第33話:泥に溶ける王冠(最終回) 【ヴェル】
お読みいただきありがとうございます。毎日20時に更新しています。
数日後。
帝都を飲み込んでいた泥は引き、魔王軍は跡形もなく姿を消しました。
帝国は「英雄アレンが自らの命と引き換えに魔王を相打ちで滅ぼした」という、救いようのない、けれど都合の良い『綺麗な嘘』を再び歴史に刻むことでしょう。
一方、私たちは大陸の最果て、地図にも載らない腐朽した地下宮殿へと辿り着いていました。
帝国の追手も、光の神の視線も届かない、泥と静寂だけが支配する場所。
「ヴェル。そこにいるのでしょう」
奥の玉座から、シオン様の……いえ、我が主の声が響きました。
その隣には、かつての白銀の鎧を脱ぎ捨て、黒い粗末な衣を纏った男が座っています。
アレン。
彼はもはや剣を握ることはありません。
その手は、常に魔王の冷たい指先を握り締め、彼女の暴走するマナをなだめるためだけに存在していました。
「ハッ。御前を失礼いたします。今後の軍備の再編について」
「そんなものは、もういらないわ」
魔王シオンが、アレンの肩に頭を預け、退屈そうに告げました。
「私は、この人がいればそれでいい。
……この人が、私を泥の中から引きずり出した。……だから、この人が死ぬまで、私はここでこの人の『罪』を愛で続けるわ」
アレンは何も答えませんでした。
その瞳には、救済も、平穏もありません。
ただ、自分のしでかした取り返しのつかない結果を、生涯をかけて見届けようとする、静かな狂気があるだけです。
「承知いたしました」
私は深く頭を下げ、その場を下がりました。
もはや、大陸全土を支配する力など、今の我が主には必要ないのでしょう。
彼女は、世界よりも重い『一人の男の人生』を、完全に手中に収めたのですから。
宮殿の外に出ると、湿った風が吹き抜けていきました。
私は、手入れの行き届いた杖を突きながら、灰色の空を見上げました。
歴史に名を残すのは、いつだって美しい嘘ばかり。
この地下の奥深くで、かつての英雄と魔王が、互いの傷を舐め合いながら、泥にまみれた平穏を享受しているなど、誰が信じるでしょうか。
エリスという娘は、リノたちと共に南の地へ逃げ延びたとの報告が入っています。
彼女は一生、アレンという男が自分を救うために何を捨て、誰の隣で眠っているのかを知らずに生きていく。
……いや、あるいは、知ってなお、その残酷な幸福を噛み締めて生きていくのかもしれません。
「光と闇。英雄と魔王……。結局、最後はただの『寂しがり屋の二人』に落ち着いたか」
私は、足元の泥の中に、一輪だけ咲いた小さな白い花を見つけました。
それは、シオン様がかつて愛した土から、魔王の闇に耐えて芽吹いた、奇跡のような命の破片。
「お幸せに、とは言えんな。アレン」
私はその花を一度だけ一瞥し、闇の奥へと歩き出しました。
彼らが選んだのは、天国でも地獄でもない。
ただ、どこまでも深く、どこまでも重い、二人だけの泥濘。
帝国暦846年。冬。
英雄譚は、最も醜く、最も美しい「沈黙」をもって、幕を閉じました。
後に残されたのは、凍てつく大地と、静かに降り積もる、灰色の雪だけでした。
最後までお読みいただきありがとうございます。一言でも感想いただけると励みになります。




