第60話:灰のゆりかご、泥ネズミの背中 【カイル】
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「……重っ。なんで寝てるだけで重くなるんだよ、このキメラ幼女」
俺は、崩れた石壁に背中を預けたまま、膝の上で丸くなっている銀髪の少女を見下ろして、心の底からうんざりした。
忘却の荒野の南縁。半分砂に埋もれた古い隊商宿の廃墟。
天井はほとんど抜け落ち、石組みの隙間から吹き込む冬の風が、夜通し、骨の芯まで噛みついてきていた。
あの荒野で大爆発が起きてから、もう数日。
俺たちは昼は岩陰を縫って進み、夜はこういう潰れかけの廃墟に潜り込んで、どうにか生き延びている。
問題は、俺の右腕に吸い付いたままの『灰色の聖剣』だけじゃない。
その剣の元の持ち主たちが、今はこの小っこい体の中に三人まとめて詰まっているという、世界で最悪の状況までセットで付いてきたことだ。
見た目だけなら、ただの十歳くらいの女の子だ。
ぼさぼさの銀髪。閉じたまぶた。折り畳まれた片方だけの黒い翼。
だが、油断すると中身が「元英雄」「元聖女」「元魔王」に順番で入れ替わる。
そんなもんを膝に乗せたまま寝ろと言われて、安眠できる奴がいたら顔を見てみたい。
「文句を言う元気があるなら、まだ死ななそうね」
焚き火代わりに熾した小さな魔法灯の向こうで、リノが土臭い湯気の立つ椀を差し出してきた。
中身は、昨日ガルドのおっさんが掘り起こした干からびた根菜と、セト君が無理やり沸かした泥臭いスープだ。
「死にそうだから文句言ってんだよ。つーか、なんでアタシ……じゃねえ、なんで俺が、こいつの寝床になってんだ」
「アンタの右手が一番相性悪くて、一番相性いいからでしょ」
「意味分かんねえよ」
リノは肩をすくめ、俺の膝の上の少女を覗き込んだ。
「朝方、アタシが抱えたら左半身だけ泥になりかけたのよ。レオンのおっさんが背負ったら、今度は右目だけギラギラ光り始めたし。ヴェルりんが触った時なんて、三人まとめて『うるさい腰巾着』ってキレてたじゃない」
「笑えねえよ!」
壁際では、レオンのおっさんがボロ布で大剣を拭い、セト君は空になりかけた薬瓶を並べながら、胃の痛そうな顔で何かを計算している。
入り口に近いところでは、ガルドのおっさんが骨槍を抱えたまま外を睨み、少し離れた場所では、熱に浮かされたセリアが毛布にくるまって浅い息を繰り返していた。
誰も彼も満身創痍だった。
俺だけが特別ひどいわけじゃない。
だが、俺にだけは、右腕に食い込む神様と、膝の上で寝息を立てる神と魔王の合成ガキという、意味の分からない二重負債が乗っていた。
その時、膝の上の少女の指先が、ぴくりと動いた。
「おい」
俺が身を引くより先に、少女の黄金の右目が薄く開いた。
ぼんやりした視線が俺の顔を捉え、次の瞬間、ひどく申し訳なさそうに眉尻が下がる。
『……カイル君。すみません。重い、ですよね』
エリスの声だった。
柔らかくて、こっちが怒鳴る気をなくすような声。
「あ、いや、重いっていうか……その……普通に重い」
『正直で結構です』
今度は、左目がカッと開いた。
漆黒の瞳。口元だけが、にやりと吊り上がる。
『うるさいわね、ドブネズミ。英雄と聖女と魔王をまとめて背負えるんだから、光栄に思いなさい』
「誰が思うかッ!」
さらに、その顔のまま鼻に皺が寄った。
声音だけが、がらりと荒っぽく変わる。
『つーか、揺らすな。背中が痛ぇんだよ、この宿代も払えねえ貧民』
「誰のせいでこうなってると思ってんだ、大馬鹿野郎!!」
俺が思わず怒鳴り返すと、少女の顔が右半分だけ困り、左半分だけ苛立ち、真ん中だけ不機嫌そうに歪んだ。
見ているこっちの頭がおかしくなりそうだ。
「朝から騒々しいですね」
黒い法衣を整えながら、ヴェルが嫌味たっぷりに割って入ってきた。
その目の下には、ここ数日で刻まれた隈がくっきり浮いている。
「いいですか、カイル。貴方の右腕とその器は、今や仮の回路で繋がっています。灰色の聖剣は彼女ら三人の残滓に反応し、彼女ら三人の器は灰色の聖剣の波長にだけ辛うじて耐えている。つまり」
「つまり?」
「貴方は今、歩く揺り籠です」
俺は椀を取り落としかけた。
「は?」
「もっと分かりやすく言えば、その子を地面に放っておくと、器が勝手に外のマナを拾って、また三人格が主導権の奪い合いを始める可能性が高い、ということです」
「分かりやすくなってねえよ! 余計怖くなっただけだろ!」
ヴェルは俺の悲鳴を無視して、崩れた壁の外を見やった。
「ここももう限界です。荒野の底を流れる枯れた霊脈が、日の出と共に僅かに逆流し始めている。これ以上この廃墟に留まれば、器の均衡が崩れる」
「じゃあどうすんだ」
答えたのは、レオンのおっさんだった。
「南へ半日。昔、塩商人が使ってた中継宿がある。『塩鳴亭』って呼ばれてたボロ宿だ。地下の貯蔵庫は、死塩と鉛板で囲われてる。魔力の流れが薄いこの辺りじゃ、まともな避難場所はあそこしかねえ」
「半日ぃ?」
「徒歩でだ」
「死ぬだろ!」
「死ぬ気で歩け、坊主」
その時だった。
俺の右腕が、ドクンッと大きく脈打った。
同時に、膝の上の少女の体がびくりと跳ねる。
『……北』
『光が、来ます』
『チッ、もう嗅ぎつけやがったか』
三つの声が、ほぼ同時に漏れた。
外へ目を向けると、北の空の低いところで、薄い白色の筋が一瞬だけ走った。
雷ではない。雲もない。
まるで空の向こうで、誰かが巨大な鏡を割ったような、嫌に冷たい反射光だった。
セト君の顔色が変わる。
「観測系の光だ。教会か特務室か知らねえけど、こっちの異常マナを遠見してやがる」
「ほらな。だから言ったんですよ」
「おいおいおい、だったらさっさと出るぞ!」
だが、立ち上がろうとした俺の肩に、少女の小さな手がぎゅっと食い込んだ。
熱い。
びっくりするくらい熱い。
振り返ると、少女の片翼がじわりと泥の刃みたいに膨らみかけていた。
右目は金に、左目は黒に、左右別々の光を宿して揺れている。
『いや……。壊れる』
『なら、先に北から来る奴らを殺せば』
『黙れ、シオン』
体の内側で三人が押し合っているのが、素人の俺にだって分かった。
少女の呼吸が浅くなるたび、俺の右腕の灰色の聖剣まで連動して脈打つ。
石床の上に置いた布包みが、勝手にモゾモゾ動き出した。
「カイル! その子を抱えろ! いや、背負え! 接触面を増やして共鳴を一本に絞れ!」
「今さら言うな!」
俺は半ば悲鳴を上げながら少女を抱き上げ、そのまま背中へ回した。
細い腕が俺の首に回る。
熱と冷たさが、同時に背骨へ染みてきた。
右肩のあたりで、少女の額がぐったりと凭れた瞬間、不思議なことに、暴れていた灰色の鼓動が少しだけ静かになった。
「……おい」
『……ちょっとだけ、まし』
今度の声は、誰とも判別しづらい、混ざりかけたものだった。
ヴェルが短く息を吐いた。
「やはりそうですか。貴方の右腕が、今の器にとって最も雑だが安定した外部アンカーです」
「雑ってなんだ、雑って!」
「精密さに欠けるという意味です」
「今それ言う必要ある!?」
レオンのおっさんが、苦笑いともため息ともつかない顔で立ち上がった。
「話は歩きながらだ。北の連中が目を凝らす前に、この廃墟を捨てるぞ」
俺たちは慌ただしく荷をまとめた。
ガルドのおっさんがまだ半分意識の飛んでいるセリアを肩に担ぎ、レオンが先導する。
セト君は薬瓶の袋を抱え、ヴェルは何度も振り返って俺の背中の少女を睨みつけていた。
リノはそんな全員の顔を見回して、努めて明るい声を張る。
「ほら、行くわよ! こんなボロ宿で全滅とか、アタシの人生の落ちとして最悪なんだから!」
最悪なのは俺の人生だ、と言い返す余裕もなかった。
荒野を歩くのは、それだけで苦行だ。
そこに「気を抜くと人格が割れて爆ぜる少女」と「腕から離れない灰色の聖剣」が加わると、もはや拷問に近い。
背中の少女は軽いようでいて、時折、石像みたいにずしりと重くなる。
逆にふっと軽くなったと思えば、次の瞬間には俺の首筋で冷たい息がくすぐった。
『ドブネズミ。もっと丁寧に歩きなさい』
「無茶言うな、足場が全部ひび割れてんだよ!」
『ご、ごめんなさい、カイル君』
『謝るな、エリス。こいつは雑に扱っても死なねえ』
「死ぬわ! すでに半分死んでるわ!」
前を歩いていたリノが、肩越しに振り返って吹き出した。
「なにそれ、親子漫才?」
「どこがだ!」
「まあ、傍から見たらちょっとそんな感じ」
「やめろ! その例えは色々危ねえ!」
だが、笑い声は長く続かなかった。
昼を回った頃、荒野に灰色の風が立ち始めたからだ。
砂でも雪でもない、細かく砕けた骨みたいな粉塵が、地表すれすれを這うように流れてくる。
吸い込めば喉が焼ける、最悪の灰嵐だ。
「伏せるな、進め! 止まったら埋まるぞ!」
レオンのおっさんの怒鳴り声を追って、俺たちは身を屈めたまま進んだ。
背中の少女が苦しげに身じろぐ。
右腕の剣も、それに合わせて熱を持つ。
『……寒い』
その一言だけが、妙にはっきりしていた。
英雄でも、聖女でも、魔王でもない。
ただ、幼い子供が震えながら漏らしたみたいな声だった。
俺は立ち止まりかけて、慌てて前へ踏み出す。
「寒いのはこっちも同じだ、我慢しろ」
『……うん』
返ってきたのは、今度こそエリスの声だった。
その素直な返事に、胸の奥が変な具合にむず痒くなる。
気づけば、俺は無意識に右腕の布包みを少しずらし、熱を持った灰色の剣を背中の少女に寄せていた。
神の光と泥の呪いが混ざったその異常な熱が、外の冷気を相殺するみたいに、じわじわと二人分の体温を繋いでいく。
「……あった」
先頭のレオンが、灰嵐の向こうを睨んで低く呟いた。
見上げると、崩れた岩山の裂け目の奥に、石造りの古い建物の屋根が半分だけ顔を出している。
錆びついた塩商の紋章。割れた風見鶏。入口の看板には、かろうじて『塩鳴亭』の文字が残っていた。
「走れ、坊主!」
「今ので走れって言うか!?」
それでも、最後の力を振り絞って俺は駆けた。
背中の少女がずり落ちないよう両腕で支え、足を取られるたびに呪詛を吐き、二回転びかけて一回は本気で泣きそうになりながら、どうにか建物の陰まで滑り込む。
入口を塞いでいた板戸をガルドのおっさんが蹴破り、俺たちはそのまま雪崩れ込んだ。
地下へ続く階段を降りきった先には、塩袋の残骸と鉛板の壁に囲まれた、薄暗い貯蔵庫が残っていた。
その瞬間。
背中にしがみついていた少女の力が、ふっと抜けた。
右腕の聖剣の脈動も、嘘みたいに弱まる。
「……着いた、のか」
「暫定的には」
ヴェルが床に膝をつき、石壁に指を当てて何度か確かめた。
「いいでしょう。外部マナの流入はほぼ零です。少なくとも今夜、器が勝手に破裂することはありません」
「今夜“は”って言ったな?」
「ええ、言いましたが?」
こいつ、本当に性格が悪い。
俺は背中から少女をそっと下ろし、塩袋を積んだ即席の寝床の上に寝かせた。
荒野ではあれだけ熱かった体が、今は小さな動物みたいに静かに丸まっている。
片翼も、泥の刃ではなく、ただの濡れた黒布みたいに力なく垂れていた。
リノがその傍に膝をつき、そっと髪を撫でる。
「次は?」
誰に向けたともなく、レオンのおっさんが訊いた。
ヴェルは少しだけ黙り、面倒くさそうに口を開く。
「この器をもう少しまともに保たせるなら、黒土教の旧巡礼路を探るしかありません。『魂を外から安定させる揺り籠』の作り方を知っているとしたら、あの連中くらいだ」
「巡礼路……エリスさんたちが昔使ってた道か」
「ええ。南へ向かった残党の痕跡が、まだどこかに残っているはずです」
俺は床にへたり込み、塩壁にもたれた。
右腕は鉛みたいに重い。肩は千切れそうだ。背中も足も、もう自分の体じゃないみたいだった。
なのに、寝床の上の少女が小さく身じろぎ、俺の袖をきゅっと掴んだ。
『――悪いな』
『――ありがとうございます、カイル君』
『――逃げたら呪うわよ』
三つの声が、ひどく弱々しく、けれど順番に耳へ落ちてくる。
俺は顔を覆った。
「クソッタレ……ほんとに、最悪の不良債権だ」
帝国暦849年。冬。忘却の荒野の南縁。
ただの運び屋だった泥街のガキは、今日もまた、灰色の剣と、神と魔王と聖女の眠る小さな揺り籠を背負って、次の地獄へ向かう羽目になっていた。
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