第26話:泥の底に響く不協和音 【ミナ】
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「また、地上の方々が騒がしいようですわね」
私は丁寧に淹れた土の香りのする茶を、祭壇の前に座るシオン様の傍らへ置いた。
ここは地上の湿地帯から数十メートル下にある、黒土教の隠れ里。静寂が支配すべきこの場所が、今、不気味に震えている。
シオン様が茶碗に手を伸ばし、その細い指先が器の縁を撫でた。
私はその指を見るたび、心が締め付けられる。あの方の手は、人を癒すために生まれた手だ。魂縫いの秘術で、数え切れないほどの命を繋ぎ止めてきた――その代償に、指先にはいつも微かな震えが残っている。
地上の戦いは、ここには「音」としては届かない。
代わりに届くのは、土の根を通じた「震動」と、鼻腔を突くような「魔力の焦げた匂い」だ。
「ミナ。あの方たちが、来ましたよ」
シオン様が静かに目を開けた。その瞳には、私には見えない地上の「色」が映っているようだった。
私は、壁に張り巡らされた『大地の根』にそっと手を触れる。
――ビリビリと、指先を刺すような鋭い振動。
これは、帝国の『白陽騎士団』ですわ。
汚れを許さない、潔癖で暴力的な光の波動。
土を慈しむ私たちにとっては、肌を焼かれるような不快な熱。彼らは今、地上の泥を「浄化」という名目で焼き払っているのでしょう。
あの連中に見つかれば、黒土教の隠れ里は一夜で灰になる。
かつて東の集落がそうされた。私が幼い頃に暮らしていた、小さな祈りの集落。火の海の中で母が私を押し出し、逃げろと叫んだ声。私を拾ったのがシオン様だった。泥にまみれて震えていた六つの私を、シオン様は何も聞かず、ただ温かい手で頭を撫でてくださった。
だから私は侍女になった。シオン様のためなら、何でもする。命も、この手も、躊躇なく差し出せる。
――ドロリと、油のように重たく這いずる感覚。
これは、魔族。それも、相当に狡猾な『魔王軍の残党』。
光の槍の隙間を縫うようにして、獲物の喉元を狙う影の動き。彼らは聖女であるシオン様を、自分たちの「道具」としてしか見ていない。その冷酷な意思が、土を通じて伝わってきます。
腰に忍ばせた短剣の重みを、私は無意識に確かめた。
祭祀用の短剣――絶魔の刃。黒土教に古くから伝わる、魔力を完全に断ち切る刃。本来は儀式の供物用だが、万が一の時には、人も魔族も等しく切り裂ける。
シオン様を守るためなら、私は聖女の侍女を辞めて殺人者にもなれる。
そして。
「あら?」
私は思わず声を漏らした。
その二つの巨大な波に挟まれるようにして、もう一つの「異質な足音」が聞こえてきたからだ。
それは、騎士団のような鋭さもなく、魔族のような滑らかさもない。
ズシン、ズシンと、まるで重い荷物を背負ったまま泥濘を這いずる、不器用で、重苦しい足音。
けれど、その一歩一歩には、地上の誰よりも深い「執着」が宿っている。
不快だった。
あの足音の主が何を背負っているのか、私には分かる。棺だ。呪われた女を入れた棺を、何年も背負い続けて歩き回っている狂人。帝国が讃える英雄の成れの果て。
けれど同時に、その執着の深さに、私は言い知れぬ恐怖を覚えていた。
あの男は、愛する人のためなら世界を敵に回すことを躊躇わない。その覚悟の強さだけは――侍女として主君に仕える私にも、骨身に沁みて分かるのだ。
だからこそ、嫌い。
あの男がシオン様に何を求めるにせよ、シオン様を道具にすることだけは許さない。
白陽騎士団にも。魔族にも。そして――あの泥だらけの英雄にも。
「なんて悲しい足音。あんなに傷だらけで、自分を削りながら、何を求めてここへ向かっているのかしら」
シオン様が、祭壇の土を優しく撫でた。
その声は、慈しみに満ちていた。シオン様の瞳に、あの男への同情が浮かんでいるのが見えて、私の胸の奥が冷たくなった。
シオン様、どうかあの男に情を移さないでください。
あなたの優しさは武器ではなく弱点だ。あの男の「泥」は、触れた者を道連れにする。
その時、地上の「不協和音」が最高潮に達した。
凄まじい熱波が地表を焼き、影が爆ぜる感覚。
光と闇が激突し、互いを食らい合う中で、あの「重苦しい足音」だけが、真っ直ぐにこの里の入り口を目指して突き進んでくる。
迷いがない。
自分に投げかけられる光の槍も、背後から迫る影の刃も、まるで「ただの雨」であるかのように無視して歩き続けている。
「ミナ。入り口の準備を。……間もなく、泥だらけの救世主が、私たちの扉を叩きます」
「畏まりました、シオン様」
私は一礼し、洞窟の入り口へと向かった。
背後で、シオン様が立ち上がる衣擦れの音がした。あの方は、もう決めているのだ。あの男のために何かをすると。
絶魔の刃の柄を握る指に、知らず力が入った。
地上の凄惨な殺し合いなど、私たちには関係のないこと。
けれど、あの泥にまみれた足音の主が、どのような絶望を背負ってこの門を潜るのか。
そして――その絶望が、シオン様の優しさをどこまで食い潰すのか。
私は少しだけ恐ろしい予感を抱きながら、固く閉ざされた土の扉に手をかけた。
帝国暦846年。肥沃な泥濘。
地上の地獄を置き去りにして、たった一つの執念が、今、世界の裏側へと手を伸ばそうとしていた。
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