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泥濘のレクイエム ―英雄の残火と、継ぎ接ぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第3章 黒土の祈りと、泥濘の帝都

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第21話:這い上がる泥濘、融けない絶望 【レオン】

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指先の爪はすべて剥がれ、凍りついた血で赤黒く染まっていた。

肺の中はガラスの破片を吸い込んでいるように痛む。


それでも僕は、ワイバーンの血で溶けた氷の壁に指を食い込ませ、数時間、あるいは十数時間かけて、死のクレバスから斜面へと這い上がった。


「ハァ、ハァ……っ!」


猛吹雪は止んでいた。

視界に広がるのは、雲海を突き抜ける霊峰の青い空と、果てしなく続く白銀の雪原。

僕は雪の上に仰向けに倒れ込み、激しくむせた。


胸の傷が開き、再び生温かい血が流れるのを感じる。


だが、生きている。生きて、この地獄の底から這い上がったのだ。


その時、ザク、ザクという複数人の足音が、雪を踏みしめてこちらへ向かってくるのが聞こえた。


「おいおい、冗談だろ……? こんな場所で、生き残りがいたのか?」


魔術師の少年の声だ。


「警戒しろ、セト。

帝国軍の制服だ。生き残りとはいえ、我らに牙を剥くかもしれん」


重低音の、リザードマンの戦士の声。


僕は重い瞼をゆっくりと開けた。

逆光の中、四つの影が僕を見下ろしていた。

巨大なトカゲの戦士、魔術師の少年、踊り子のような少女。

そして――信じられないほど巨大な『氷の棺』を背負い、飛竜の血にまみれたボロボロの外套を羽織った男。


「アレン、様」


ひび割れた唇から、掠れた声が漏れた。

アレン様は、警戒して杖や槍を構える仲間たちを手で制止し、無言で僕の傍らに膝をついた。


その空洞のような瞳が、僕の胸元で凍りついている帝国の認識票を捉える。


「第五北征部隊の、レオン小隊長……ですね。俺は、神様なんかじゃありません。ただの、アレンです」


彼が、かつての『人間』としての名乗りを上げた瞬間、僕の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。

ああ、間違いない。


この泥だらけで、ボロボロで、血の匂いが染み付いたこの人こそが、僕がずっと背中を追い続けてきた、本当の英雄なのだ。


「置いていこう、アレン。帝国の犬に関われば、ろくなことにならない」


魔術師の少年が冷たく吐き捨てるが、アレン様は首を横に振った。


「見捨てる理由は、ない」


彼はそう短く告げると、僕の体を軽々と抱き起こし、少女に向かって「リノ、傷の手当てを」と指示を出した。


それから数時間後。

私たちは霊峰の中腹、クレバスから少し離れた岩陰で風を避け、休息を取っていた。

リノと呼ばれた少女と、セトという少年の処置により、僕の胸の傷は塞がり、死の淵からは脱することができた。


彼らは僕が帝国軍の人間だと知ってなお、貴重なポーションや魔力を惜しみなく使ってくれたのだ。


「すまない。助けていただいて」


「気にするなよ、レオンのお兄さん。

どうせあんたの部隊は全滅したんだろ?

王都に帰ったところで、敗戦の責任を問われるだけだ。ゆっくり休んでけ」


セトは焚き火に薪をくべながら、自嘲気味に笑った。


彼の足元には、鈍く光る奇妙な『ランタン』が置かれている。

その檻の中には、直視できないほどまばゆい黄金の光――古代竜が守っていた神話の熱源『原初の残り火』が、静かに、しかし圧倒的な熱量を秘めて脈打っていた。

僕たち二百名の精鋭部隊が全滅してまで手に入れられなかったものを、この寄せ集めの四人は、本当に持ち帰ってきたのだ。


「セト。準備はいいか」


岩壁の隅で、ずっと背中の棺に寄りかかって目を閉じていたアレン様が、静かに目を開けた。

その瞳の奥に、かつてないほど強い『切望』の光が宿っているのを、僕は見逃さなかった。

彼がこれほどの地獄を歩き続けてきた理由。


その棺の中で眠る女性の呪いを、いよいよ解き放つ時が来たのだ。


「ああ。ここなら古代竜の追手も来ない。……やるぜ、アレン」


セトが立ち上がり、緊張した面持ちでランタンを手に取った。

アレン様は慎重に棺の蓋を開け、中に眠る女性――エリスさんの体を露わにした。

彼女の胸元から首筋にかけて、黒い氷のような禍々しい痣がびっしりと張り付いている。

魔王が遺したという『永久凍土の呪縛』。


「いいか、アレン。

このランタンの口を少しだけ開けて、原初の残り火の熱をピンポイントで呪いの痣に照射する。

神話の熱量なら、絶対に氷は融ける。

……だが、万が一にも彼女の肉体を焼かないように、俺の魔力で熱の通り道を制御する。少しでも異常があったら、すぐに止めるぞ」


セトの額には、滝のような汗が浮かんでいた。

アレン様は無言で頷き、エリスさんの冷たい手を両手で包み込むように強く握りしめた。


「頼む」


セトが深呼吸をし、ランタンの金属の蓋をカチリ、と僅かに開いた。

瞬間、黄金の熱線が一直線に放たれ、エリスさんの胸元を覆う黒い氷へと照射される。

ジジュゥゥゥッ……!

という嫌な音と共に、絶対に融けないはずだった呪いの氷が、微かに白煙を上げて融解を始めた。


「! 融ける……! アレン、氷が融けてるぞ!」


リノが嬉しそうに声を上げた。アレン様の目が見開かれ、握りしめた手にさらに力がこもる。


だが、術式を制御していたセトの顔から、一瞬にして血の気が引いた。


「待て。違う、ダメだ!!」


セトが悲鳴のような声を上げ、ランタンの蓋を乱暴に叩き閉めた。

黄金の熱線が途絶え、洞窟に再び重い静寂が降りる。

エリスさんの胸元の氷はほんの数ミリ融けただけで、すぐにまた黒い凍結を取り戻していた。


「なぜ止めた、セト」


アレン様の声は、ひどく低く、そして微かに震えていた。


あと一歩で彼女を救えるというところで止められた、怒りではなく、得体の知れない恐怖に直面した声。


「ち、違うんだ、アレン……! 俺も、今実際に熱を当ててみるまで、この呪いの『本当の構造』に気づかなかった……!」


セトはガタガタと震える手で頭を抱え、後ずさった。


「この『永久凍土の呪縛』は……ただ肉体とマナを凍らせているんじゃない! この氷は、彼女の『魂』が肉体から離れようとする瞬間を、無理やり固定して時間を止めているだけなんだ!」


「魂が……?」


ガルドが低い声で問い返す。


「ああ……!

だから、このまま原初の残り火で氷を完全に融かしてしまえば、時間を止められていた魂は、繋ぎ止めるものを失って……瞬時に霧散する!

肉体がどれだけ無事でも、魂が空の彼方へ消え去っちまうんだよ!!」


セトの絶叫が、氷の壁に反響した。


「つまり、俺たちが今、この残り火で彼女の氷を融かせば……それは解呪なんかじゃない。ただの、痛み一つない完璧な『火葬とどめ』になっちまうんだ……!!」


その言葉の意味を理解した瞬間、洞窟の空気が完全に凍りついた。

リノが両手で口を覆い、声にならない悲鳴を上げる。僕も、あまりの絶望的な事実に息ができなかった。


アレン様の喉から、掠れた空気だけが漏れた。言葉にならない、絶望そのものの呼気だった。


アレン様は、ゆっくりと、ふらつくような足取りで立ち上がった。

そして、セトの胸ぐらを両手で掴み上げ、壁に叩きつけた。


「アレン……っ!」

「じゃあ……どうすればいい……!

魂を繋ぎ止める方法が、何かあるはずだろ!! お前の魔女の師匠なら、知っているんじゃないのか!!」


それは、激怒ではなかった。

死に物狂いで、泥をすすり、自分の命を削って登り詰めた山の頂で、手にした希望がただの「殺戮兵器」でしかなかったと知らされた男の、血を吐くような慟哭だった。


セトは胸ぐらを掴まれたまま、悔し涙をボロボロと流して首を横に振った。


「知らねえよ……!

魂を肉体に縫い付けるなんて神の領域、うちの師匠にも、現代のどの魔法使いにも絶対に不可能だ!

……ごめん、アレン。俺たちじゃ、エリスさんを……救えない……!」


アレン様の手から、力が抜け落ちた。

彼はセトを解放し、そのまま糸が切れた操り人形のように、雪の上に膝から崩れ落ちた。

空洞だった瞳に、今はただ、底なしの暗闇だけが広がっている。

彼はただ静かに、冷たい棺に額を押し当て、子供のように肩を震わせていた。


「アレン」


リノが泣きながら彼にすがりつくが、彼にはもう何も届いていないようだった。


クレバスの底から這い上がってきた僕が目にしたのは、神話の化け物を打ち倒す英雄の姿ではない。

運命という名の残酷な理不尽に徹底的に打ちのめされ、泥の底で泣き崩れる、ただの惨めな一人の青年の姿だった。


帝国暦846年。

絶対的な熱源を手に入れた一行は、同時に、それを扱うための『最後の鍵(魂の縫縛)』が欠けているという、途方もない絶望の底へと突き落とされた。

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