第25話:泥濘の境界線(光を拒む湿地) 【セト】
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「クソ暑いな。さっきまで雪山で死にかけてたのが嘘みたいだ」
俺は額にまとわりつく湿った不快な汗を、汚れた袖で乱暴に拭った。
大陸の北端『竜の顎』を下り、俺たちが辿り着いたのは、帝都のすぐ南に広がる広大な湿地帯――『肥沃な泥濘』。
数年前の大戦役で凄惨な戦場となり、今は草木が異常なほど繁茂し、腐った泥の匂いが立ち込める不毛の地だ。
「セト君、これ飲んで! 喉、乾いてるでしょ?」
リノが、どこで見つけてきたのか、野草を煮出した怪しい色の水を差し出してきた。
「サンキュ。お前、よくこんな状況でそんな元気でいられるな」
俺は毒づきながらも、ぬるい液体を喉に流し込んだ。
俺たちのパーティーは、今、綱渡りのような絶望の中にいた。
背後には、俺の背嚢の中で黄金に輝く『封絶のランタン』。
そして前には、相変わらず黙々と、巨大な棺を背負って泥の中に足を踏み入れる男――アレン。
「ガルドのおっさん、そっちはどうだ」
俺が小声で尋ねると、少し前方を歩いていたリザードマンの戦士が、長い舌をチロリと出して空気の振動を確かめた。
「人間の気配が増えている。
……それも、ただの村人ではない。
鉄の匂いと、焼きつくような魔力の残滓……。帝国の正規兵、それも選りすぐりの連中だ」
ガルドの言葉に、殿を務めていたレオンが鋭く反応した。
「白陽騎士団だ。
教会の異端審問局が、ついに本格的に動き出したんだ。
彼らは異端を見つけるためなら、この広い湿地帯を丸ごと焼き払うことも厭わない」
俺は懐のランタンを強く抱き締めた。
皮肉なもんだ。神話の熱源を手に入れた俺たちが、今度は「神の光」を掲げる連中に、異端として狩られようとしている。
「アレン。少し休まないか」
俺は、泥に膝まで浸かりながら歩き続けるアレンの背中に声をかけた。
「てめえ、山を下りてから一睡もしてねえだろ。左肩の傷だって、また膿んできてる」
アレンは立ち止まらなかった。
泥にまみれた外套をたなびかせ、彼はただ一歩、また一歩と、執念だけでその足を前へと進めていた。
「目的地は、近い」
その声は、もう人間の出す音とは思えなかった。
掠れて、軋んで、今にも消え入りそうな、死人の呟き。
俺はゾッとした。この男は、もう自分を動かすための「燃料」を使い果たしている。今はただ、エリスとかいう女を救うという狂気的な『呪い』だけで、その肉体を無理やり操作しているだけだ。
「おい……!
無茶を言うな! 聖女の隠れ里を見つける前に、お前が死んだら――」
「死なない」
アレンが、初めて立ち止まり、俺を振り返った。
その瞳は、霊峰で見た時よりもさらに深く、暗い淵のようになっていた。
「聖女に会うまでは。こいつ(エリス)を、元の世界へ繋ぎ止めるまでは……俺は、泥の中でも生き続ける」
その瞳の奥にある、純粋すぎて、あまりに醜悪な「生への執着」。
それは、俺が師匠の洞窟で見てきたどんな禁忌の魔術よりも、悍ましく、そして神々しかった。
「ハッ。
わかったよ、大馬鹿野郎。てめえのその汚い命、聖女に会うまで俺たちが繋いでやる」
俺は杖を突き、泥を跳ね上げてアレンの隣に並んだ。
その時だ。
湿地の奥、濃い霧が立ち込める向こう側から、キィィィィン……と、耳鳴りのような不快な音が響いてきた。
「伏せろッ!!」
レオンが絶叫した。
直後、俺たちの数メートル先にある泥沼が、まばゆい光の槍によって爆発した。
ドォォォォォン!! という轟音と共に、泥水と腐った魚が空高く舞い上がる。
「見つけたぞ、不浄なる者どもよ」
霧の向こうから、真っ白な法衣と銀の鎧に身を包んだ集団が、泥の上を滑るように現れた。
総勢二十名。
その中心にいるのは、首から巨大な黄金の十字架を下げ、右手に血のような真っ赤なマントを纏った男。帝国軍の指揮官ではない。聖教会の異端審問官だ。
「我が名はカシウス。
神の光に背き、死者と共に泥を這う亡者たちよ。その穢れた魂ごと、今ここで浄化してやろう」
審問官カシウスが杖を掲げると、白陽騎士たちが一斉に光り輝く剣を抜き放った。
「チッ。最悪だ。アレン、こいつら本気だぞ」
俺はランタンの蓋に手をかけ、魔力を練り上げた。
だが、アレンは剣を抜かなかった。
彼はただ、背負った棺の紐を締め直し、泥にまみれた拳を固く握りしめた。
「邪魔だ。そこを、どけ」
「愚かな。英雄を騙る罪深き男よ、貴様のその傲慢さこそが闇を招くのだ」
カシウスが冷酷に宣告し、騎士たちが一斉に襲いかかってこようとした、その時。
ドロ……ドロリ……。
騎士たちの背後、湿地の泥の中から、どす黒い「影」が立ち上がった。
それは人間ではない。魔術的な処置を施された、魔族の暗殺兵。
そして、その影の中から、あの厭味なほど整った声が響いた。
「おいおい、お堅い教会のお歴々。その獲物は、我ら魔王軍が先に予約してあるんでね」
霧の中から現れたのは、黒い法衣を纏った男――魔王軍の参謀、ヴェルだった。
彼は手に持った漆黒の結晶を弄びながら、冷たい視線を審問官へと向ける。
「魔族だと……!? 貴様ら、こんな帝都の鼻先まで……!」
「お互い様だろう? 聖女という名の『稀少な針』を求めているのはな」
審問官(白)、魔王軍(黒)、そしてアレンたち(泥)。
三つの勢力が、聖女シオンが眠る隠れ里の入り口を前に、一触即発の睨み合いとなった。
俺は、懐のランタンがカタカタと震えているのに気づいた。
違う。震えているのはランタンじゃない。俺の指先だ。
三つ巴。この絶望的な戦力差の中で、俺たちが生き残る道は、ただ一つ。
「アレン。
合図したら、俺がランタンの熱で霧を蒸発させる。……その隙に、突っ切るぞ」
俺は小声で囁いた。
アレンは無言で頷き、左足を一歩、深く泥の中に踏み込んだ。
帝国暦846年。肥沃な泥濘。
光と、闇と、泥。
三つの執念が激突する、大戦役再来の戦火が、今まさに切って落とされようとしていた。
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