第28話:白陽の墜落、泥濘の処刑 【カシウス】
ブックマーク・評価いただけると、とても嬉しいです。毎日20時更新!
「アレン、行け。……この男は、私が『泥』にしてやる」
魔王シオンが、去りゆくアレンの背中に向かって、慈愛に満ちた、狂気的な声を投げかけた。
アレンは一瞬だけ足を止め、振り返ることなく、ただ重苦しく呻くようにして闇の向こうへと消えていった。
英雄が、自分を救うために犠牲にした少女と、その結果産まれた怪物を置き去りにして逃げる。その無様な背中こそが、帝国の嘘が崩壊した瞬間だった。
私――異端審問官カシウスは、この湿った洞窟の奥で、自身の信仰が試されていることを悟った。
幼い頃、飢饉で両親を失い、教会の孤児院に拾われた私は、光の教えだけを糧に生きてきた。泥は不浄。闇は邪悪。光だけが正義。その単純で美しい教義が、私の背骨であり、私の剣であり、私のすべてだった。
だが今、目の前に立っているのは、その教義では説明がつかない存在だった。
かつての聖女が纏う闇は、単なる邪悪ではない。歪んではいるが――あれは紛れもなく「愛」だ。泥にまみれた、おぞましい愛。
認めるわけにはいかない。認めたら、私の半生が嘘になる。
「貴様ぁぁッ!! 騎士団、突撃せよ!!」
私の号令に合わせ、精鋭たちが一斉に魔王へと斬りかかる。
二十名の騎士たち。一人ひとりが私と同じように教会で育ち、光を信じ、この瞬間のために命を捧げてきた者たちだ。
しかし、それは戦闘ですらなかった。
ドロリ、と。
床から噴き出した黒い茨のような泥が、騎士たちの足を、腕を、胴体を一瞬で絡めとった。
「ギ、ギャァァァァッ!!」
「熱い、身体が……溶ける……ッ!!」
光の鎧など紙細工に等しかった。
泥に触れた箇所から、騎士たちの肉体は急速に腐敗し、文字通り『土』へと還っていく。悲鳴はすぐに、湿った土が崩れるような音へと変わった。
「ヒィッ……あ、ああ」
さっきまで隣にいた副官が、一瞬で泥の塊と化したのを見て、私の誇りは音を立てて砕け散った。
杖を持つ手がガタガタと震える。
逃げようと足を踏み出したが、私の足もまた、すでに膝まで黒い泥に飲み込まれていた。
「神を語る者よ。お前たちが否定し続けたこの『泥』が、どれほど温かいか、教えてやろう」
魔王シオンが、優雅な足取りで私に近づく。
その顔には、かつての聖女の慈悲深い微笑みが張り付いたままだった。それが、何よりも恐ろしかった。
「や、やめろ……来るな! 私は、私は神に選ばれた……!!」
「神?
ああ、あの空っぽの光のことか。あんなものは、腹の足しにもならぬ」
彼女の冷たい指先が、私の頬に触れた。
触れられた場所から、魂が内側から腐り落ちていく感覚が走る。
私は絶叫しようとしたが、喉の奥まで黒い泥がせり上がってきて、声が出ない。
「アレンは、私を選んだのだ。
……お前たちのような綺麗な嘘ではなく、この汚くて、愛おしい泥を選んだのだよ」
魔王の瞳が、悦びに細められる。
彼女の指が、私の眼窩へと深く、ゆっくりと沈み込んでいった。
「グ、ギ……ギィィィィッ……!!」
眼球が潰れ、視界が真っ黒な泥に染まる。
激痛なんて言葉では足りない。
自分の存在が、一滴の雫となって、巨大な泥の海に溶けていくような、耐え難い自己の喪失。
「さあ、還るがいい。お前が蔑んだ、この大地の底へ」
魔王シオンが手をかざすと、私の足元の泥が巨大な口を開けた。
私は生きたまま、自分の細胞一つ一つが腐り、土へと分解されていく感覚を数分間にわたって味わい続け――。
最後は、泥濘の中に這い出そうとした指先一本だけを残して、完全に飲み込まれた。
帝国暦846年、肥沃な泥濘。
帝国の誇り、異端審問局の精鋭二十名は、一人の生存者も残さず消滅した。
後に残されたのは、かつて聖堂だった場所に広がる、どす黒い静寂の泥沼だけ。
そして、その泥の中央で、魔王となった少女は、アレンたちが去った闇をじっと見つめ、幸福そうに、残酷に、独りごちた。
「待っているよ、アレン。私の愛しい、泥棒さん」
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。ブックマーク・評価もぜひお願いします!




