第30話:灰色の幕間(英雄像のひび割れ) 【ゼクス】
ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。
帝都の外れ、戦火の煙が立ち昇る廃屋の影。
俺は、そこで「それ」を待っていた。
マナを完全に消し、殺気を殺し、泥の匂いに紛れて。
帝都の北門から、断続的に爆音が響いてくる。
魔王シオンの泥が、城壁を押し潰す音だ。教会の光の防壁がいくつか耐えているが、時間の問題だろう。聖堂の鐘楼が一つ折れるたび、広場の民衆が悲鳴を上げる。
滑稽だ。自分たちが「完璧な英雄」として祀り上げた男が作り出した化け物に、今度は自分たちが喰われようとしている。
俺は懐から安酒のスキットルを抜き、一口煽った。酒の味はしない。煙と灰の匂いが全てを染めている。
やがて、霧の向こうから重苦しい足音が聞こえてきた。
かつてのような迷いのない騎士の足音ではない。
自分を削り、世界を敵に回し、それでもたった一つの体温を守り抜こうとする、呪われた男の足音。
数年ぶりに聞くそれは、以前より重く、そしてどこか軽くなっていた。棺を降ろしたのだ。中身を失ったか、それとも――目的を果たしたのか。
「久しぶりだな、アレン。いや、今は『死神』と呼ぶべきか?」
影から足を踏み出すと、そこには案の定、泥と返り血にまみれたアレンが立っていた。
背中には、もう棺はない。
代わりに、数年ぶりに目覚めたという、あの魔術師の女を大事そうに背負っている。
女――エリスは、目を固く閉じたまま震えていた。意識はあるのだろう。棺の中で数年、氷の呪いに耐えた女の精神が、目覚めた途端に地獄を見せられているのだ。
傍らには、リザードマンの戦士、魔女の弟子、そして我が情報部が「戦死」扱いにしたレオンの姿。全員がボロ切れのように疲弊し、それでも武器を手放していない。
「ゼクス」
アレンの声は、もはや感情の死滅した、剥き出しの鉄のような響きだった。
彼は俺を警戒し、抜く必要のない――もはや折れかかった鉄剣の柄に手をかけた。
あの聖剣は捨てた。俺が回収して帝都の地下金庫に放り込んである。この男は今、名もなき鉄くずで戦っている。
「安心しろ、仕事をしに来たわけじゃない。……ただ、教えてやろうと思ってな」
俺はスキットルを放り投げ、アレンの足元に転がした。
リザードマンが低く唸り、魔女の弟子が杖を構えた。だがアレンは制止の手を上げただけで、仲間を黙らせた。
その一挙手に、全員が従う。寄せ集めのはずの一行が、この男を中心に奇妙な統率を保っている。面白い。
「帝都はパニックだ。お前が産んだ『聖女の魔王』が、すぐそこまで来ている。お前の像を泥に沈めるために、数万の軍勢を引き連れてな」
アレンの眉が、微かに動いた。
背中で眠るエリスが、その言葉を聞いて震えているのがわかる。細い指がアレンの首筋に食い込んでいる。
「アレン。お前はエリスを救った。だが、その代償に世界を地獄に変えた。……さあ、どうする? このまま逃げて、二人きりで泥の底で一生を終えるか? それとも」
俺は、帝都の中心、燃え上がる宮殿を指差した。
炎の向こうで、泥の巨大な柱が天を衝いている。魔王シオンの力だ。あの泥は、もうこの男のことしか考えていない。歪んだ愛が、都市を一つ丸ごと呑み込もうとしている。
「あの日、捨て損ねた『英雄』という名の泥を、もう一度被って、あの魔王を殺しに行くか」
アレンは、しばらくの間、沈黙していた。
彼の瞳には、かつての白銀の光など欠片も残っていない。
けれど、その暗闇の奥底で、ドロドロとした、執念という名のどす黒い炎が、今、再び燃え上がろうとしているのが見えた。
「ゼクス。俺は、エリスを救うために聖女を殺した。その報いは、俺が受ける」
アレンはエリスをそっと地面に下ろし、仲間のガルドとセトに彼女を預けた。
エリスが小さく「アレン」と呟いた。まだ声が掠れている。
アレンはそれに答えず、折れかかった剣を引き抜き、燃える帝都の空を仰いだ。
「俺は、英雄として死ぬつもりはない。……ただ、自分のしでかした『始末』をつけに行くだけだ」
「はっ。いい面構えだ」
俺は不敵に笑い、短剣を逆手に持ち替えた。
本音を言えば、少しだけ嫉妬していた。俺は生きる理由を「面白い盤面」にしか見出せない。だがこの男は、どれだけ泥に塗れても、燃える理由を人の温もりの中に見つけ続ける。
俺には絶対にできない芸当だ。だから――せめて、この芝居の案内人くらいは務めてやろう。
「なら、俺が案内してやるよ。神様が逃げ出し、泥棒だけが残った、このクソッタレな戦場の中心までな」
帝国暦846年。帝都決戦。
光の英雄も、聖なる魔女もいない。
生き残ったのは、泥を愛し、泥を憎み、それでも生きたいと願う、不格好な人間たちだけだった。
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