第36話:泥濘の鳥籠、研がれる反逆の刃 【ミナ】
ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。
光の届かない、大陸の最深部。
かつて魔族たちが築き、今は打ち捨てられた広大な地下宮殿。
そこには、一年中ひんやりとした泥の匂いと、静寂だけが満ちています。
私は、お盆に冷たいお茶を乗せ、足音を殺して玉座の間へと入りました。
「ふふっ。
ねえ、アレン。
貴方の髪、また少し伸びたわね。泥に汚れて、真っ黒。……私の翼と同じ色」
甘く、そして悍しい声が、薄暗い空間に反響します。
玉座に浅く腰掛けているのは、漆黒の翼をだらりと垂らした魔王――シオン様。
そして、その足元にある冷たい石の床に座り込み、彼女の膝に頭を預けているのは、かつて英雄と呼ばれた男、アレンです。
「ああ。そうだな」
アレンは、虚ろな声で短く答えます。
シオン様が、黒く染まった長い爪でアレンの髪を梳き、彼の首筋を撫で回しています。
時折、その爪が彼の肌を傷つけ、微かに血が滲んでも、アレンは痛がる素振りすら見せません。
彼はただ、薄汚れ、生気を失った瞳で、虚空を見つめているだけ。
まるで、己の魂をとうの昔にどこかへ捨ててきてしまった、空っぽの抜け殻のように。
私は、奥歯を強く噛み締めました。
(……反吐が出る)
私の主であった、あの優しく慈悲深いシオン様は、数年前のあの日、この男の身勝手な愛のために命を奪われました。
今、目の前でこの男を愛撫しているのは、シオン様の肉体と記憶を継ぎ接ぎにしただけの、醜悪な化け物です。
「ミナ。お茶かしら。ご苦労様」
魔王が、私に気づいて微笑みました。
その笑顔は、かつてのシオン様と瓜二つ。だからこそ、余計に私の心を残酷に抉るのです。
「はい、シオン様。喉を潤してくださいませ」
私は感情を完全に殺し、恭しくお盆を差し出しました。
「ありがとう。……アレン、貴方も飲む?」
「いや。俺はいい」
アレンがゆっくりと身を起こし、シオン様から少しだけ距離を取りました。
その瞬間、シオン様の瞳に、ドロリとした濃密な『闇』が渦巻くのを私は見逃しませんでした。
「どうして離れるの?」
「少し、冷えるだけだ」
「嘘。貴方はまだ、あの女のことを考えているのね?」
シオン様がアレンの胸ぐらを掴み、その細い首を締め上げました。
「私を選んだくせに。
私の泥の中に堕ちたくせに!
まだ光を忘れていないの!
? 貴方の罪は私よ! 貴方の世界は、私だけでいいはずよ!!」
ギリギリと、アレンの首の骨が鳴ります。
息ができず、彼の顔が苦痛に歪みますが、彼は決して抵抗しません。
彼女が暴走するたび、アレンはこうして自らの肉体を差し出し、彼女の憎悪と愛の捌け口になることで、魔王の力が地上へ向かうのを食い止めているのです。
それが、この数年間、彼が自分に課した『罰』。
愛するエリスを救った代償として、自らを化け物の餌にし続けるという、身勝手で自己満足な贖罪。
「申し訳ありません、シオン様。アレン様は少しお疲れのようです」
私は静かに声をかけ、二人の間に割って入りました。
シオン様はハッと我に返ったように手を離し、「ごめんなさい、アレン……私、また」と涙を流して彼にすがりつきました。
狂っています。
この鳥籠の中は、完全に狂気に支配されている。
アレンは、咳き込みながらも、泣きじゃくる魔王の背中を、不器用な手でゆっくりと撫で始めました。
そこに愛はありません。
ただ、取り返しのつかない罪悪感と、終わりのない絶望だけが横たわっていました。
私は玉座の間を辞し、自分の冷たい自室へと戻りました。
分厚い扉を閉めた瞬間、それまで抑え込んでいた怒りがマグマのように溢れ出します。
「アレン。この、薄汚い泥棒が」
私は自室の隠し床を外し、厳重に布に包まれた一本の短剣を取り出しました。
それは、かつて黒土教の祭祀で使われていた、魔力を完全に断ち切る『絶魔の刃』。
アレンは、自分を罰しているつもりなのでしょう。
化け物となったシオン様に寄り添い、一生を日陰で終えることが、自分の責任の取り方だと酔っているのです。
でも、そんなものは偽善です。
彼が生きている限り、シオン様の肉体はあの魔王という呪縛に囚われ、永遠に泥の中で辱めを受け続ける。
「シオン様。
……本当の貴女は、あんな男にすがりついて泣くような、惨めな方ではなかった」
私は、短剣の冷たい刃を指でなぞりました。
殺さなければ。
あの男を。あるいは、あの化け物を。
私がこの手でどちらかの命を絶ち、この狂ったまま凍りついた鳥籠を破壊しなければ、シオン様の魂は永遠に救われない。
「待っていてください、シオン様。……私が必ず、貴女を『土』へと還して差し上げます」
私は短剣を懐に深く忍ばせ、再び冷たい無表情の仮面を被りました。
誰にも気づかれてはいけない。
魔王軍の参謀ヴェルにも、あのアレンにも。
ただ一撃、確実に心臓を貫くその瞬間まで、私は従順な侍女を演じ続ける。
帝国暦849年。大陸深層、地下宮殿。
静まり返った泥の底で、たった一人、愛する主を殺す(すくう)ための反逆の刃が、ひっそりと研ぎ澄まされていました。
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