第38話:黒衣の祈り、光を喰らう泥 【エリス】
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ザク、ザクと。
私の素足が、冷たく湿った泥を真っ直ぐに踏みしめていきます。
靴は、とうの昔に擦り切れて捨ててしまいました。目を閉じ、視覚という「光」を絶っている今の私にとって、足の裏から伝わる大地の温度と感触だけが、世界を識るための確かな道標なのです。
「エリスさん、足から血が出てる。少し休もうよ」
隣を歩くリノさんが、心配そうな声をかけてくれました。
彼女はいつも私の半歩前を歩き、尖った石や危険な段差をさりげなく避けるように誘導してくれます。
「大丈夫よ、リノさん。
この痛みは、私が今、確かにこの世界を歩いているという証だから」
私は微笑んで、首を横に振りました。
数年前。氷の棺の中で眠っていた私は、痛みすら感じない、ただの「綺麗なお人形」でした。
アレンは、そんな私を人間として生かすために、自分の手と魂を泥まみれにしました。
だからこそ、私は彼が落とした泥の痛みを、一歩ごとに噛み締めなければならないのです。
私たちが歩く獣道の周囲には、黒土教の信徒たちが数十人、息を殺して付き従っています。
彼らの微かな緊張が、土の振動を通じて私の足元に伝わってきました。
「来るわね」
私が静かに呟いた瞬間、谷の向こう側から、空気を焼き焦がすような強烈なマナの波動が押し寄せてきました。
「止まれッ! 不浄なる異端のネズミどもめ!」
木々の間から現れたのは、眩い白銀の鎧に身を包んだ帝国の騎士たち――異端審問局の追手でした。
彼らの掲げる杖の先端には、目を焼くような光の魔法が収束しています。
「お前たちが北へ向かっているという噂は本当だったか。その薄汚い泥の魔女を差し出せば、お前たちだけは神の慈悲で『浄化』してやろう!」
「ふざけんな! 誰がエリスさんを渡すもんか!」
リノさんがタンバリンを鳴らし、素早く私の前に飛び出しました。
数年の旅で、彼女のタンバリンはただの楽器から、特殊な魔力波を放つ武器へと進化していました。
彼女がステップを踏みながらそれを叩くと、不可視の衝撃波が騎士たちの足元を抉ります。
「おのれ、邪教に唆された小娘が! 放てッ!」
指揮官の号令と共に、十数発の『光の槍』が一斉に私たちへと降り注ぎました。
「シオン様……いえ、エリス様をお守りしろ!」
黒土教の信徒たちが、自らの体を盾にするように私の前に立ち塞がります。
ドォォォンッ! という爆音と、肉が焼ける嫌な臭い。
信徒たちの何人かが、光の槍に貫かれて泥の中に崩れ落ちました。
「ああっ!」
リノさんも爆風に煽られ、地面に膝をつきます。
「無駄な足掻きだ。お前たちが崇める泥など、神の光の前では無力に過ぎない!」
指揮官が高らかに笑い、再び杖に致命的な光を収束させ始めました。
「無力なものですか」
私は、目を閉じたまま、ゆっくりと一歩前に出ました。
「エ、エリスさん! ダメだよ、下がって!」
リノさんが叫びますが、私は足を止めません。
「神の光とやらは、確かに綺麗で、圧倒的で、何もかもを消し去ってしまいます。……でもね」
私は、崩れ落ちた信徒たちの血が混じった泥の上に、両手をそっと付きました。
「どんなに強い光でも、最後は必ず、この暗い泥の底へ落ちていくのよ」
「大地の根よ。彼らが零した涙と血を、温かな揺りかごで抱き留めたまえ」
私の指先から、淡い緑色と、深淵のような漆黒が混じり合ったマナが流れ出しました。
それは、かつて私に命を譲ってくれた聖女シオン様の『土の祈り』であり、同時に、私の命を繋ぎ止めるためにアレンが犯した『大罪の泥』。
「な、なんだこれは……!?」
指揮官が驚愕の声を上げました。
彼らが放とうとしていた光の魔法が、突如として空中でドロドロに溶け出し、黒い泥の雨となって地面に墜落したのです。
光が、泥に喰われている。
「土へ還りなさい。あなたたちのその傲慢な光も、最後は私たちが背負うから」
私の祈りに呼応するように、大地が脈打ちました。
騎士たちの足元の泥が意思を持ったように這い上がり、彼らの純白の鎧を次々と黒く染め上げていきます。
それは攻撃ではありません。
ただ、彼らの武器とマナを重い土の塊へと変え、完全に無力化するだけの、底なしの『受容』。
「ひ、ひぃぃッ! 化け物め……光が、光が腐っていく……!」
武器を失い、鎧を泥の塊に変えられた騎士たちは、恐怖に顔を引きつらせて谷の奥へと逃げ去っていきました。
静寂が戻った谷間で、私はゆっくりと立ち上がりました。
傷ついた信徒たちの傷口にも大地のマナを這わせ、その命を無理やり現世へと『縫い止め』ます。
「すごいよ、エリスさん。今の、魔法……?」
リノさんが、信じられないものを見るように私の手を取りました。
「魔法じゃないわ。ただの、私が背負った『泥の重さ』よ」
私は、自分の汚れた手のひらをそっと握りしめました。
シオン様。
あなたが愛したこの泥は、とても温かくて、そしてこんなにも重いのですね。
アレンは、この重さをたった一人で背負って、あの地下の底にうずくまっている。
「急ぎましょう、リノさん。みんな」
私は北の空――目には見えないけれど、確かに彼が待つ帝都の方角へ顔を向けました。
「彼がこれ以上、一人で泥に溺れてしまう前に。私が、彼ごと全部、この手で抱きしめてあげるの」
帝国暦849年。
目を閉ざした聖女は、かつての英雄が落とした絶望をすべて肯定し、己の力へと変えながら、地下宮殿への歩みをさらに速めました。
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