名のない器、灰の答え 【三位一体の少女】
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夜が来た。
正確には、夜という言葉が正しいのかも分からない。空座の列に、昼夜の区別なんてなかった。ただ、窪みの影がすこし濃くなって、みんなの息が白く見え始めた。それだけで、わたしのなかの三つは「夜」と呼ぶことにした。
まっすぐなひとが、先に気づいた。
「戻ってくる」
とじたひとが、すぐに続く。
「今度は、隠れない」
ねばるひとは、何も言わなかった。ただ、翼の付け根が強く緊張した。
窪みの奥から、あれが出てきた。
さっきより近い。さっきより、輪郭がはっきりしている。
人のかたちをしている。でも、人の匂いがしない。カイルの言い方を借りるなら――部屋の匂いがしない、あれと同じだ。
顔がある。目もある。でも、そこに一つの表情しかなかった。
ひとつだけ。
ずっと同じ、凍りついたような無。
「――名前は」
わたしは聞いた。三つのどれが聞いたのかも、自分でよく分からなかった。
答えは、来なかった。
代わりに、別の声が響いた。
「名前なら、要りません」
窪みの陰から、もう一つの人影が出てくる。
こっちは、匂いがした。整髪油と、古い紙と、乾いた血の匂い。
ゼクス。
顔は知らない。でも、その場の空気の握り方で分かった。この人は、盤面を上から見る側の人だ。
「名前を与えると、器は一つに固まる。固まった器は、次に壊れる時、綺麗に壊れてくれない」
ゼクスは、ゆっくりと歩いてきた。恐れる素振りがまるでない。
「ご覧の通り、その子は失敗作です。もっとも――失敗の中では、一番出来がいい」
カイルの右が、うなった。
音じゃない。感覚だ。熱が肘のあたりで折れ曲がり、逆に流れ込もうとする。わたしの内側でも、灰の気配がざわついた。
「ゼクス」カイルの声が低い。「お前が、西の処刑場を作ったのか」
初めて聞く名前だった。でも、まっすぐなひとが、それだけで何かを察した顔をした。
「ええ」
ゼクスは、あっさり認めた。
「帝都決戦の少し前です。私は、`英雄アレンが魔王と相打ちになった`という美しい嘘が、いつか必ず割れると踏んでいました。噓は割れる時、代わりの形を必要とします。何もなければ、帝国は本当に崩れる」
「だから、代わりを作ったのか」
「死刑を待つだけだった者たちを、少しだけ使わせてもらいました。慈悲深いとは言いません。ただ、無駄にはしなかった」
淡々とした声だった。悪びれてもいない。誇ってもいない。
「三十七人。うち、意識を保てたのは四人。器として機能したのは、この一人だけです」
わたしのなかの三つが、同時に冷えた。
まっすぐなひとが、怒りを見せた。
とじたひとが、恐怖に近い何かを見せた。
ねばるひとだけが、静かだった。
「なぜ、見せた」わたしは聞いた。「今まで、隠していたのに」
「見せる時期を選んだだけです」ゼクスは笑った。「あなた方が北影を過去にし、空座の列まで辿り着いた。つまり、もう `見なかったこと` にはできない距離まで来た。なら、こちらから見せた方が早い」
言いながら、ゼクスは軽く手を上げた。
無銘の器が動いた。
速い。
考えるより先に、カイルが前へ出ていた。
灰色の右が、ついに肘の線を越える。
熱が、腕全体を灰の色に染め上げた。まっすぐなひとが、反射的に前へ出ようとする。危ない。ここで前面化したら、`ひとりになる` 危険がある。
「駄目」
わたしは――三つの声を、初めて同時に重ねて言った。
「まだ、ひとつに、しない」
無銘の器の一撃を、カイルが左で受けた。
いつもの `余りの手` じゃない。今度は、はっきりと受け止める左だった。骨が軋む音がした。
「カイル!」
セトが叫んだ。観測石の光が、灰の右腕の輪郭をなぞる。
「そのまま右を使えば、ひじの先が戻らなくなる!」
「分かってる!」
カイルが叫び返す。
「分かってるけど――今、それしかねえんだよ!」
右が、完全に灰へ変わった。
でも、そこで何かが違った。
いつもの暴走とは、違う軋み方だった。
カイルは、右を手放さなかった。かといって、右に飲まれもしなかった。
熱の奔流を、腕の中で、無理やり `折り合わせる` ような姿勢だった。
「俺は――」
歯を食いしばりながら、カイルが言う。
「お前を、道具にはしねえ。でも、俺の全部にもしねえ」
灰の右が、無銘の器の一撃を弾いた。光と泥が同時に混ざる、奇妙な色の火花が散る。
「必要な時だけ、一緒にやる。それだけだ」
支配でもない。
暴走でもない。
わたしのなかの三つが、その言葉を同時に受け取った。
まっすぐなひとが、少しだけ落ち着いた。
とじたひとが、少しだけ息をゆるめた。
ねばるひとが、`それで、いい` と初めて言った。
無銘の器が、後ろへよろめいた。表情のない顔に、初めて――ひび、のようなものが入った。
「一つの形しか持たない者は」
ゼクスが呟いた。独り言のような声だった。
「一つの壊れ方しかできない。哀れですね」
無銘の器は、それ以上動かなかった。ただ、そこに立ったまま、少しずつ輪郭が薄れていく。溶けるのではない。ほどけていくようだった。ずっと一つに固定されていた形が、支える者を失って崩れていくみたいに。
わたしは、それを見ていられなかった。
でも、目をそらすこともしなかった。
「ゼクス」
カイルが、右を抱えたまま睨んだ。
「これで満足か」
「満足、というほどではありません」
ゼクスは肩をすくめた。
「ただ、確認したいことは確認できました。その剣が、まだ `誰かの道具` になっていないこと。その器が、まだ `誰か一人` に固まっていないこと」
「なんで、それを確認したい」
「壊れる時、綺麗に壊れてほしくないからですよ」
答えになっていない答えだった。でも、それ以上を聞く暇はなかった。
ゼクスは、崩れていく無銘の器へ一瞥をくれると、そのまま闇の奥へ歩き去った。追う気力は、誰にもなかった。
窪みの列に、静けさが戻る。
無銘の器がいた場所には、もう何も残っていなかった。ただの土と、浅い窪みだけが、変わらずそこにあった。
カイルが、右腕を見た。
まだ灰色のままだった。でも、さっきまでの熱の暴れ方とは違う。落ち着いてはいない。でも、`折り合った` 気配があった。
「カイル」
セトが聞く。
「大丈夫かよ」
「大丈夫じゃねえよ」
カイルは短く笑った。
「でも、これでいい。たぶん、ずっとこれでいくしかない」
わたしのなかで、まっすぐなひとが小さく頷いた。とじたひとも。ねばるひとも。
三つとも、同じ答えに落ち着いた。
支配せず。
支配されず。
必要な時だけ、一緒にやる。
それが、灰色の聖剣とカイルの、たぶん唯一の答えだった。
わたしは、窪みの列の奥、ゼクスが消えた闇を見つめた。
彼が本当に確認したかったものが何なのか、わたしにはまだ分からない。
でも一つだけ、はっきり分かることがあった。
これは、終わりじゃない。
まだ、何かが動き出しただけだ。
帝国暦849年。冬。三位一体の少女は、空座の列でゼクスと対面し、彼が帝都決戦前に「西の処刑場」で死刑囚たちを用いた器の複製実験を行っていたこと、そのうち意識を保てたのは四人、器として機能したのはただ一体の「無銘の器」だけだったことを知る。ゼクスは英雄神話がいつか割れることを見越し、割れた後の代わりを用意する保険としてそれを作ったのだと語る。無銘の器の襲撃により灰色の右腕が肘の線を越えたカイルは、剣を道具にもせず、剣に飲まれもせず、「必要な時だけ一緒にやる」という共生の答えを自らの意志で選び取り、三位一体の少女はその決着を三つの人格すべてで同時に受け止める。一つの形にしか固定されなかった無銘の器はほどけて消え、ゼクスは「壊れる時、綺麗に壊れてほしくない」という言葉を残して立ち去る。こうして局面は、`渡し線・隠蔽線・再観測線のすべてが「空座の列」という同じ場所を見てしまった` 段階から、`灰色の聖剣とカイルの関係が共生として定まり、ゼクスの西の処刑場という保険の正体が明かされた` 段階へ進んだのです。
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