第29話:泥の瞳、覚醒の慟哭 【エリス】
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――熱い。
氷の檻に閉じ込められ、思考さえも凍りついていたはずの私の魂に、暴力的なまでの黄金の熱が流れ込んできました。
数年、あるいは数十年……。
時間の感覚が剥がれ落ちた暗闇の中で、私の手を強く、壊れそうなほどに握りしめていた「誰か」の体温だけが、私をこちらの世界へ引き戻そうと叫んでいました。
「あ、」
肺が空気を取り込み、喉が焼けるような痛みを訴えます。
重い瞼をゆっくりと押し上げると、そこには不気味な地下の岩肌と、煤けたランプの光。
そして――。
「アレン?」
目の前にいたのは、私の知っているアレンではありませんでした。
白銀の鎧も、誇り高き騎士の面影も、世界を照らした聖剣の光も、そこには何一つ残っていませんでした。
泥と血に汚れ、痩せこけた頬。
左肩からは生々しい傷跡が覗き、その瞳にはかつての純粋な正義感の代わりに、底なしの暗闇と、ひどく危うい執着だけが宿っていました。
「エリス。
ああ、エリス……目を開けたんだな。本当に、戻ってきたんだな」
アレンは私の頬を震える手で撫で、子供のように泣き崩れました。
彼の声は掠れ、ひどくボロボロで。
私は彼が私のためにどれだけの地獄を歩いてきたのか、その姿を見ただけで悟ってしまいました。
「ごめんね、アレン。私、ずっと、眠っちゃって」
私は弱々しい手を伸ばし、彼の頬に触れました。
けれど、彼を抱きしめようとした私の視界の端に、彼を支える「異様」な一行の姿が映り込みました。
巨大なトカゲの戦士、毒づきながら涙を拭う魔術師の少年、帝国の紋章をつけた傷だらけの騎士、そしてタンバリンを握りしめて立ち尽くす少女。
「アレン。
ここはどこ? あの人は……シオン様という人は、どこにいるの?」
私がそう問いかけた瞬間。
聖堂の入り口から、地響きのような不気味な咆哮と、私の肌を粟立たせるような「黒いマナ」の波動が流れ込んできたのです。
「シオン様は、もういないわ」
アレンの背後にいた侍女のミナさんが、私を、いえ、アレンを激しく射抜くような視線で睨みつけました。
「彼女は、貴女の魂をこの世界に繋ぎ止めるために、自分の命を捧げたの。
……そして、この男がそれを選んだ。貴女一人のために、私たちの聖女様を殺したのよ!」
「え……?」
頭を殴られたような衝撃でした。
アレンを見ると、彼は否定しませんでした。
ただ、苦しそうに顔を歪め、私の手をさらに強く握りしめるだけ。
「アレン……嘘でしょ?
あなたは、英雄だったはずじゃない。誰かを犠牲にするなんて、そんなこと」
「英雄なんて、とっくに捨てた」
アレンの声は、冷たく、そして重い鉄のようでした。
「世界を救っても、お前は救えなかった。
……だったら、そんな世界も、自分の中の正義も、全部ゴミ溜めに捨ててやると思った。
……エリス、俺を蔑んでくれていい。俺は、あいつの命を奪ってお前を選んだんだ」
嘘。
信じたくない。
あんなに真っ直ぐで、エルダ砦で震えながらも剣を抜いた、私の大好きなアレンが。
私を救うために、無実の少女の命を奪い、さらには地上の入り口で……今も響き渡るあの「魔王」の咆哮を産み落とした。
「アタシたち、もう行かなきゃ! 地上の騎士団も魔王軍も、あそこの『魔王シオン』が全部飲み込んじゃう……! アレン、早く、エリスさんを抱えて!」
リノと呼ばれた少女が叫びます。
アレンは無言で私を抱きかかえ、隠し通路へと走り出しました。
私の視線の先、崩れ去る地下聖堂の祭壇で、かつて聖女だったはずの美しい肉体が、禍々しい漆黒の翼を広げ、無慈悲に光の騎士たちを泥へと変えていく光景が焼き付いています。
あれは、アレンが犯した罪の形。
私という「個人の幸福」のために、世界が再び闇に飲み込まれる。
その重圧に、私は意識が遠のくのを感じました。
私たちは湿地帯のさらに外れ、霧の深い廃屋へと逃げ延びました。
アレンは私を古いベッドに横たえると、疲れ果てた仲間たちを外へ下がらせ、二人きりになりました。
「エリス。温かいスープを持ってくる。少し待っててくれ」
アレンが部屋を出ようとした時、私はそのボロボロの裾を掴みました。
「アレン」
「何だ?」
「嬉しい。
あなたが私を諦めないでいてくれたこと。また、あなたの声を聞けたこと。……本当に、嬉しいの」
アレンの背中が、微かに震えました。
「でも、苦しい。
私の心臓が動くたびに、あの子の悲鳴が聞こえる気がする。
……アレン、あなたは、私を救ってなんてくれなかった。……あなたは私を、世界で一番幸せな『大罪人の共犯者』にしたのよ」
アレンは振り返りませんでした。
ただ、一言。
「それでいい」
彼は、静かに扉を閉めました。
一人残された暗い部屋で、私は自分の胸元に手を当てました。
ドクン、ドクンと。
誰かの犠牲の上に成り立つ、呪わしくも愛おしい鼓動。
私は、アレンが選んだこの「泥まみれの愛」を、拒むことはできません。
けれど、もう二度と、私たちはあの白銀の空の下を、胸を張って歩くことはできない。
帝国暦846年。
英雄は死に、魔王が再誕し、一人の少女が目覚めました。
それは、ハッピーエンドなんて呼ぶにはあまりに汚れきった、残酷な物語の始まりでした。
「大好きだよ、アレン。……私と一緒に、地獄まで堕ちてね」
私は涙を流しながら、窓の外に広がる、黒く染まった帝都の空を見つめていました。
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