、朝の風は冷たかった。
なのに、背中だけは妙な汗でじっとり濡れている。
旧塩商路じゃ、色んな奴を見てきた。
飢えた兵隊も、盗賊崩れも、教会の犬も、道端で死んだ巡礼者も。
けれど、あんな奴は初めてだった。
あれは旅人じゃない。
亡霊でも、兵隊でも、聖女でもない。
ただ一つの足跡だけを、この世の終わりまで追い続けるために立ち上がった、白百合の形をした刃そのものだった。
帝国暦849年。冬。
忘却の荒野の南で、復讐者はついに、怒りを道筋へ変えた。
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