残り火の行方、まだ据わらない盤 【ゼクス】
ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。
春が近い。
帝都の窓辺に立つと、まだ雪の匂いのほうが強い。だが空気の底には、雪の下で何かが動き始める前の、あの落ち着かない湿りが混じっている。
私はその匂いが嫌いではなかった。
「室長」
ヴェインが、扉を叩く前に入ってきた。行儀の悪さも、もう直す気がないらしい。
「西方から、また新しい写しが」
「読め」
彼は羊皮紙を広げ、疲れた声で読み上げる。
「`英雄アレンが魔王と相打ちになった、というのは、実は正確ではない`――そういう説法が、辺境の教会で三件。いずれも独立に発生。示し合わせた形跡なし」
「独立に、か」
「はい。しかも、どれも根拠が薄弱すぎて逆に信憑性が出てます。噂ってのは、証拠が強すぎると疑われますからね」
私は笑った。ヴェインは露骨に嫌そうな顔をする。
「面白いか」
「面白いさ。誰も仕組んでいない綻びが、一番よく育つ」
美しい嘘というものは、それ自体では長持ちしない。誰かが必ず、綺麗すぎることに疑いを持ち始める。その疑いの芽を、私はただ、少しだけ早く育つ土へ植え替えただけだ。
西の処刑場も、卵も、カイルという事故的な選ばれ方も、すべては同じ理屈だった。
嘘はいつか割れる。
割れた時に、代わりの形が一つもなければ、帝国はただ崩れるだけだ。
だが代わりの形が多すぎれば、今度はどれが本物かという新しい争いが始まる。
私が欲しかったのは、そのどちらでもない。
割れた後も、誰も一つの答えに座り込まない盤面。
「室長」
ヴェインの声が、少し硬くなった。
「`空座の列` の追尾案件、あれは結局、どうするんです」
「どうもしない」
「は?」
「追わせるだけ追わせて、捕まえるな。捕まえた瞬間、それはまた一つの `正解` になる」
ヴェインは頭を抱えた。
「それ、僕の胃で受け止める話じゃないですよね」
「お前の胃は、優秀な計測器だ。役に立っている」
「褒め言葉として受け取れません」
私はもう一度笑った。今度は声に出さずに。
窓の外、遠くの尾根に、白い煙が薄く立っている。北影があった辺りだ。ラザルたちが完全に痩せさせた午前番のおかげで、あそこはもう地図の上でさえ意味を持たない場所になっている。
見事な仕事だった。
自分の手柄にする気は、さらさらない。ああいう仕事は、名を与えた瞬間に価値が落ちる。
「ヴェイン」
「はい」
「三位一体の少女――いや、もうそう呼ぶのも古いか」
「呼び方、変えるんですか」
「呼び方を決めた瞬間、追いやすくなる代わりに、向こうも一つの姿に固まりやすくなる。だから変えない」
ヴェインは、ますます嫌そうな顔をした。だがもう驚きはしない。
「あの器と、運び屋と、元侍女は、今どこに」
「南西の山間に一度入って、また出たようです。散らばった `かけら` とやらを、拾い集めているとか」
「集めきったら、どうなる」
「分かりません。分けられるのか、また一つに固まるのか」
私は、その答えを知らない。知る必要もないと思っている。
分かれるにせよ、固まるにせよ、それはもう私の盤面ではない。私が用意したのは、割れた後の世界に、複数の可能性を残すことだけだ。彼らがどの可能性を選ぶかは、彼らの仕事だ。
「西の処刑場のことは」
ヴェインが、少し声を落として聞いた。
「表に出ますか」
「もう出た」
「え」
「あの器が消える時、私はあえて名を名乗った。忘れたか」
ヴェインの顔から血の気が引く。
「まさか、わざと――」
「わざとに決まっている」
私は窓辺から離れ、机の地図を見た。赤い待ち針が、あちこちに刺さっている。北影、返し井、空座の渡し場、空座の列。どれも、もう案件としての熱を失っている。
「西の処刑場の噂もまた、いずれ誰かの口から漏れる。漏れた時、`帝国は死刑囚さえ道具にする`という新しい嘘が生まれるだろう。それもまた、綺麗すぎる話だ」
「綺麗すぎるって、それ悪い話ですよね」
「悪い話には、疑う者が必ず湧く。疑う者がいる限り、盤面は一つの絵に固まらない」
ヴェインは、深く長いため息をついた。
「室長は、本当に、何かを守りたいわけじゃないんですね」
「守りたいものが一つでもあれば、私はとうに部下失格だ」
そう答えると、彼は妙に納得したような、それでいて余計に胃が痛そうな顔で下がっていった。
一人になった執務室で、私は古い報告書の束を眺めた。
ファウスト。
卵。
灰色の聖剣。
北影。
空座の列。
西の処刑場。
どれも、私が仕込んだ交差点だった。最悪の交差点、と誰かは呼ぶだろう。だが最悪というのは、正しくは「誰にも都合よく片づかない交差点」という意味だ。
英雄も。
聖女も。
魔王も。
運び屋も。
侍女も。
誰も、一つの役に納まりきらないまま、この先を歩いていく。
それでいい。
いや――それがいい。
美しい噓に納まった帝国よりも、そのほうがずっと長持ちする。長持ちするというのは、正しさとは関係がない。ただ、壊れる時に一人だけを巻き込んで終わらない、というだけの話だ。
窓の外、雪が少しだけ緩んでいる。
春が来れば、噂はもっと速く広がるだろう。教会は割れ、帝国記録網は右往左往し、地方現場はまた新しい `見なかったふり` を覚える羽目になる。
面倒なことだ。
だが、面倒であることこそ、盤面がまだ死んでいない証拠だった。
私は羊皮紙の余白に、新しい待ち針の位置を一つだけ書き足した。
具体的な場所ではない。
まだ、ただの可能性だ。
`次に、誰が座を欲しがるか`
それだけを書いて、私は筆を置いた。
物語というのは、綺麗に終わる時、たいてい何かを一つに決めてしまっている。
英雄は英雄のまま死に、悪は悪のまま滅び、恋は成就するか、しないかのどちらかに座る。
だが、この盤面はそうならなかった。
灰色の聖剣は、支配でも暴走でもなく、ただの共生に落ち着いた。
運び屋は、英雄にならないまま、必要な時だけ支える手を持ち続けている。
元侍女は、復讐を手放さないまま、それでも誰かのために歩き続けている。
仮の器は、まだ一人になっていない。三つのまま、かけらを探して歩いている。
そして帝国の噓は、誰に殺されるでもなく、ただ自然に、少しずつ、割れ始めている。
誰も、完全な答えに座っていない。
それこそが、私がずっと欲しかった盤面だった。
私は椅子に深く座り直し、窓の外の薄い光を見つめた。
まだ、何も終わっていない。
ただ、この一続きの物語だけが、ここで一区切りを迎えただけだ。
次の座を、次は誰が欲しがるのか。
それを見届けるのも、悪くない。
帝国暦850年、初春手前。ゼクスは、`英雄アレンが魔王と相打ちになった`という帝国の公式神話が、独立発生的な疑義によって各地で綻び始めたことを確認し、それが自らの仕込みの必然的な帰結であることを静かに認める。彼は`空座の列`の追尾案件についてヴェインへ「捕まえるな」と指示し、`西の処刑場`の存在をあえて自ら明かしていたことを告げることで、帝国という一つの噓が崩れた後も誰か一人の答えに盤面が固まらないよう仕向け続けていたことを明らかにする。灰色の聖剣が共生に落ち着き、カイルが英雄にならないまま支える手を持ち続け、ミナが復讐を手放さないまま歩み続け、三位一体の少女がまだ一つに定まらないまま散らばった欠片を探し続けている現状を、ゼクスは自分が欲した盤面そのものとして受け止め、次に誰がその座を欲しがるかを見届ける構えのまま、物語のこの一続きを静かに閉じる。
ご愛読ありがとうございました。




