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泥濘のレクイエム ―英雄の残火と、継ぎ接ぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第3章 黒土の祈りと、泥濘の帝都

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第32話:泥濘の聖域、報いの接吻 【ミナ】

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帝都の誇りだった白銀の広場は、今や見る影もありません。

空からは煤混じりの雨が降り注ぎ、かつて英雄アレン様を称えた銅像は、足元から黒い泥に飲み込まれ、まるで底なし沼に沈みゆく敗残兵のように無様に傾いています。


私は、崩れ落ちた大聖堂の回廊の影から、その光景をただじっと見つめていました。

私の目の前に背を向けて立っているのは、かつて慈愛そのものだった私の主、シオン様。

……いいえ、今はもう、そう呼ぶべきではないのでしょう。


漆黒の翼を広げ、指先から滴る泥で帝国の騎士たちを次々と土へと還していくその姿は、神話に語られる魔王そのもの。

けれど、その横顔に浮かぶ、うっとりとした、狂おしいほどの微笑み。

それは間違いなく、あの日、地下の聖堂で「泥棒さん」に恋をした、一人の娘の表情かおでした。


「来たわね。私の、愛しい共犯者」


シオン様の……いえ、魔王様の声が、湿った大気を震わせます。

広場の向こう側。

瓦礫の山を越え、たった一人でこちらへ歩いてくる影がありました。


泥にまみれた外套。刃こぼれした、何の変哲もない鉄剣。

かつて世界を救ったという伝説の聖剣はどこにもありません。

そこにいるのは、愛する人のために他人の命を奪い、その罪の重さに耐えかねて、今にも折れてしまいそうな――ただの、惨めな男でした。


「シオン」


アレン様の声は、雨音にかき消されそうなほど小さく、けれど、私の胸を鋭く突き刺しました。

彼は、魔王様の目の前、数メートルの距離で立ち止まりました。

本来なら、聖戦の如く罵り合い、剣を交えるべき場面です。

けれど、そこに流れている空気は、もっとひどく個人的で、もっとひどく「汚れた」親密さ(あい)に満ちていました。


「なぜ、ここへ来たの?

エリスを救ったのなら、そのままどこか遠い場所へ逃げればよかったのに」


魔王様が、優雅な足取りでアレン様に近づきます。

彼女が歩くたび、足元の石畳は黒く腐り、ドロドロとした泥に変わっていきます。

アレン様は逃げようとも、剣を構えようともしません。


ただ、背負った罪の象徴である彼女を、その空洞のような瞳で見つめ続けていました。


「あいつは、目覚めた。お前がくれた命で、あいつは今、生きている」


アレン様が、絞り出すように言いました。


「だから、俺はここへ来た。……お前に殺されるか、それとも、俺がお前を殺すか。……この『泥』の始末をつけに」


「ふふ、あははははっ!!」


魔王様は、可笑しくてたまらないといった風に笑い声を上げました。

その笑い声の合間に、一瞬だけ、かつてのシオン様の、あの澄んだ瞳が覗いた気がして、私は自分の胸を強く押さえました。


「殺す?

殺せるのかしら、貴方に。……私のこの心臓には、貴方が持ち帰った『太陽の欠片』が燃えている。……私のこの肉体には、貴方が自分の手で縫い付けた『執念』が宿っている。……アレン、私は、貴方そのものなのよ?」


魔術的な衝撃波が、広場を駆け抜けました。

魔王様の手から放たれた黒い泥の茨が、アレン様の頬を掠め、鮮血が舞います。

それでもアレン様は、ただ一歩、泥の中に踏み出しました。


私は見てしまいました。

戦いと呼ぶにはあまりに悲惨な、その「一方的な蹂躙」を。


魔王様の力は圧倒的でした。

アレン様が振るう鉄剣は、魔王様の翼に弾かれ、その度にアレン様の体は泥の中に叩きつけられます。

骨が折れる音。肉が裂ける音。

アレン様は、英雄の剣術など使っていませんでした。

泥にまみれ、這いつくばり、それでも立ち上がって彼女の懐へ飛び込もうとする……。

それは、かつて彼が背負っていた「棺」を運んでいた時の、あの狂気的なまでの足掻きそのものでした。


「見ていられないわ」


私は顔を背けました。

かつての英雄が、自分が救いたかったはずの少女の肉体を、必死に鉄の棒で叩き壊そうとしている。

かつての聖女が、自分が愛したはずの男を、慈しむように泥の底へと引きずり込もうとしている。


その時でした。

アレン様の剣が、ついに魔王様の左胸――『魔王の核』が埋め込まれた場所に届いたのは。


「!」


魔王様の動きが、止まりました。

剣先が僅かに彼女の肌を裂き、そこから黒い霧のようなマナが溢れ出します。

その至近距離で、アレン様が、震える声で囁くのが聞こえました。


「シオン。……俺を、連れて行け。……俺たちの『泥』を、ここで終わらせよう」


アレン様の表情は、私の場所からは見えませんでした。

けれど、彼を受け止めた魔王様の瞳から、一筋の、濁りのない涙がこぼれ落ちたのを、私は確かに見たのです。


彼女はアレン様の首に、その白い……けれど冷たい腕を回しました。

まるで、戦場の真ん中で、長い旅を終えた恋人たちが再会を祝して抱き合うように。


「ええ。

いいわよ、アレン。

……一緒に還りましょう。誰もいない、光も届かない、深い深い……泥の底へ」


広場の中央、アレンの銅像が完全に崩落しました。

その瓦礫の粉塵と、魔王様が放った極大の闇が、二人を包み込み、世界を真っ黒に塗りつぶしていきました。


帝国暦846年。帝都決戦の終わり。

私はただ、崩れゆく回廊の影で、土の匂いと、消えゆく二人のマナの残滓を、いつまでも感じ続けていました。

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