第43話:原初の抱擁、泥の終わる場所 【エリス】
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足の裏から伝わっていた、世界を引き裂くような泥の慟哭が、不意に、ピタリと止まりました。
「エリスさん。今のは」
崩落した地下宮殿の入り口で、私を支えていたリノさんが息を呑むのが分かりました。
視力を絶っている私の世界には、色や形はありません。
けれど、かつて神の光だった『それ』が、アレンの果てしない執念と絶望によってドロドロの灰色に染まり、巨大な魔王の泥を真っ二つに叩き割った感触だけは、私の魂に直接、鮮烈な閃光として焼き付きました。
「終わったのね。行きましょう、リノさん」
私はリノさんの手をそっと離し、熱を帯びた瓦礫の山を一人で下り始めました。
周囲には、吹き飛ばされた白陽騎士団の残党や、セト君たちの驚愕する気配があります。
でも、今の私の意識は、すり鉢状になった空間の中央、たった一つの場所だけに向いていました。
そこには、泥の化け物の外殻を削り落とし、灰色の剣を杖にして跪く男の姿がありました。
アレンです。
彼の腕の中には、泥の檻から引きずり出された、一人の美しい少女が抱き留められています。
「シオン。……シオン、おい。開けろ、目を開けてくれ」
アレンの声は、乾ききっていました。
彼の手が、必死に少女の頬を叩き、その冷たい唇に自分の体温を分け与えようとしています。
けれど、大地のマナを通じて、私にははっきりと分かってしまいました。
シオン様の胸に刺さった『絶魔の刃』は、魔王の核を暴走させただけでなく、彼女の肉体を現世に繋ぎ止めていた、最後の「命の緒」までも完全に断ち切ってしまったのだと。
「嘘だろ。
俺を、置いていくな。……お前が、俺を縛り付けたんじゃないか……!」
「アレン。……ああ、アレン」
嗚咽する彼の背中に、私は静かに歩み寄りました。
泥にまみれたその背中は、エルダ砦で私を守ってくれたあの頃よりも、ずっと小さく、薄っぺらく見えました。
彼は、私が近づいたことにも気づかないほど、完全に心が壊れかけていました。
ただ、動かなくなったシオン様を強く抱きしめ、子供のように泣きじゃくっているのです。
「エリス……? お前、なんで」
私の声に気づいたアレンが、縋るような、けれどひどく怯えた瞳で私を見上げました。(見えなくとも、その視線の痛みが突き刺さります)。
「ごめん、エリス。
俺は……俺は、こいつを救えなかった。
お前を救うためにこいつを殺して、今度は……こいつを守るために、神様まで泥に沈めたのに……!」
「もう、いいのよ。アレン」
私は、血と泥に汚れた彼の頬を、両手でそっと包み込みました。
そして、彼と一緒に冷たい石の床に跪き、アレンの腕の中で眠るシオン様の、真っ白な顔に触れました。
私のために、命を空っぽにしてくれた人。
アレンを愛し、狂い、それでも最後は彼を庇って致命傷を受けた、哀れで優しい人。
「アレン。あなたは、泥棒なんかじゃないわ」
私は微笑みました。
「あなたは、ただ不器用で、欲張りで……誰の手も離せなかった、本当の『英雄』よ」
アレンの目から、大粒の涙が溢れ落ち、私の手のひらを濡らしました。
「終わりにしましょう。この、冷たくて悲しい泥遊びは」
私は、シオン様の胸――かつて私が縫い付けられ、魔王の核が埋め込まれ、そして致命傷を負ったその亀裂へと、迷わず右手を差し入れました。
「エリス!? 何を」
アレンが息を呑みます。
「シオン様。
貴女は、もう十分に泥の底を歩きました。……温かい場所へ、還りましょう」
私の指先が、シオン様の胸の奥深くで、静かに、けれど確かに拍動し続けている『それ』に触れました。
数年前、霊峰でアレンが手に入れ、私を氷の呪縛から解き放ち、そしてシオン様の肉体を今日まで朽ちさせずに保ってきた、神話の熱。
「『原初の残り火』よ。すべての罪を、燃やし尽くしなさい」
私がそれを握りしめ、シオン様の体からゆっくりと引き抜いた瞬間。
黄金色の、圧倒的な熱と光が、私たちの足元から爆発的に広がりました。
「!」
周囲で見ていたリノさんやセト君たちが、その凄まじい熱波に顔を覆う気配がします。
炎は、シオン様の体を優しく包み込み、彼女にこびりついていた黒い魔王の泥を、美しい灰へと変えていきます。
そしてその炎は、アレンの傷だらけの体と、私の黒い修道服にも燃え移りました。
けれど、少しも熱くありませんでした。
それは、氷の棺の中で私が感じていた、あの時のアレンの体温と同じ、優しくて泣きたくなるような熱。
「エリス。お前も」
アレンが、燃え盛る炎の中で、私の肩を抱き寄せました。
「ええ。私も一緒よ、アレン。シオン様も、一緒に」
私たちは、炎の中心で、三人で一つになるように強く抱き合いました。
シオン様の体が、少しずつ光の粒子となって空へ昇っていくのを感じます。アレンの腕の力強さと、燃え尽きていく泥の感触。
「愛しているわ、アレン」
私は最後にそう囁き、光と熱の奔流の中に、完全に意識を委ねました。
帝都の地下深層。
すべてを狂わせた泥の底は、原初の炎によって浄化され、三人の罪人たちの姿は、誰の目にも見えないまばゆい光の中へと消えていったのです。
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