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泥濘のレクイエム ―英雄の残火と、継ぎ接ぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第3章 黒土の祈りと、泥濘の帝都

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第25話:泥濘の境界線(光を拒む湿地) 【セト】

お読みいただきありがとうございます。毎日20時に更新しています。

「クソ暑いな。さっきまで雪山で死にかけてたのが嘘みたいだ」


俺は額にまとわりつく湿った不快な汗を、汚れた袖で乱暴に拭った。

大陸の北端『竜の顎』を下り、俺たちが辿り着いたのは、帝都のすぐ南に広がる広大な湿地帯――『肥沃な泥濘ねいねい』。

数年前の大戦役で凄惨な戦場となり、今は草木が異常なほど繁茂し、腐った泥の匂いが立ち込める不毛の地だ。


「セト君、これ飲んで! 喉、乾いてるでしょ?」


リノが、どこで見つけてきたのか、野草を煮出した怪しい色の水を差し出してきた。


「サンキュ。お前、よくこんな状況でそんな元気でいられるな」


俺は毒づきながらも、ぬるい液体を喉に流し込んだ。


俺たちのパーティーは、今、綱渡りのような絶望の中にいた。

背後には、俺の背嚢の中で黄金に輝く『封絶のランタン』。

そして前には、相変わらず黙々と、巨大な棺を背負って泥の中に足を踏み入れる男――アレン。


「ガルドのおっさん、そっちはどうだ」


俺が小声で尋ねると、少し前方を歩いていたリザードマンの戦士が、長い舌をチロリと出して空気の振動を確かめた。


「人間の気配が増えている。

……それも、ただの村人ではない。

鉄の匂いと、焼きつくような魔力の残滓……。帝国の正規兵、それも選りすぐりの連中だ」


ガルドの言葉に、殿しんがりを務めていたレオンが鋭く反応した。


「白陽騎士団だ。

教会の異端審問局が、ついに本格的に動き出したんだ。

彼らは異端を見つけるためなら、この広い湿地帯を丸ごと焼き払うことも厭わない」


俺は懐のランタンを強く抱き締めた。

皮肉なもんだ。神話の熱源を手に入れた俺たちが、今度は「神の光」を掲げる連中に、異端として狩られようとしている。


「アレン。少し休まないか」


俺は、泥に膝まで浸かりながら歩き続けるアレンの背中に声をかけた。


「てめえ、山を下りてから一睡もしてねえだろ。左肩の傷だって、また膿んできてる」


アレンは立ち止まらなかった。

泥にまみれた外套をたなびかせ、彼はただ一歩、また一歩と、執念だけでその足を前へと進めていた。


「目的地は、近い」


その声は、もう人間の出す音とは思えなかった。

掠れて、軋んで、今にも消え入りそうな、死人の呟き。

俺はゾッとした。この男は、もう自分を動かすための「燃料」を使い果たしている。今はただ、エリスとかいう女を救うという狂気的な『呪い』だけで、その肉体を無理やり操作しているだけだ。


「おい……!

無茶を言うな! 聖女の隠れ里を見つける前に、お前が死んだら――」


「死なない」


アレンが、初めて立ち止まり、俺を振り返った。

その瞳は、霊峰で見た時よりもさらに深く、暗い淵のようになっていた。


「聖女に会うまでは。こいつ(エリス)を、元の世界へ繋ぎ止めるまでは……俺は、泥の中でも生き続ける」


その瞳の奥にある、純粋すぎて、あまりに醜悪な「生への執着」。

それは、俺が師匠の洞窟で見てきたどんな禁忌の魔術よりも、悍ましく、そして神々しかった。


「ハッ。

わかったよ、大馬鹿野郎。てめえのその汚い命、聖女に会うまで俺たちが繋いでやる」


俺は杖を突き、泥を跳ね上げてアレンの隣に並んだ。


その時だ。

湿地の奥、濃い霧が立ち込める向こう側から、キィィィィン……と、耳鳴りのような不快な音が響いてきた。


「伏せろッ!!」


レオンが絶叫した。


直後、俺たちの数メートル先にある泥沼が、まばゆい光の槍によって爆発した。

ドォォォォォン!! という轟音と共に、泥水と腐った魚が空高く舞い上がる。


「見つけたぞ、不浄なる者どもよ」


霧の向こうから、真っ白な法衣と銀の鎧に身を包んだ集団が、泥の上を滑るように現れた。

総勢二十名。

その中心にいるのは、首から巨大な黄金の十字架を下げ、右手に血のような真っ赤なマントを纏った男。帝国軍の指揮官ではない。聖教会の異端審問官だ。


「我が名はカシウス。

神の光に背き、死者と共に泥を這う亡者たちよ。その穢れた魂ごと、今ここで浄化してやろう」


審問官カシウスが杖を掲げると、白陽騎士たちが一斉に光り輝く剣を抜き放った。


「チッ。最悪だ。アレン、こいつら本気だぞ」


俺はランタンの蓋に手をかけ、魔力を練り上げた。


だが、アレンは剣を抜かなかった。

彼はただ、背負った棺の紐を締め直し、泥にまみれた拳を固く握りしめた。


「邪魔だ。そこを、どけ」


「愚かな。英雄を騙る罪深き男よ、貴様のその傲慢さこそが闇を招くのだ」


カシウスが冷酷に宣告し、騎士たちが一斉に襲いかかってこようとした、その時。


ドロ……ドロリ……。


騎士たちの背後、湿地の泥の中から、どす黒い「影」が立ち上がった。

それは人間ではない。魔術的な処置を施された、魔族の暗殺兵。

そして、その影の中から、あの厭味なほど整った声が響いた。


「おいおい、お堅い教会のお歴々。その獲物は、我ら魔王軍が先に予約してあるんでね」


霧の中から現れたのは、黒い法衣を纏った男――魔王軍の参謀、ヴェルだった。

彼は手に持った漆黒の結晶を弄びながら、冷たい視線を審問官へと向ける。


「魔族だと……!? 貴様ら、こんな帝都の鼻先まで……!」

「お互い様だろう? 聖女という名の『稀少な針』を求めているのはな」


審問官(白)、魔王軍(黒)、そしてアレンたち(泥)。

三つの勢力が、聖女シオンが眠る隠れ里の入り口を前に、一触即発の睨み合いとなった。


俺は、懐のランタンがカタカタと震えているのに気づいた。

違う。震えているのはランタンじゃない。俺の指先だ。

三つ巴。この絶望的な戦力差の中で、俺たちが生き残る道は、ただ一つ。


「アレン。

合図したら、俺がランタンの熱で霧を蒸発させる。……その隙に、突っ切るぞ」


俺は小声で囁いた。

アレンは無言で頷き、左足を一歩、深く泥の中に踏み込んだ。


帝国暦846年。肥沃な泥濘。

光と、闇と、泥。

三つの執念が激突する、大戦役再来の戦火が、今まさに切って落とされようとしていた。

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