疼く右、見てしまった影【カイル】
お読みいただきありがとうございます。毎日20時に更新しています。
三位一体の少女が、また体重を半分だけ動かした。
中間の位置から、もう少し先の中間へ。
座り直したわけじゃない。ただ、次へ移る前の助走みたいな置き方だった。
「行く」
短く、誰にともなく言う。
俺はうなずかない。うなずいたら、それも何かの合図になる気がした。ただ、左を壁から離し、いつでも間に合う位置へ戻す。
`空座の渡し場` の奥に、もう一つ喉があった。
返し井より狭い。天井はさらに低く、通り抜けるというより、体を斜めにねじ込む形に近い。土の匂いに、微かな金気が混じっている。
「これが」
俺が聞くと、セトが観測石を握ったまま短く答えた。
「たぶん、次の入口」
「たぶんって、お前——」
「全部たぶんだ。今さらだろ」
否定できない。
三位一体の少女が先に入った。片翼をすぼめ、肩をねじり、狭さに合わせて自分の形を作り替える。器がまだ一つに定まっていないくせに、こういう時だけ妙に器用だ。
レオンが後に続く。次にミナ、リノ。俺は最後尾に回った。
狭い喉を抜けるあいだ、右がずっと疼いていた。
肘のあたりから先、痛みというより `熱の記憶` みたいなものが這い上がってくる。ひじを越えたあの日以来、灰色の右は完全にはこちらのものじゃなくなっている。分かってはいたが、今日の疼き方は少し違った。
引かれている、というより——呼ばれている感じに近い。
喉を抜けた先は、思ったより広かった。
天井は高く、けれど光はない。壁際に沿って、浅い窪みがいくつも並んでいる。数えようとして、途中でやめた。数える気にさせない並び方だった。
`空座の列`。
まだ誰も、正式にそう呼んじゃいない。だが体はもう、そう呼ぶしかない形をしていた。
窪みは全部で——たぶん七つか八つ。どれも一人ぶんより少し広く、けれど誰かを座らせるための形には整えられていない。空座の渡し場が「まだ決めない場所」だったなら、ここは「決めさせない場所」がそのまま連なっている、そんな並びだった。
三位一体の少女が足を止めた。
「ここ、遠い」
ぽつりと言う。
遠い、という言葉の意味を、俺はすぐには掴めなかった。だがセトの顔を見て分かった。あいつも同じ顔をしている。
距離の話じゃない。
`ここまで来ても、まだ終わりが見えない` という意味の「遠い」だ。
「セト」
「分かってる」
「分かってるって顔じゃねえけど」
「うるさい。今、数えてる」
観測石の光が、壁際の窪みを一つずつ舐めていく。
俺はその間、右の疼きに意識を持っていかれないよう、左の位置だけを保っていた。前に出さない。かといって、完全に隠さない。必要な時だけ間に合う、あの余りの位置。
体が慣れてきている自分に、少しだけ苛立つ。
「カイル」
低い声。レオンだった。
「何だ」
「その先」
言われて、初めて気づいた。
窪みの列の一番奥、光の届かない場所に、何か——輪郭がある。
人影、と呼ぶには曖昧だった。だが、岩でも影の癖でもない。明らかに、そこに立つ形で立っていた。
「セト」
「見えてる」
「観測できるか」
「……できてる。だから黙ってろ」
あいつの声が、初めて硬くなった。
三位一体の少女が、その方向へわずかに顔を向けた。金の目と黒い目が、同時に同じ場所を捉える。
「誰か、いる」
まっすぐなひとの声だった。断定に近い。
「見張ってる、わけじゃなさそう」とじたひとの声が続く。「見張るなら、もっと隠れる」
「見せてる」ねばるひとの声が最後に来る。「わざと」
三人の声が揃うと、それだけで空気が変わる。
奥の輪郭は、動かなかった。近づいてもこない。ただ、そこにいることを隠す気もない、という距離を保っていた。
俺の右が、また疼いた。
さっきより強い。
熱の記憶じゃない。今度ははっきり分かる、`向こう側から何かに触れられている` 感触だった。
「おい」
俺は思わず声を出した。
「右が、あっちに反応してる」
セトの顔色が変わった。悪いなりに、さらに悪くなる、という珍しい変わり方だった。
「灰色の聖剣が反応する対象は限られてる。旧い神話の熱源、あるいは——」
「あるいは」
「似た性質を持つ、別の器」
心臓のあたりが冷える感覚があった。
別の器。
つまり、あの奥にいる誰かも、俺たちと似た何かを抱えているということだ。
ミナが小さく息を呑む音がした。水差しを抱える腕に、力が入ったのが分かる。リノは何も言わない。無駄口を叩かない選び方を、こういう時こそ守っている。
三位一体の少女は、しばらく奥の輪郭を見つめたあと、また体重を半分だけ動かした。
近づく、わけじゃない。
離れる、わけでもない。
ただ、`まだどちらでもいられる距離` を、自分の足で確かめ直しているようだった。
「決めない」
彼女は言った。
「決めない、けど——見た」
その一言で、俺は理解した。
これはもう、後戻りできる種類の `見た` じゃない。
北影で、返し井で、空座の渡し場で、俺たちがずっと守ってきたのは「誰にも決めさせない」ことだった。だが今、奥の輪郭を `見てしまった` 時点で、こっちの存在もまた向こうに `見られている` ことが確定した。
見る側と見られる側。
その境目が、今、消えた。
「カイル」
セトが低く言う。
「お前の右、しばらく黙らせとけ。反応するたび、向こうにこっちの位置がばれる」
「黙らせろって、どうやって」
「知るか。運び屋なりのやり方で何とかしろ」
無茶を言う。だが、他に言いようがないのも分かる。
俺は右腕を胸の前で軽く抱え、布越しに押さえつけた。熱は消えない。ただ、震え方だけは多少収まった気がした。
奥の輪郭が、初めて動いた。
近づいてくる、のではない。
ただ、こちらへ向けていた気配を、わずかに緩めた。まるで──
「今日は、ここまで」
とでも言うように。
輪郭は、闇の中へ溶けるように消えた。
誰も、しばらく声を出さなかった。
窪みの列だけが、変わらずそこに並んでいる。数えさせない数のまま。
「行ったか」レオンが低く聞く。
「行った、というか」セトが観測石を下ろしながら答えた。「今日はここまで、って顔で退いた。それだけだ」
「余裕だな」
「余裕があるように見せてるだけかもしれない。分からない」
分からない、という言葉が、今日はやけに正直に聞こえた。
三位一体の少女は、窪みの列を一つずつ見ていった。座れそうで、座らせない形の連なり。彼女は結局、どの窪みにも体重を預けなかった。
「まだ、決めない」
そう言って、彼女は列の真ん中に、ただ立ったままでいた。
俺は右の熱を抱えたまま、左をいつもの位置へ戻した。差し出す手じゃない。ただ、転びそうな時だけ間に合う余りの手。
だが今日、その左でさえ、少しだけ足りない気がした。
向こうに何がいるのか。
何を抱えているのか。
なぜ、名乗りもせず、隠れもせず、ただ見せて消えたのか。
答えは、まだ何もない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
北影を過去にし、返し井を渡り、空座の渡し場を抜けても、俺たちはまだ `終わり` に近づいてすらいなかった。
むしろ、今日初めて、本当の入口に立った。
右の疼きが、遠く鳴り続けている。
まるで、まだ何かを思い出しかけているみたいに。
帝国暦849年。冬。カイルは、`空座の渡し場` の奥にさらに続く狭い喉を抜けた先で、まだ誰も名付けていない `空座の列` に足を踏み入れる。窪みの並びの最奥に、正体不明の人影を発見し、灰色の聖剣が「似た性質を持つ別の器」に反応しうるという可能性をセトから示されたことで、自分の右腕がその輪郭に向けて疼き始めていることに気づく。三位一体の少女はその輪郭を `決めない` まま `見た` ことを自ら認め、見る側と見られる側の境が消えたことを引き受ける。人影は名乗らず隠れもせず、ただ気配を緩めて闇へ退いたことで、渡し線は、自分たちの動きがすでに再観測線の側から直接把握されている段階へ入ったことを悟る。こうして局面は、`渡し線が北影を過去にし、空座の渡し場を経て次の交差点へ向かう` 段階から、`渡し線・隠蔽線・再観測線のすべてが「空座の列」という同じ場所を見てしまった` 段階へ進んだのです。
最後までお読みいただきありがとうございます。一言でも感想いただけると励みになります。




