第40話:泥の玉座、崩壊の狂騒曲 【ヴェル】
毎日20時更新中です。ブックマーク・感想いただけると励みになります!
かつてこれほどまでに、静かで、そしてひどく脆い平和があったでしょうか。
地下宮殿の冷たい石造りの回廊を歩きながら、私は自嘲気味に息を吐きました。
我が主たる魔王シオン。彼女の絶大な闇の力と、神話の時代から続く『原初の残り火』。その二つの相反する極大のエネルギーは、アレンという「生贄」が隣にいることで、辛うじて奇跡的な均衡を保っていました。
アレンが彼女の髪を撫で、彼女の囁きに頷く。
たったそれだけの、ひどく歪で個人的な愛情ごっこが、数万の魔族の命と、この大陸の存亡を繋ぎ止めている。実に滑稽で、そして美しい地獄です。
「ん?」
ふと、私の魔力感知の網に、奇妙な『空白』が引っかかりました。
魔王の寝所へと続く回廊の奥。
そこだけ、一切のマナが存在しない、ぽっかりと穴の開いたような不自然な空間が移動している。
「マナを断ち切る武具。黒土教の『絶魔の刃』か」
私は目を細めました。
その空間の中心にいるのは、足音を完全に殺した侍女のミナです。
彼女がアレンに対して深い憎悪を抱いていることは、とうの昔に気づいていました。
ですが、彼女の殺意はあまりにも小さく、魔王の絶対的な力の前に手出しなどできるはずがないと高を括っていたのです。
しかし、今の魔王は完全にアレンに気を許し、無防備な眠りについている。
そしてミナの手にあるのは、魔王の結界すらも切り裂く対魔術の特化兵装。
「愚かな。アレンが死ねば、誰がその化け物の理性を繋ぎ止めるというのだ」
私は舌打ちをし、黒い霧となって寝所へと急行しました。
私が寝所の重い扉をすり抜けた瞬間、時はすでに遅かった。
「死ねッ! 泥棒!!」
ミナが、音もなくアレンの背後に忍び寄り、その手にある『絶魔の短剣』を彼に向かって振り下ろすところでした。
アレンは目を覚ましていましたが、刃を避ける素振りを一切見せませんでした。
むしろ、彼はその凶刃に気づきながら、長らく張り付いていた氷のような虚無感を崩し、自らが犯した罪への「人間らしい激しい後悔」と「贖罪への渇望」を滲ませて、自らそれを受け入れようと目を閉じたのです。
己の身勝手な罪の精算を、親友を奪われたこの少女の手で終わらせることに、安堵すら覚えながら。
ドスッ、という鈍い音が、暗い寝所に響き渡りました。
「え?」
ミナの口から、間の抜けた声が漏れました。
私も、思わず息を呑みました。
短剣が突き刺さっていたのは、アレンの背中ではありませんでした。
アレンを庇うように、いつの間にか起き上がっていたシオン様――魔王の、左胸でした。
「シ……オン、様……?」
ミナの手がガタガタと震え、短剣から離れます。
「お前……なんで……!」
アレンが血相を変えて目を見開き、悲痛な叫びを上げながら、自分の胸に崩れ落ちてきたシオン様を抱きとめました。
『自分が罰を受ければすべて丸く収まる』という彼の身勝手な自己犠牲の呪いが、またしても目の前で救いたかったはずの相手を傷つけてしまった。
そのあまりにも残酷な悲劇に、彼が被っていた狂気の英雄の仮面は完全に剥がれ落ち、ただの無力で愚かな青年としての絶望が顔全体を覆っていました。
「あ……れん。だめよ……貴方を、傷つけさせる、ものですか」
シオン様は、胸からどす黒い血と黄金の光を流しながら、それでも愛しい人に触れようと手を伸ばしました。
それは、魔王としての反射ではありません。かつて、泥の中でアレンに恋をした、ただの「聖女シオン」としての、純粋すぎる愛の防衛本能でした。
「あ、ああ……私が、シオン様を……? 違う、私は、貴女を救おうと……!」
ミナが床にへたり込み、頭を抱えて絶叫しました。
しかし、感傷に浸っている暇は一秒もありませんでした。
『絶魔の刃』が突き刺さった場所は、最悪でした。彼女の左胸――つまり、私が埋め込んだ『魔王の核』の中心。
「マズい!! アレン、その女から離れろッ!!」
私は我を忘れ、叫んでいました。
「あ、あ、ああああああああああああああッ!!!」
シオン様の口から、ガラスを引っ掻くような、凄絶な悲鳴が上がりました。
胸に刺さった『絶魔の刃』が、魔王の核と、原初の残り火と、聖女の肉体の「接着剤」となっていたマナを強制的に切断してしまったのです。
ドグンッ!!
空間が、文字通り弾けました。
シオン様の体から、制御を失った漆黒の泥と、すべてを焼き尽くす黄金の熱が、巨大な竜巻となって噴出しました。
「シオン!!」
アレンが吹き飛ばされ、石の壁に激突します。
私は即座に強固な防壁魔法を展開し、絶叫するミナの襟首を掴んで後方へ跳び退きました。
「離せ! シオン様! シオン様ァァァッ!!」
「狂ったか! 巻き込まれれば消し飛ぶぞ!!」
宮殿の天井が崩落し始めました。
暴走したマナは、地下空間を埋め尽くすほどの質量を持った『黒い泥の海』へと変貌していきます。
シオン様の背中から生えていた一対の翼は、六対の悍ましい泥の腕へと変形し、彼女の瞳からは理性の光が完全に失われていました。
「アァァ……アレン……アレン!! どこ!? 私を置いていかないで!!」
彼女は泣き叫びながら、その泥の腕で手当たり次第に宮殿を破壊し始めました。
もはや愛撫を求める女ではない。ただの、愛に飢えた純粋な破壊の権化。
この暴走は、もう誰にも止められない。
この地下宮殿ごと、地上まで突き抜けて世界を飲み込む規模の厄災です。
「終わったな。アレン、貴様の作った鳥籠は、これで完全に崩壊した」
私は防壁を支えながら、瓦礫の中でゆっくりと立ち上がるアレンの姿を見つめました。
彼は、暴風の中で折れかけた鉄剣を握りしめ、自分を呼びながら暴れ狂う『かつて愛した女の成れの果て』を、血を流しながら見据えていました。
帝国暦849年。
絶対の均衡が破れ、地下の底から、終末を告げる泥の咆哮が地上に向けて放たれました。
そしてこの強烈なマナの爆発は、帝都に向かっているすべての者たちに、決戦の狼煙として届くことになります。
お読みいただきありがとうございました。感想・ブックマークお待ちしています!




