白百合の帰る先、崩れ始めた鐘 【ミナ】
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血止めの布を巻く手つきに、侍女の癖が出ます。
きつすぎず、緩すぎず、傷の形に合わせて角度を変える。カイルの右腕は、もう灰色には戻っていませんでした。ただ、皮膚の下にまだ何か燻っているような、鈍い熱だけが残っています。
「痛むか」
聞くと、カイルは肩をすくめました。
「痛くねえって言ったら嘘になる。でも、前より怖くない」
それだけで十分な答えでした。私はそれ以上聞きません。聞けば、それも侍女の世話が過ぎることになる。
窪みの列に、みんなそれぞれの場所で休んでいます。セトは観測石を膝に置いたまま眠りに落ちかけ、リノがその肩を布で覆っていました。レオンは入口線から動かず、静かに闇を見ています。
三位一体の少女は、少し離れた浅い窪みの縁に、まだ座らないまま体重の半分だけを預けていました。
私は、懐から小さな包みを取り出しました。
北影から、ずっと持ち歩いていたもの。いいえ、北影よりもっと前――帝都の玉座の間で、崩れた瓦礫の下から拾い上げた、あの日から。
白百合に似た輪郭を持つ、氷のように冷たい欠片。
触れると、いつも指の先から魂まで凍りつくような感覚がありました。だから私は、これを誰にも見せず、誰にも触れさせず、ただ自分の胸元に隠し続けてきたのです。
なぜ、拾ったのか。
自分でもずっと分かりませんでした。
シオン様が胸元に飾るのを好んでいらした、あの意匠に似ていたから。それだけだと思っていました。でも本当は、もっと単純な理由だったのかもしれません。
――何か一つでも、あの方のものを、この手に残しておきたかった。
侍女として、それは正しい振る舞いではありません。主のものを勝手に持ち出し、勝手に隠し、勝手に握りしめる。とても正しいとは言えない。
それでも私は、握り続けました。
「ミナ」
三位一体の少女が、こちらを見ていました。
金の目と、黒い目。その奥に、三つの声が同時にこちらを見ている気配がします。
「それ、なに」
答える前に、指が震えました。
見せてはいけない。ずっとそう思ってきました。見せれば、これは「主に返すべきもの」になる。返すべきものになれば、私の忠誠はまた一つの形に固まってしまう。
でも今、その理屈が、初めて薄っぺらく感じられました。
私は、包みを開きました。
白百合の欠片が、窪みの薄い光を受けて鈍く光ります。
三位一体の少女が、それをじっと見つめました。
「――知ってる」
まっすぐなひとの声でした。短く、確信を持った声。
「これ、知ってる」
とじたひとの声が続きます。
「痛い。でも、痛いのに――なつかしい」
ねばるひとの声が、最後に小さく零れました。
「かけらだ。わたしの」
その一言で、私の中の何かが崩れました。
「シオン様の……」
「ちがう。わたしの。もう、わたしだから」
三位一体の少女は、震える指先を伸ばし、欠片にそっと触れました。
瞬間、彼女の片翼が大きく震え、銀の髪が逆立つように揺れました。私は反射的に手を伸ばしかけ――でも、止めました。ここで支えれば、また一つの答えを押しつけることになる。
欠片が、淡い光を放ちます。
冷たさは消えませんでした。でも、その冷たさの奥に、何か温かいものが一瞬だけ滲んだ気がしました。
「これは」
三位一体の少女が、掠れた声で言いました。
「拾い忘れ、だった。器を作った時、こぼれた、かけら。ひとつだけじゃ、ない。まだ、ある。どこかに」
私は、息を止めました。
「まだ、ある……?」
「ちらばってる。北影にも、なかった。返し井にも、なかった。ここにも、ない。でも――ある。どこかに」
セトが、いつの間にか目を覚まし、こちらを見ていました。顔色は相変わらず悪い。でも、その目だけは鋭く光っています。
「集めるってことか」
「たぶん」三位一体の少女は頷きました。「全部集めたら――たぶん、分けられる。わたしたちを。ひとりずつに」
元の身体に戻る道筋。
それは、はっきりとした地図ではありませんでした。ただ、進むべき方向だけが示された、粗い道標のようなものです。
でも、それで十分でした。
これまで、その問いにすら答えがなかったのですから。
私は、欠片をもう一度手に取りました。凍える冷たさが、指先に染み込みます。
「これは、返す」
私は言いました。
「あなたに」
三位一体の少女は、少しだけ驚いた顔をしました。
「持ってなくて、いいの」
「よくありません」
私は、初めて自分の声に強さを乗せました。
「これは、あなたの一部です。私が握りしめて良いものではなかった。ずっと、そうだったのに――手放せませんでした」
「なんで」
「あなたを取り戻したかったからです。シオン様を。あるいは、あの方の忠誠に応えられなかった自分を、許したかったからかもしれません」
言ってしまうと、驚くほど軽くなりました。
「私は、シオン様が魔王になられた夜、何もできませんでした。ただの侍女として、ただ震えて見ていることしかできなかった。だから私は、侍女をやめて、復讐者になったのです。何か一つでも、取り返せるものが欲しかった」
三位一体の少女は、しばらく黙っていました。
それから、静かに言いました。
「怒り、消さなくていい」
「――え」
「消えなくて、いい。持ってても、いい。ただ――かけら、返してくれて、ありがとう」
その一言に、私はどう応えていいか分かりませんでした。
侍女としての作法にも、復讐者としての流儀にも、これに対する正しい返し方は載っていません。
だから私は、ただ頭を下げました。
深すぎず、浅すぎず。かつて宮廷で教わった、誰のためでもない、自分のための角度で。
セトが、小さく息を吐きました。
「白百合の欠片が本体に還るなら――似たものが、他にも見つかるかもしれない」
「探すのか」
「探すしかないだろ。じゃなきゃ、いつまでも仮の器のままだ」
その時、遠く――窪みの列の奥から、かすかな音が届きました。
鐘の音。
いえ、鐘そのものではありません。鐘の音を真似た、誰かの合図のような響き。
レオンが即座に反応し、耳を澄ませました。
「西方司教座の、緊急鐘だ」
「何かあったのか」
「分からない。だが――」
レオンは、珍しく言葉を濁しました。
「`英雄アレンが魔王と相打ちになった`という話に、疑問が出始めている、という噂が、今朝方から西方に流れているらしい。誰が流したのかは分からない」
私は、三位一体の少女を見ました。
彼女の中で、まっすぐなひとが、静かに、けれど確かに息を呑んだのが分かりました。
神話が、揺れ始めています。
誰かがそれを望んだのか、あるいは崩れるべくして崩れ始めたのか、まだ分かりません。でも、ゼクスが言っていた通りでした。
嘘は、いつか割れる。
割れた後に、何が残るのか。
私は白百合の欠片が消えた後の、自分の手のひらを見つめました。
軽い。
でも、その軽さは、失った軽さではありませんでした。
ようやく、正しい場所へ返した軽さです。
帝国暦849年。冬。ミナは、玉座の間で拾い集めてきた白百合めいた欠片を三位一体の少女へ返し、それが器を強制孵化させた際にこぼれ落ちたシオンの一部であり、同種の欠片がまだ各地に散らばっていることを知る。三位一体の少女は「全部集めれば、いずれ一人ずつに分けられるかもしれない」という粗い道筋を示し、ミナは自らの復讐と忠誠の正体が「取り返せなかった夜への償い」であったことを認めながらも、その怒りを消さずに抱え続けることを三位一体の少女自身から許される。同じ頃、西方司教座から緊急の鐘が届き、`英雄アレンが魔王と相打ちになった`という帝国の公式神話に疑問を呈する噂が流れ始めていることが知らされる。こうして局面は、`灰色の聖剣とカイルの関係が共生として定まり、ゼクスの西の処刑場という保険の正体が明かされた` 段階から、`三位一体の少女が元の身体へ戻るための道筋(散らばった欠片を集めること)が示され、ミナの白百合めいた欠片の意味が判明し、帝国の英雄神話がついに揺れ始めた` 段階へ進んだのです。
お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!




