見なかった手仕舞い、北影の消え方【ラザル】
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守るものがなくなった現場ほど、扱いにくいものはない。
ラザルは白布の外縁に立ったまま、そう思った。
午前番一巡半。トビアが捻り出した猶予はとうに尽きている。西四の杭も、北一の布運びも、もう誰かをごまかすための忙しさではなくなっていた。ただの午後の仕事に戻りかけている。
戻りかけている、というのが厄介だった。
普通の午後は、普通の顔をした人間を呼び寄せる。暇な兵、暇な補佐、暇な見習い。暇な口は、暇な目を連れてくる。何もない場所ほど、何かを見つけたがる目にとって都合がいい。
だから今日のラザルの仕事は、守ることではなく、退屈させ続けることだった。
「ラザル殿」
メルが来た。息は上がっていない。もう走って報告する段階ではないということだ。
「板蝋、戻りました」
「読め」
メルは板の表面を親指でなぞり、内容を諳んじた。
「西方司教座、次の巡見は三日後。今回の北域照会は `保留継続` で処理済み」
「それだけか」
「もう一つ。……特務室から、帝国記録側へ非公式の照会が入ったそうです。北二、西四を名指しではなく、`似た書式の不備が続く現場` という形で」
ラザルは鼻の奥で息を止めた。
盤外の列。
名前は知らない。だが手触りは知っていた。ヴェインか、あるいはその上か。誰かが場所ではなく癖を追い始めている。それが末端の板蝋にまで滲んできたということは、もう `退屈な帳尻` だけで押し通せる時間が終わりに近いということだ。
「トビアは」
「まだ北二に」
「呼べ。ヘルマン殿にも報せろ」
メルが頷いて走る。今度はさっきより速い。
走り方一つで分かる。この子はもう、`急ぐべき時`と`急いでいるふりをすべき時`の違いを覚えている。今のは前者だ。
盤外の列という言葉を、ラザルはまだ直接聞いていない。だが手触りは似ていた。場所ではなく癖を追う目。退屈な帳尻の並び方から、次の継ぎ手を逆算しようとする目。
それが末端の板蝋にまで滲んできたということは、もう猶予そのものが尽きかけているということだった。
ラザルは白布の下端を見た。
軽い。
もう何もない軽さだった。中に部屋があった頃の重みとは違う。ただの布と、ただの土と、ただの継ぎ目。北影は、名前どおりただの影に戻り切っていた。
それなのに、ここに立ち続ける自分がいる。
守るものがなくなったのに、まだ守っている顔で立っている。それこそが今、一番危ない振る舞いだった。
トビアが来た。補修の泥をつけたまま、目だけが妙に澄んでいる。
「終わったか」
ラザルが聞くと、トビアは短く頷いた。
「盲路は閉じました。返し井の口も、もう塞ぎ土で覆っています。誰かが掘り返さない限り、あそこにあったものは分かりません」
「掘り返す気配は」
「今のところ。ただ、次の巡見までに、ここを `何もない場所` にしておく必要があります」
ヘルマンも遅れて来た。歩き方に隠す気がない。もう隠す段階が終わったからだろう。
「特務室の照会、聞いたか」
ラザルが問うと、ヘルマンは薄く笑った。
「聞いた。あちらもいい仕事をする」
「褒めている場合か」
「褒めているさ。場所を追わず、癖を追う。それができる人間は少ない」
「なら、こっちも癖を消す番だ」
「そうだな」
ヘルマンは尾根の向こうへ目をやった。西方司教座の方角だ。
「向こうは、まだこちらを`黙許`だと思っている。だが黙許というのは、いつか誰かが数え直す性質のものだ。今日中に、北二という項目自体を帳簿から消す」
「消せるのか」
「消すとは言っていない。`統合済み`と書く。統合した先を追う人間は少ない」
ラザルは短く笑った。ヘルマンの言葉遊びは気に食わないが、今日ばかりは頼もしい。
ヘルマンは懐から一枚の紙片を取り出した。北二、西四の書式一式。継ぎ布角度、補修音の記録、板蝋の写し。ここ数十日、ラザルたちが痩せさせ続けてきた言葉の束だ。
「これを」
「燃やす」
ヘルマンが即答した。
「燃やすのか」ラザルは片眉を上げた。「保管しないのか」
「保管すれば、いつか読まれる。読まれれば、いつか意味を持つ」
「意味を持てば」
「それが物語になる」
その一言で、十分だった。
ラザルは自分の懐からも同じ束を出した。若い兵に書かせた、意味のない報告書の写し。`継ぎ保ち` `異常なし` `補修音薄め`。何十枚も同じ言葉を並べただけの紙。
くだらない。
だが、このくだらなさこそが、北影を事件にしなかった唯一の武器だった。
同時に、ラザルにはもう一つ分かっていることがあった。
この`燃やす`という手順そのものが、いつか誰かの標準になりかねないということだ。うまくいった隠し方は、次も同じ形で隠したくなる。同じ形で隠された痕跡は、いずれ別の追跡者に癖として読まれる。北影を守った手順が、次の北影を作る型紙になってはならない。
だから燃やした後も、灰の量、燃やす場所、燃やす時間帯まで、次には同じにしないと決めていた。守り方そのものを、二度と正解にしない。
そのくらい徹底しなければ、この仕事は長くは保たない。
トビアが火種を運んできた。誰も何も言わない。若い兵にはやらせない仕事だ。こういう仕事は、隠す側の人間の手でだけ終わらせる。
紙が燃える。
煙は薄い。北の風がすぐに散らす。
「ラザル殿」
メルが戻ってきていた。燃える紙を見て、一瞬だけ息を呑む。だがすぐに顔を戻した。この子ももう、驚く顔を長く持たない術を覚えている。
「北一と北二の持ち場、正式に廃止でよろしいですか」
「廃止と呼ぶな」
ラザルは即座に言った。
「呼ぶなら、`統合`だ。西四の外周巡回に組み込め」
「統合、ですね」
「言葉を残すな。仕事だけ残せ」
メルは頷き、去っていった。
火が小さくなっていく。灰が布の上に薄く落ちる。
ラザルはその灰を見ながら、ふと自分の中に湧いた感情に気づいた。
寂しさではない。
未練でもない。
強いて言うなら、これは──安堵に近い苛立ちだった。
終わらせられて、いい。だが終わらせたこと自体が、いつか誰かの手柄話に変わるかもしれない。その芽まで摘まなければ、本当の意味では終わっていない。
「トビア」
「はい」
「お前の名は、この件のどこにも残るな」
トビアは驚いた顔をしなかった。
「承知しています。最初からそのつもりでした」
「ヘルマン殿も」
「言われるまでもない」
ラザルは頷いた。
これでいい。
誰も英雄にならない。誰も異端にもならない。ただ、何もなかった午後がここにあっただけだ。
風が布を揺らす。
もう軽さすら感じない、ただの布だった。
「西四、継続」
ラザルは呟いた。誰に向けてでもない。ただ、この午後を締める言葉として。
「北影、廃止──いや」
言い直す。
「北影、統合」
その言葉を、板蝋にも、報告にも、誰の記憶にも、重く残さないように。
ラザルは踵を返し、北を見ないまま尾根を下り始めた。
背後で、灰になった紙の最後の火が消える音がした。ぱち、と小さく。
それだけだった。
歩きながら、ラザルは西の方角を一瞥した。空座の渡し場、その先。今日の午後のどこかで、三位一体の少女たちがまだ座り切らずに渡っているはずの場所だ。
自分の役目は、ここまでだった。
あの先で何が起きるかは、もう自分の持ち場ではない。ゼクスだろうと、ヴェインだろうと、特務室の誰であろうと、これから先は別の人間が別の言葉で追う番だ。
ただ一つだけ、確信していることがあった。
北二という場所は、もう二度と誰の記憶にも「何かがあった場所」として戻らない。
それだけは、自分の手で成し遂げた。
くだらない仕事だ。だが、くだらない仕事のほうが、時々は世界の形を変える。
ラザルは白布の外縁を最後に一度だけ振り返った。
何もない。
ただの、雪と岩の斜面だった。
それでよかった。
帝国暦849年。冬。ラザルは、特務室から帝国記録側へ「似た書式の不備が続く現場」という非名指しの照会が入ったことを、盤外の列がすでに末端へ届き始めた兆候として受け取り、トビアが閉じた返し井の盲路とヘルマンが焼いた書式一式によって、北二・西四に関するすべての記録と痕跡を制度からも記憶からも消し去る。彼はメルに対して「廃止」ではなく「統合」という言葉を選ばせ、北一・北二の持ち場を西四の外周巡回へ吸収させることで、北影という場所そのものを事件にも成果にもさせないまま完全に終わらせた。トビアとヘルマンにも功績として名が残らないことを確認させたうえで、ラザルは北を見ないまま尾根を下り、以後の展開を渡し線と再観測線に委ねる。こうして局面は、`地方現場が北影を守る側から北影を過去にする側へ切り替わりつつある` 段階から、`隠蔽線がその手をここで完全に終わらせ、次章の入口を渡し線と再観測線だけに委ねる` 段階へ進んだのです。
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