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泥濘のレクイエム ―英雄の残火と、継ぎ接ぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第3章 黒土の祈りと、泥濘の帝都

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第30話:灰色の幕間(英雄像のひび割れ) 【ゼクス】

ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。

帝都の外れ、戦火の煙が立ち昇る廃屋の影。

俺は、そこで「それ」を待っていた。

マナを完全に消し、殺気を殺し、泥の匂いに紛れて。


帝都の北門から、断続的に爆音が響いてくる。

魔王シオンの泥が、城壁を押し潰す音だ。教会の光の防壁がいくつか耐えているが、時間の問題だろう。聖堂の鐘楼が一つ折れるたび、広場の民衆が悲鳴を上げる。

滑稽だ。自分たちが「完璧な英雄」として祀り上げた男が作り出した化け物に、今度は自分たちが喰われようとしている。


俺は懐から安酒のスキットルを抜き、一口煽った。酒の味はしない。煙と灰の匂いが全てを染めている。


やがて、霧の向こうから重苦しい足音が聞こえてきた。

かつてのような迷いのない騎士の足音ではない。

自分を削り、世界を敵に回し、それでもたった一つの体温を守り抜こうとする、呪われた男の足音。


数年ぶりに聞くそれは、以前より重く、そしてどこか軽くなっていた。棺を降ろしたのだ。中身を失ったか、それとも――目的を果たしたのか。


「久しぶりだな、アレン。いや、今は『死神』と呼ぶべきか?」


影から足を踏み出すと、そこには案の定、泥と返り血にまみれたアレンが立っていた。

背中には、もう棺はない。


代わりに、数年ぶりに目覚めたという、あの魔術師の女を大事そうに背負っている。

女――エリスは、目を固く閉じたまま震えていた。意識はあるのだろう。棺の中で数年、氷の呪いに耐えた女の精神が、目覚めた途端に地獄を見せられているのだ。

傍らには、リザードマンの戦士、魔女の弟子、そして我が情報部が「戦死」扱いにしたレオンの姿。全員がボロ切れのように疲弊し、それでも武器を手放していない。


「ゼクス」


アレンの声は、もはや感情の死滅した、剥き出しの鉄のような響きだった。

彼は俺を警戒し、抜く必要のない――もはや折れかかった鉄剣の柄に手をかけた。

あの聖剣は捨てた。俺が回収して帝都の地下金庫に放り込んである。この男は今、名もなき鉄くずで戦っている。


「安心しろ、仕事をしに来たわけじゃない。……ただ、教えてやろうと思ってな」


俺はスキットルを放り投げ、アレンの足元に転がした。

リザードマンが低く唸り、魔女の弟子が杖を構えた。だがアレンは制止の手を上げただけで、仲間を黙らせた。

その一挙手に、全員が従う。寄せ集めのはずの一行が、この男を中心に奇妙な統率を保っている。面白い。


「帝都はパニックだ。お前が産んだ『聖女の魔王』が、すぐそこまで来ている。お前の像を泥に沈めるために、数万の軍勢を引き連れてな」


アレンの眉が、微かに動いた。

背中で眠るエリスが、その言葉を聞いて震えているのがわかる。細い指がアレンの首筋に食い込んでいる。


「アレン。お前はエリスを救った。だが、その代償に世界を地獄に変えた。……さあ、どうする? このまま逃げて、二人きりで泥の底で一生を終えるか? それとも」


俺は、帝都の中心、燃え上がる宮殿を指差した。

炎の向こうで、泥の巨大な柱が天を衝いている。魔王シオンの力だ。あの泥は、もうこの男のことしか考えていない。歪んだ愛が、都市を一つ丸ごと呑み込もうとしている。


「あの日、捨て損ねた『英雄』という名の泥を、もう一度被って、あの魔王おんなを殺しに行くか」


アレンは、しばらくの間、沈黙していた。

彼の瞳には、かつての白銀の光など欠片も残っていない。

けれど、その暗闇の奥底で、ドロドロとした、執念という名のどす黒い炎が、今、再び燃え上がろうとしているのが見えた。


「ゼクス。俺は、エリスを救うために聖女を殺した。その報いは、俺が受ける」


アレンはエリスをそっと地面に下ろし、仲間のガルドとセトに彼女を預けた。

エリスが小さく「アレン」と呟いた。まだ声が掠れている。

アレンはそれに答えず、折れかかった剣を引き抜き、燃える帝都の空を仰いだ。


「俺は、英雄として死ぬつもりはない。……ただ、自分のしでかした『始末』をつけに行くだけだ」


「はっ。いい面構えだ」


俺は不敵に笑い、短剣を逆手に持ち替えた。

本音を言えば、少しだけ嫉妬していた。俺は生きる理由を「面白い盤面」にしか見出せない。だがこの男は、どれだけ泥に塗れても、燃える理由を人の温もりの中に見つけ続ける。

俺には絶対にできない芸当だ。だから――せめて、この芝居の案内人くらいは務めてやろう。


「なら、俺が案内してやるよ。神様が逃げ出し、泥棒だけが残った、このクソッタレな戦場の中心までな」


帝国暦846年。帝都決戦。

光の英雄も、聖なる魔女もいない。

生き残ったのは、泥を愛し、泥を憎み、それでも生きたいと願う、不格好な人間たちだけだった。

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