第59話:空っぽの玉座と、放たれた反逆の刃 【ミナ】
ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。
肺が焼けるような、土と焦げたマナの臭いが鼻を刺しました。
崩れた天井から降り注ぐ細かな塵が、地下宮殿の淀んだ空気の中で白く濁っています。
かつてその場所にあったはずの黄金の装飾や美しいタペストリーは、今や引き裂かれたボロ布か、ただの瓦礫の山へと変わり果てていました。
私は、崩落した回廊の隅で、ゆっくりと指先を動かしました。
手のひらには、砕けた瓦礫をかき分けて這い出した時の傷が、まだ鋭く残っています。
だがその程度の痛みなど、胸の奥の喪失に比べれば、無に等しいものでした。
「……あの日、私が……刺してしまったから」
私の声が、虚ろな宮殿の残骸に吸い込まれていきます。
あの日。
私は、愛するシオン様を泥棒のように奪い去ったアレン様を殺すつもりでした。
前掛けの下に隠し持った、魔王の結界すら貫くという『絶魔の刃』。
その切っ先を、私はアレン様の背中へ向けて振り下ろしました。
アレン様は気づいていました。
気づいていて、避けもせず、制止もせず、ただあの虚ろな瞳で自らの死を受け入れようとしていた。
けれど、刃が沈んだのはアレン様の背中ではありませんでした。
いつの間にか起き上がったシオン様が――あの化け物が、アレン様を庇うように身を投げ出し、私の刃をその左胸で受け止めたのです。
シオン様のどす黒い血が、私の手を濡らしました。
あの血の温度を、私は今でも指先に覚えています。
その直後、すべてが壊れました。
『絶魔の刃』が魔王の核を切断し、制御を失った力が暴走を始めた。宮殿の空気が歪み、床が裂け、泥と黄金の光が竜巻のように噴出していく。
あの魔族の参謀――ヴェルが、私の襟首を掴んで後方へ跳びました。「狂ったか」と怒鳴る声だけが耳に残り、それきり世界は瓦礫の闇に沈んだのです。
それ以来、私はこの巨大な墓場と化した宮殿の地下で、幽霊のように彷徨い続けていました。
どれほどの時間が経ったのか、わかりません。
瓦礫の下にいた間、昼も夜もなく、ただ冷たい泥の湿り気と自分の息遣いだけが時間の代わりでした。何度か食べ物を探して、地下水路に溜まった雨水を啜り、壁の苔をむしり取って口に入れたことだけは覚えています。手足の感覚が戻った時、最初に確かめたのは短剣の在処でした。
私は、右手に握りしめたその刃を見つめました。
先端は欠け、鋼の輝きは失われています。崩壊の衝撃で歪んだのか、それとも泥の水に晒されて腐ったのか。かつて黒土教の祭祀に使われた『絶魔の刃』は、もはやただの鈍い鉄屑でした。
けれど、侍女であった頃の自分を捨て去ろうとしている私にとって、この無骨な鉄の棒だけが、唯一の己の存在証明です。
「……アレン様。シオン様を、あんな化け物に変えてまで守りたかった、貴方の傲慢の結末が、これなのですか」
私は、かつて『玉座の間』と呼ばれていた広大な空洞の中央へと足を踏み入れました。
そこにはもう、主の姿はありません。
あるのは、巨大な何かが爆発したようなクレーターと、冷たくなった『泥』の塊だけ。黄金の玉座は砕け、台座のかけらが放射状に散らばっていました。
私がここに着く前に、何かが起きたのだと、身体が知っていました。
玉座の間へ至る回廊を這って進んでいた時、天を衝くようなマナの奔流が、地下宮殿の壁を震わせたのです。あれが何だったのか、正確にはわかりません。ただ、あの後から宮殿に満ちていたシオン様の気配が――あの化け物の濃密な魔力のすべてが、嘘のように消え失せていました。
私は膝をつき、クレーターの縁に落ちている『欠片』に手を伸ばしました。
それは、泥と瓦礫の粉塵が立ち込めるこの地獄において、あまりにも不吉で、それでいてあまりにも清らかな輝きを放っていました。
白く透き通った、氷の彫刻のような欠片。
シオン様がかつて胸元に飾るのを好んでいらした白百合の意匠に似た、けれど、触れた瞬間に魂まで凍りつかせるような極寒の魔力を秘めた、破片。
その欠片には、私が知るアレン様の光とも、あの化け物の闇とも異なる、冷徹な『断絶』の気配が宿っていました。
原初の残り火――かつて竜の顎で手に入れたあの神話の炎の結晶片。神と魔王、その二つの相反する原初を無理やり繋ぎ合わせたような、名前のつけられぬ残滓。
あの暴走と融合の中で、三つの力がぶつかり合い、何かへと凝り固まった――その時に弾け飛んだ欠片なのだと、直感的にわかりました。
この欠片が対応する『何か』が、その足跡の先に存在しているのだと。
ここで何かが終わり、何かが形を変えた。
ただ一つ、確かなことがあります。玉座の間を這うように残っていた足跡――アレン様のものと思しき深い靴跡が、重い何かを引きずりながらこの宮殿を出ていったということ。
私を、この暗い泥の底に残したまま。
その時、背後から冷たい風が吹き抜けました。
振り返ったそこには、宮殿の重厚な扉が――長い間、一度として開かれることのなかったあの『外の世界』への扉が、物理的な力を受けてむりやりにこじ開けられていたのです。
崩壊の衝撃で蝶番が砕けたのか、あるいは、内側から何者かが力ずくで押し開けた跡なのか。
扉の向こう側に見えるのは、薄暗い灰色の空と、果てしなく続く泥濘の荒野でした。
かつて私が愛した、光溢れる季節はもうどこにもありません。
ここで初めて、私の中の何かが、静かに、しかし取り返しのつかない音を立てて折れました。
あの日、私は刃を振り下ろした。アレン様を殺すために。
けれど死んだのはアレン様ではなかった。
私の刃は、私が救いたかったはずのシオン様の胸を貫いた。
私は何も救えていない。
殺したかった男は生き延び、守りたかった方を、この手で壊してしまった。
右手の短刀を、掌が血に滲むほど強く握りしめました。
玉座の主は消え、アレン様も、あの化け物もいない。
鳥籠の扉は、最悪の形で放たれた。
「アレン様……シオン様」
声は震えていませんでした。もう、そういう段階は過ぎていました。
「もし、貴方たちがまだ、この絶望の荒野で生きているというのなら」
私は、冷たい欠片を衣の裏にねじ込んだ。
そして、泥に汚れた前掛けの紐に手をかけ、一息に引きちぎって、石の床に脱ぎ捨てた。
それは侍女の最後の皮だった。
前掛けが足元に落ちた瞬間、声の調子が変わったのが、自分でもわかった。
「私はどこまでも追いかけて、この刃を、今度こそ、貴方の喉元に突き立てて差し上げます」
もはや、誰かに仕える言葉ではなかった。
その先に救いなど何一つなく、ただ冷たい泥の底へ沈んでいくだけだとしても。
あの日の一撃の重み。シオン様の血の温度。その重みだけが、今の私を動かしている。
短刀を腰の後ろに差し込み、外界の冷たい風を、正面から受け止めた。
一歩、泥に足を踏み入れるたび、侍女であった頃の温かな記憶が、氷のように砕けて剥がれ落ちていく。
あの足跡の先に、アレン様がいる。
あの欠片が示す『何か』が、アレン様と共にいる。
それが何であれ、私がこの手で終わらせる。
復讐の刃を、私は今、荒野へと解き放った。
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