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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第61話:灰色の観測網、歩き出した案件 【ヴェイン】

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嫌な予感というものは、たいてい当たる。

しかも、僕みたいな下っ端が「外れてくれ」と祈った時に限って、最悪の形でだ。


帝都の軍事塔、その最上層に増設された特務室の仮観測室。

冷えきった石の床の上には、遠見の水晶、盗品の教会製観測鏡、各地の中継塔から届いた暗号羊皮紙が、足の踏み場もないほど散らばっていた。


忘却の荒野で、ファウストが棺桶ごと吹き飛んでから数日。

西の空では、あの時に生じた異常なマナの歪みが、今も断続的に観測され続けている。

軍の上層部は「魔力空白地帯で起きた大規模な自然崩壊現象」と片付けたが、ゼクス室長だけは最初から、その綺麗な結論をまるで信じていなかった。


だから僕は今、三日三晩ろくに寝ないまま、帝国西方の観測報告を延々と仕分けさせられている。

残滓か、兆候か。

偶発か、移動体か。

帝国が見て見ぬふりをしたい「事故」と、特務室が嗅ぎつけたい「案件」を、胃を痛めながら選り分けるのが、今日の僕の役目だった。


「……また、これか」


僕は魔導通信機から吐き出された羊皮紙を拾い上げ、乾いた唇を舐めた。


『北西第六中継塔より報告。

灰色の発光体を確認。高度低し。軌道不規則。

荒野南縁の廃墟群を、停止と移動を繰り返しながら南進中――』


同じ時刻、別経路から届いた報告書には、こうある。


『塩運びの私設見張り台より。

夜半、廃宿付近にて、子供ほどの小型熱源一、成人大熱源複数を観測。

うち一つは片側にのみ翼状反応あり。

灰嵐の中で一度消失するも、二刻後に再出現――』


さらに、荒野南東を回ってきた荷無しの隊商崩れは、酒に酔ったままこんな妄言を吐いた。


『灰の中を、大人が何人か歩いてた。

真ん中には、銀髪のガキみてえなのがいた。

泣いてるみたいでもあり、笑ってるみたいでもあった――』


僕の喉がひゅっと鳴った。


偶然、ではない。

残留マナなら、風向きに引きずられて拡散する。

まして魔力の薄い忘却の荒野の南縁で、「止まり」「動き」「再出現する」など、ただの余波であるはずがない。


問題は、それだけではなかった。


机の隅に追いやっていた、教会系の暗号文を引き寄せる。

特務室が勝手に盗聴している北方聖堂の観測回線だ。

普段は異端信徒の移動か、しみったれた巡礼者の噂しか流れないそこに、今朝方から妙に切羽詰まった符牒が混じっていた。


『黒翼の幼体を思わせる波形を確認。

浄光、祈念、汚染の三波長が同時検出。

奇跡認定、保留。異端等級、暫定第一種――』


「……三波長?」


僕は反射的に、近くの観測水盤を覗き込んだ。

薄青い水面の上で、帝国西方の簡易地図がぼんやり浮かび上がっている。

その中で、荒野の南縁を示すあたりだけが、細い灰色の筋を引きながら、じりじりと位置を変えていた。


一つの光ではない。

複数の人影が、まるで一つの塊を庇うように固まって動いている。

そして、その中心にある小さな反応だけが、時折、金色と黒色の二色にぶれていた。


ぞわり、と背筋が粟立った。


浄光の残滓。

黒土教系の祈念波形。

それに、泥や魔王核の汚染反応に似た、ひどく粘ついた暗い揺れ。


僕はその並びを知っていた。

三年前、帝都崩落の直前に特務室へ押し込められた秘匿記録の中に、似た組み合わせを一度だけ見たことがある。

英雄、聖女、魔王。

絶対に同じ器で共存するはずのない三つの名前だ。


本来なら噛み合わないものが、無理やり一つの器に押し込まれて、今にも裂けそうになりながら動いている。

その異様さは、観測越しですら吐き気がするほどだった。


「嘘だろ……」


ファウストの爆発で終わったはずの西の異変は、終わってなどいなかった。

何かが、生き延びている。

しかも、それはただの戦場の生存者じゃない。

あの荒野でぶつかった聖剣と卵、その両方の余波を、まだ体内に抱えたまま歩いている何かだ。


僕は震える指で、別の観測鏡の焦点を合わせた。

ノイズだらけの光の向こう、半壊した宿跡らしき場所の前で、一瞬だけ像が結ぶ。


ぼやけた輪郭。

背の高い人影。

その背にしがみつく、小さな銀色。

そして、片側にだけ垂れた黒いもの。


像はすぐに乱れ、灰嵐の幕に呑まれて消えた。

だが、見間違いではない。

あれは瓦礫でも、光の残像でもない。

誰かが、何かを運んでいる。


しかも教会まで同じものを嗅ぎつけ始めているとなれば、もう「異常現象」で済ませられる段階じゃない。

早晩、帝国軍、聖教会、異端審問局、残っている西方商人たちの噂網まで、全部が同じ一点へ吸い寄せられる。


「最悪だ……」


僕は報告書の束をかき集め、半ば転がるように観測室を飛び出した。

冷えた螺旋階段を駆け下りるたび、脇腹が痛む。

胃のあたりもきりきりする。

ゼクス室長に報告しなければならない。

だが、報告したら報告したで、もっと碌でもないことになるのは分かりきっていた。


特務室の執務室の前に辿り着いた時には、息が完全に上がっていた。

それでも扉を叩き、返事を待たずに中へ飛び込む。


「室長! 西の観測案件に進展が――」


「遅い」


低い声が、薄暗い室内の奥から返ってきた。


ゼクス室長は窓辺の長椅子に腰掛け、片手に酒瓶、もう片手に帝国西方の地図を持っていた。

机の上には、すでにいくつもの赤い待ち針が打たれている。


「お前が半泣きで飛び込んでくるまで待っていたら、朝になってしまうところだったぞ、ヴェイン」


「待っていた、って……まさか、もう把握して」


「教会の観測鏡が、今朝から妙に騒がしい。

お前が拾ってくると思って先に地図を広げていただけだ」


この人は、本当に、部下の胃に穴を開けることを趣味にしているのではないか。


僕は息を整える間も惜しんで、報告書を机の上へ広げた。


「荒野の異常は残滓ではありません。移動しています。

少なくとも五つの中継点で、同じ反応が連続して観測されました。

複数の成人大熱源と、中心に子供ほどの小型熱源。

しかも、浄光、祈念、汚染が三重に重なった、あり得ない複合波形です」


室長の口元が、ゆっくり歪む。


「ほう」


「それだけじゃありません。教会側も、同じ対象を『黒翼の幼体』として認識しかけています。

このままだと、軍の観測班より先に教会が異端案件として動くかもしれません」


僕は二枚の羊皮紙を並べ、震える指で進路をなぞった。


「ここです。荒野南縁の廃墟から、旧塩商路の中継宿跡へ。

移動速度は遅いですが、確実に南へ寄っています。

しかも、一度だけ外部マナの流入に反応して、中心熱源が大きく乱れています。これはただ運ばれている遺物じゃない。

向こうも不安定です。だからこそ、逃げながら、外から安定する場所を探している」


そこまで言って、僕は自分の口から出た結論に、ぞっとした。


「……人、なんでしょうか」


室長は酒瓶を置き、僕がなぞった線の先へ視線を滑らせた。

旧塩商路。

そのさらに南。

黒土教の巡礼が、数年前まで密かに使っていたという、いくつもの消えかけた道筋。


「遺物と人間の中間だろうな」


室長は愉快そうに、けれど前よりずっと静かな声で言った。


「聖剣の不良債権、卵の成れの果て、神話級の残り火。

あの荒野でぶつかった規格外どもが、都合よく全部死ぬはずがないとは思っていたが……。

なるほど。瓦礫に埋もれた死体じゃなく、歩き出したか」


僕の胃がきゅっと縮む。


「では、どうしますか。討伐隊を?」


「馬鹿を言うな」


室長は笑った。

だが、いつものように派手に腹を抱えてではない。

盤上の駒が、想定より少し面白い形で転がった時のような、底冷えのする薄笑いだった。


「今あれに触れば、また割れる。

割れた破片は拾えんし、教会にも軍にも血の臭いを撒き散らすだけだ。

いいか、ヴェイン。今回の肝は回収でも討伐でもない。まずは『どこへ向かうか』だ」


室長の長い指が、地図の上をするりと滑る。

旧塩商路から、忘れられた黒土教の巡礼路へ。


「あの複合波形が、外から揺り籠を必要としているなら、向かう先は一つだ。

黒土教の残り火か、巡礼の痕跡か、魂を外から支える仕組みを知っている場所。

連中は逃げているんじゃない。必要な場所へ運んでいる」


僕はごくりと唾を飲み込んだ。


「つまり、追跡に切り替えると」


「ようやく話が早くなったな」


室長は立ち上がり、机の脇に置いてあった黒革の台帳を開いた。

白紙の頁に、細いペン先でさらさらと文字を書く。


『西方異常残滓』という仮題に、横線が一本引かれる。

その上へ、新しい件名が記された。


「件名を修正しろ。これはもう残滓じゃない。

――『灰燼の揺り籠』だ」


その言葉だけで、背筋が冷えた。

ただの観測記録だったものに、名前がついた瞬間。

それは帝国の底で、追うべき獲物に変わってしまう。


「……前みたいに、燃やして終わりにはしないんですね」


僕が思わず漏らすと、室長は薄く目を細めた。


「燃やしたところで、今度の灰は歩く。

なら、見失わないよう印をつけるだけだ」


あまりに当然のように言われて、僕は返す言葉を失った。


室長は次々と指示を飛ばした。


「西方観測の全報告は、今この瞬間から正規回線を経由させるな。必ず特務室の裏回線へ迂回しろ。

軍には『荒野南縁における残留発光の南下傾向』とだけ流せ。人影と複合波形の項目は削除だ。

教会には、灰嵐と死塩の干渉で観測誤差が出ていると匂わせろ。異端認定を急がせるな」


「は、はい!」


「それから猟犬を三本。だが接触は禁止だ。

見るだけにしろ。脅かすな。追い立てるな。助けるな。

旧塩商路、南縁の廃宿、黒土教の旧巡礼標、その三点に目を置け」


「……捕まえないんですか?」


「巣穴の見えない獣を、途中で慌てて捕まえる馬鹿がいるか」


室長は、僕の目を真っ直ぐ見た。


「今はまだ、あれ自体が地図だ。

何を求め、どの道を選び、誰を頼ろうとするか。

そこまで見えて初めて、盤面になる。

逆に言えば、そこまでは誰にも触らせるな」


僕は言葉を失った。

目の前の男は、相変わらず狂っている。

だが、その狂気は以前よりもずっと具体的で、冷たかった。

英雄の生存報告を笑って燃やした頃よりも、ずっと「次の交差点」を見ている目だった。


室長は書き終えた台帳を閉じ、窓の外へ顎をしゃくった。

白銀の英雄像が、冬の曇天の下でぼんやり光っている。


「面白くなってきたじゃないか、ヴェイン。

死んだ神様の残り火が、今度は子供の形で歩き出した。

しかも、それを背負っているのが、あの泥街のガキどもらしいときた」


「やっぱり、人が運んでいる前提なんですね……」


「当然だ。瓦礫は巡礼路を選ばない」


室長はそう言って、薄く笑った。


「台帳を更新しろ。

西方の件は、今日から『事故』ではなく『案件』だ」


帝国暦849年。冬。

忘却の荒野で生まれた異常は、この日、帝国軍情報部特務室の底で、初めて名前を与えられた。


誰かが必死に守っている小さな揺り籠は、まだ帝国の誰にも正体を知られていない。

それでも一度「案件」と呼ばれた瞬間から、それはもう、ただの生存や逃走では済まされない。


盤上の駒は、また一つ増えた。

そして最悪なことに、その駒は、まだ歩いていた。

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