今世で勝ち組だった俺、娘にイケメン彼氏ができたと思ったら、王家に喧嘩を売られた
遅ればせながら『八甲田山』を観まして、雪の怖さを知りました……。
寒い土地、こわい。
王都では、王位をめぐる争いが日に日にきな臭くなっている――らしい。
だが、寒い北方の男爵領主である俺には関係ない。
俺には美しい妻と娘、そしてかわいい息子がいる。
前世で結婚もせずに死んだ俺にとって、今世は大勝利だ。
人生勝ち組。
ハッハッハーー!
「お父様。好きな方ができました」
「いやあああああああ!」
妻が優雅にカップを口にする。
息子のリシュアンは、書類を持ったまま固まっていた。
「レオノーラちゃん! お父様と大きくなったら結婚するって言ってたでしょ!?」
「言ってません」
「『おとうしゃまだいしゅき〜、大きくなったら結婚しようね〜』って言ったじゃない!」
「言ってません」
「父上……さすがにそれは……」
リシュアンが引いた顔でこちらを見る。
「だ、誰!? 誰なの!?」
レオノーラは、ほんの少しだけ視線を伏せた。
「王都で知り合った、誠実な方です。いずれ、身分も立場も置いて、北方で生きたいと仰っています」
「身分も立場も置いて? ちょっと待て、どこの家の厄介息子だ!」
「お父様」
「いや、だってそう聞こえるだろう!?」
そこで妻が、静かに紅茶の器を置いた。
「あなた。まずは会って差し上げなさい」
「リエネ、お前は知ってるのか!?」
「ええ。とても感じのよい青年ですよ」
「どこの馬の骨だ!」
「……あなたも元は平民でしょう」
俺は黙った。
それを言われると弱い。
その時、扉の外から控えめな声がした。
「お客様がお見えです」
レオノーラの表情が、ぱっと明るくなる。
「彼だわ」
「入れちゃうのか!?」
扉が開き、入ってきたのは一人の青年だった。
青年は、まずレオノーラへ一瞬だけ視線を向けた。
それからすぐに、俺と妻へ向き直る。
「遅れて申し訳ございません」
深く、丁寧に頭を下げる。
「レオンと申します。本日は、お時間をいただきありがとうございます」
「……お、おう……」
青年は俺を見た。
王都の若い男にありがちな、北方を見下すような目はない。
かといって、妙にへりくだる様子もない。
ただ、こちらをまっすぐ見ている。
「……どうぞ」
「ありがとうございます」
青年はもう一度礼をして、レオノーラの隣ではなく、少し離れた席に座った。
◆
その夜、俺は酒場のカウンターに突っ伏していた。
「娘に恋人ができたんだけどー!」
向かいでグラスを磨いていたバーデンが、ちらりと俺を見る。
「よかったじゃない、レオノーラちゃん」
「よくない!」
「どうしてよ。爽やかで、礼儀正しくて、顔もよくて、北方の寒さにも文句を言わないんでしょう? いい男じゃなーい」
「だから困っているんだろうが!」
バーデンはこの酒場を仕切っている。
俺とは長い付き合いの友人で、年は俺とそう変わらないおっさんだが、酒場をきり盛りし始めてからこの口調になった。
「しかも俺がキョドっても笑わないし」
「いい男じゃない」
「うちの娘に軽々しく触れないんだぞ!」
「最高じゃない」
「そうなんだよ!」
バーデンは呆れたように肩をすくめた。
「じゃあ、何が不満なのよ。王都の求婚者たちより、ずっとましじゃない」
「……それは、まあ」
たしかに、レオノーラに近づこうとした王都の男たちは、ろくでもなかった。
たとえば、ブランシュ伯爵家の三男。
北方の暮らしは退屈でしょうから王都へ戻して差し上げます、などと言った男だ。
舐めてんのか。
それから、モルガン子爵家の令息。
あいつは酷かった。
夜会でレオノーラの手を取ったまま、やたらと顔を近づけたり、髪の香りを褒めたり、手をいつまでも離さなかった男だ。
思い出しただけで、背中に寒気が走る。
妻に扇で叩かれなければ、剣を抜いていた。
「……レオノーラは、王宮の舞踏会で第二王子のファーストダンスも踊ったほどなんだぞ?」
「あなた、それずっと自慢してたわね」
そうだ。
レオノーラは、こんな北方の田舎令嬢でありながら、王都でもよく知られている。
美しく、礼儀正しく、賢く、俺に似なかった。
王都の舞踏会でも、彼女に声をかける者は多かった。
縁談の申し込みも、こちらが返事に困るほど届いた。
それなのに。
「身分も立場もない訳あり王都男なんて……」
「北方で暮らしたいって言ってるなら、覚悟はあるんじゃない?」
俺は酒杯を握ったまま、低く唸った。
「前世の知識チートで、俺は知っている」
「なにそれ」
「妻と娘の言うことに、むやみに口を出してはいけない」
「急に現実的ね」
「円満な家庭とは、勝つことではない。従うことだ」
「なにその真理」
俺はため息をついた。
今世の俺も、ぱっとしない顔のおっさんだ。
顔には傷があるし、最近は加齢臭も気になってきた。
それでも妻はそばにいてくれて、娘は微笑み、息子は俺を尊敬してくれている。
だから、できる限り家族の望みは聞きたい。
聞きたいのだが。
「よりによって、あんな好青年を連れてくるなよ……」
俺が呻くと、バーデンは楽しそうに笑った。
「勝ち目ないわね」
「……言うなよ」
その時、酒場の扉が開いた。
冷たい風と一緒に入ってきたのは、噂の青年だった。
厚手の外套に雪の名残をつけている。
王都の人間なのに、北方の寒さに身を縮める様子もない。
青年はこちらを見ると、まっすぐ歩いてきた。
「旦那様」
「……何だ」
俺は、できるだけ威厳のある声を出した。
バーデンが隣で笑いをこらえている。
笑うな!
「おくつろぎのところ、失礼いたします。少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「……ああ」
「ありがとうございます」
青年は隣に座った。
それにしても、場に似つかわない。
北方の酒場は、王都の貴族が思い浮かべるような上品な場所ではない。
壁には古い弓や折れた槍。
天井の梁には干し肉。
暖炉のそばには片足の老人が座り、奥の卓では厳つい男が杯をがぶ飲みしている。
その雑な背景に、この青年。
浮いている。
「……レオノーラ嬢から、あなたのことを伺っておりました」
「レオノーラから?」
「はい。北方の何もない土地を、ここまで作り上げた方だと。その話を聞き、あなたを尊敬しております」
俺は固まった。
え?
俺、尊敬されてんの?
このイケメンに?
「この土地のことを、もっと知りたいと思っています」
「……」
「旦那様のもとで、お仕事を学ばせていただけませんか」
やめろ。
そういう目で見るな。
気分いいじゃないか!
「……好きにしろ」
「ちょろいわね」
「うるさいぞ、バーデン」
青年は、困ったように笑った。
その顔がまたいい。
本当に腹立たしい。
その翌朝から、青年は俺の後をついてくるようになった。
「おはようございます」
「おはよう……早すぎないか」
「学ばせていただくと申し上げましたので」
イケメンで腰も低い。
なんなんだ。
俺は青年を連れて、北方の街道沿いを歩いた。
朝の空気は冷たい。
荷馬車の車輪が、踏み固められた雪道をぎしぎしと鳴らしながら進んでいく。
道の両脇には掻き寄せられた雪が低く積もり、まだ新しい杭が等間隔に頭だけを出していた。
「この道は、昔から?」
「昔は道なんて呼べたもんじゃない。雨でぬかるむ、雪で消える。そんなのばっかりだ」
青年は、しばらく道を見ていた。
「では、旦那様が作られたのですか」
「作ったってほど立派なもんじゃない。荷馬車が通れるようにしただけだ」
前世の俺は、物流の仕事をしていた。
倉庫で荷を数え、車を手配し、遅れた荷に頭を下げる側だった。
だが、その仕事で一つだけ身に染みていた。
金になるのは、荷そのものだけじゃない。
だから北方に来て、まず道を見た。
最初に直したのは、荷馬車が沈むぬかるみだった。
次に橋をかけ、宿を置き、馬を替えられる場所を作った。
道が通れば、商人は来る。
けれど、ただ通り過ぎるだけでは、この土地に金は落ちない。
商人が泊まり、馬を替え、荷を預ける。
そうして初めて、この土地に金を落としていく。
青年は、街道沿いの宿と倉庫を見比べた。
「宿、倉庫、馬、護衛。全部そろって、初めて荷が流れるのですね」
「分かってるじゃないか」
「いえ。今、分かりました」
嫌味なくらい、素直な男だ。
俺は、凍った道を進む荷馬車を見送った。
「……北方は貧しかったんじゃない。荷が通れる形になってなかっただけだ」
青年は、しばらく黙って街道を見ていた。
ちょうどその時、荷馬車の御者が俺に向かって軽く帽子を上げた。
王都から来る商隊の一つだ。
荷台の樽は、いつもより少ない。
「……商人は、よくここを通るのですね」
「ああ。おかげで、王都のくだらん噂まで流れてくる」
「噂……」
「お前、それこそ王都にいたんだろ? 王位継承で揉めてるんだっけか」
「……ご存じないのですか」
「政治は知らん」
いや、正確には、知りたくない、だ。
領主をしている以上、王都の動きが荒れているかどうかくらいは、荷を見れば分かる。
「荷の流れ、ですか」
「馬が急に買われ、干し肉が消えたり、鉄の注文が増え、塩の値が上がる。すると?」
青年は小さく息をのんだ。
「……兵を動かす前触れですね」
「そうだ。知っているか」
「王都でも、そう教わります。ですが……机上の話でしたので」
「王都の噂は嘘つきだ。けど、荷の流れはあまり嘘をつかないな」
その後、俺は青年に倉庫を軽く案内した。
「ガゼル、膝はどうだ」
「寒い日は軋みますな」
「酒を減らせ」
「それは無理です」
即答するな。
青年は、そのやり取りを不思議そうに見ていた。
「仲がいいのですね」
「まあな。兵士だった頃からの付き合いだしなぁ」
「退役した方が多いのですか?」
「そうだなぁ。領民を増やすために、兵士に片っぱしから声をかけたからなぁ。何せ、そもそも人がいなかったんだ」
「兵士に……」
「戦が終われば、兵士は要らなくなるだろ。怪我をしていれば、なおさらだ。けど、道を直すにも、倉庫を建てるにも、見張りを置くにも、人手はいる――」
「お父様」
背後から声がして、俺は振り返った。
レオノーラが、侍女を一人連れてこちらへ歩いてくるところだった。
淡い外套の裾が、冷たい風に揺れている。
王都の令嬢らしい品のよさはあるのに、不思議と北方の朝にも浮いていない。
「レオノーラ」
青年の表情が、ほんの少しやわらいだ。
おい、俺の前でそういう顔をするな。
「お嬢様」
近くの倉庫から出てきた男が、帽子を取った。
「おはようございます、ベルグさん。奥様のお加減はいかが?」
「おかげさまで。臨月に入りましたんで、今日は家で休ませています」
「無理をさせないで。赤子が生まれたら、必ず知らせてくださいね」
「もちろんです」
ベルグは、照れたように頭を下げた。
少し離れたところでは、荷を運んでいた若い女が顔を上げる。
「お嬢様、今日は市場の方へ?」
「ええ。あとで寄ります。新しい毛織物が入ったのでしょう?」
「はい。母が、お嬢様に見ていただきたいと」
「楽しみにしています」
レオノーラは、ひとりひとりに自然に声を返していく。
青年は、その様子を静かに見ていた。
「……レオノーラ嬢は、領民のことをよくご存じなのですね」
「うちの娘だからな。かわいいだけじゃない」
「存じております」
なぜそんなさらりと言えるんだ。
コツでもあるのか?
「お父様。そろそろお昼にしませんか」
「もうそんな時間か?」
「朝からずっと歩いていらっしゃいますもの。レオン様もお疲れでしょう」
青年はすぐに首を振った。
「いえ、私は――」
「食え」
俺は言った。
「遠慮するな。倒れられたら困る」
「……ありがとうございます」
レオノーラが小さく笑った。
「では、食堂へ参りましょう」
青年が自然に一歩引き、レオノーラの歩幅に合わせる。
悔しい。
悔しいが、様になっていた。
◆
青年は、驚くほどあっさり領民たちに受け入れられた。
レオノーラに倣って領民の顔を覚え、挨拶をし、立ち話にもきちんと付き合う。
あれだけ見た目がいいのだ。
商店のマダムたちが「おまけあげるよー」と声をかけるのも、もはや日課になっていた。
しかも、ただ愛想がいいだけではない。
荷札の色と焼き印を見て、どの倉庫へ運ぶ荷かすぐに覚えた。
干し肉や薬草の箱は湿気を嫌うのだと教えれば、次の日には自分から積み順を直していた。
前世でも、そんな新人いなかったぞ。
馬での移動もそうだった。
「乗れます」
そう言って、レオンはあっさり馬にまたがった。
姿勢がいいし、手綱の扱いも慣れている。
というか、見た目が絵になっている。
聞けば、王都では狩猟会に出ていたそうだ。
ぼんぼんめ。
リシュアンは、いつの間にか懐柔されていた。
「兄上、次は厩を見に行きましょう」
もう兄上呼び。
もう、だ。早すぎない?
レオノーラは幸せそうだし、リエネには釘を刺されるし、かく言う俺も、レオンに「旦那様」と呼ばれ、慕われている。
あんな男前に尊敬されて、別に変な趣味はないが、気分がいい。
いつの間にか、「おい、レオン。付き合えよ」と言ってバーデンの酒場に通うようになっていた。
そんな、代わり映えはないが悪くもない日々が続いていた頃。
王都から来た商人が、妙なことを言い出した。
「旦那様、王都相手の取引は少し締めた方がいいですよ」
俺は取引台帳から顔を上げた。
「……なんだ、支払いを渋ってんのか?」
「渋るまでは……しかし、遅れております。王宮筋の支払いが、少し」
「王族も金払いが悪くなったか。終わってるな」
「それだけなら、まだ笑い話で済みますがね」
商人は、声を少し落とした。
「王都のいくつかの商会に、やたらと役人が出入りしているそうです」
「役人?」
「ええ。どの家へ品を納めているか、誰から注文を受けているかを聞いて回っているとか」
横にいた勘定方の声が低くなった。
「……旦那様」
分かっている。
王都で、何かが動いている。
王位がらみか、王宮内の派閥争いか。
中身までは分からない。
だが、ろくな話ではないことに変わりはない。
「うちに飛び火するか?」
「すぐには。ただ、王都筋の後払いは危ういかと」
「なら前金だな。王宮筋に納めている品が、いくつかあったよな。しばらく距離を取るぞ」
「そのほうがよろしいかと」
そして、こういう時は、たいていもう一つ困る話がついてくる。
「旦那様。王都のいくつかの家から使者が向かっているそうです」
「ほれ来た。理由は?」
「おそらく、ご挨拶とご協力の打診かと」
「協力ねぇ」
王都の連中は、北方の道を押さえたいのだろう。
北方は隣国との貿易路だ。
王都との荷の行き来も多い。
ここを押さえれば、通すのも、止めるのもある程度決められる。
だから今のうちに、男爵家を自分たちの側だと言わせたい……迷惑な話だ。
その数日後、本当に使者が来た。
第一王子派だという貴族の使いは、いかにも王都らしい香水の匂いをさせて、にこやかに言った。
「第一王子殿下は、旦那様のお力を高く評価しておられます」
「それはありがたい」
本当に理解して言っているのか。
それとも、ただ都合のいい言葉を並べているだけなのか。
どちらにせよ、こちらの返事は決まっている。
「では、干し肉を買ってくれ。いい馬具も揃っているんだ。毛織物も今年は出来がよくてな」
「いえ、そういうことではなく……」
使者は笑みを崩さないまま、少しだけ身を乗り出した。
「王都が不穏な折には、男爵家にも、第一王子殿下のお考えにご理解をいただきたく」
「王都は大変そうですね」
「ええ。ですので、いざという時には――」
「いやぁ、お互い様ですなぁ。こちらも雪が積もると人手が足りず困っておりまして」
使者の笑みが、わずかに固まった。
「しかも、領民は老人と怪我人ばかりで。彼なんて片足ありませんし」
広間の隅に控えていた片足の老人バルドが、杖をついて笑った。
「役に立たん老いぼれで申し訳ありませんなあ」
使者は笑みを貼りつけたまま、バルドへちらりと視線を向けた。
「いえ、もちろん北方のご事情は承知しております。ですが、男爵家のお立場を示していただくだけでも、王都の不安はずいぶん鎮まります」
「立場?」
「はい。第一王子殿下こそ、次代の王にふさわしいと。男爵家がそうお認めくださるだけ――」
「それをやると、荷が止まるぞ」
使者の笑みが止まった。
「……荷、でございますか」
「ああ。男爵家が第一王子殿下に味方すると言った瞬間、第二王子派も、第三王子派も、北方の道を使いづらくなる」
「ですが、王国の安定のためには――」
「北方の道は、第一王子殿下のためだけに通しているわけではありません」
「……」
「商人が安心して荷を預けるには、この道がどこか一派のものでは困るんです」
使者の笑みが、完全に固まった。
「と言うわけで。少なくとも今は、王都の争いに色をつける気はありません」
「……第一王子殿下へのご協力は」
「干し肉なら今ストックありますんで」
「……」
「あ、毛織物もありますよ!」
使者は、笑みを貼りつけたまま立ち上がった。
その日、第一王子派の使者は、男爵家の支持ではなく、干し肉と毛織物の見積書を持って帰った。
◆
その夜、酒場はいつもより少し静かだった。
炉には火が入り、壁際では男たちが酒杯を手にしている。
バルドが今日の馬車道のぬかるみについて文句を言い、片腕の男がそれを笑っていた。
「なんだかんだ言って、レオンちゃんと上手くやってるじゃなーい」
カウンターの向こうで、バーデンが頬杖をつきながら言った。
「……仕方がないだろう」
「よかったじゃない。レオノーラちゃん、嫁いで出ていく必要もなくなったんだし」
「……そうなんだよ〜」
それが、困るくらい嬉しかった。
リシュアンがいずれ家を継ぐ。
レオノーラには、街道沿いの支領か宿駅まわりの仕事を任せるとして、レオンはそこで働かせればいい。
問題は爵位だ。
どこか、小さな領地でも切り出すか?
いや、さすがに気が早いか。
そんなことを考えていた時だった。
酒場の扉が開いた。
「おお、レオン」
声をかけると、青年はまっすぐこちらへ歩いてきた。
いつものように穏やかな顔をしている。
……と思ったが、少し違った。
表情が硬い。
「男爵、お話がございます」
「なんだ? 改まって。お前も飲めよ」
「いえ」
即答だった。
少し傷ついた。
くすん。
「私は、ここを離れます。明日の朝には、北方を発つつもりです」
「……は?」
バーデンが目を細める。
「あら……」
「急な話で申し訳ございません」
「ちょ、ちょっと待て。何でだ? もしかして……俺がうざすぎた?」
レオンは一瞬だけ目を瞬いた。
「……違います」
「本当に?」
バーデンが横から口を挟む。
「はい」
「それならよかった」
いや、よくない。
「では、なぜだ」
「……彼女が大切だからです」
意味が分からん。
「お前、そんなこと言って、別に不満があるんじゃないのか?」
「……私の周囲は、今、あまり穏やかではありません。ここにいれば、いずれレオノーラ嬢も巻き込まれます」
「お前の周囲?」
「……はい」
「なら、なおさら北方にいればいいだろう。王都よりこんなに離れてるんだぞ? だいたい、お前、家とは距離を置きたいって話だったろ。今さら何を言われるんだ」
レオンは、何かを言いかけて、やめた。
「……レオン。お前、何から逃げてる?」
「逃げているわけでは……」
「逃げてるだろ。うちの娘から」
レオンは唇を引き結んだ。
その時だった。
酒場の扉が、乱暴に開いた。
冷たい夜気とともに、武装した男たちが踏み込んでくる。
飲んでいた男たちの声が、ぴたりと止まった。
先頭の男が、レオンを見た。
「見つけたぞ」
レオンの顔色が変わった。
「……来たか」
「お迎えに上がりました。ご同行を」
男たちは王都の兵の格好をしていた。
バーデンが、にこりと笑って前へ出る。
「ちょっとすみません、兵士さん。困りますわ。剣に手をかけちゃって入られちゃあ」
先頭の男は、バーデンを一瞥しただけだった。
「下がれ」
「あら、怖い」
俺は椅子に座ったまま、首を傾げた。
「ちょっと待ってくださいよ。そいつ、娘の恋人なんです。何かの間違いでは?」
先頭の男の視線が、こちらへ向く。
「間違いではありません。これは王都の命です。口を挟まれぬよう」
「王都の命?」
「その男を引き渡していただく」
「罪人か?」
男は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……王都へ戻すべき者です」
「じゃあ令状を見せてくださいよ」
「必要ありません」
「俺の領で、人を連れていくのに?」
兵の顔が険しくなる。
「逆らうならば、力ずくでも――」
男が剣を抜こうとした、その瞬間。
「わっ!」
兵の一人が膝をついた。
「なにをっ……うわっ!」
兵士たちに向かって卓が飛んできた。
「貴様らっ……!」
男たちが、すでに剣を抜いて兵を囲んでいる。
「ちょっと。暴れすぎないでよ。椅子、高いんだから」
俺は酒杯を置いた。
「お前らぁ、殺すなよ」
そして数十秒後。
王都の兵たちは、男たちに押さえられ、床に転がっていた。
レオンは息をのんでいた。
「さて」
俺は立ち上がり、床に押さえつけられた兵を見下ろした。
「……男爵。これは、ただでは済みませんぞ」
床に押さえつけられた男が、歯を食いしばって言った。
「王都の兵に手を上げたのです……。反逆と取られても、文句は言えませんぞ」
「言っただろ。ここは俺の領だ」
俺は首を傾げた。
「令状も出さずに何を言ってる。俺の領で剣を抜いた時点で、お前らはただの暴漢だ」
「その男は……、王都へ連れ戻さねばならぬお方です」
「お方?」
「っ……」
「ねえ、兵士さん」
バーデンが、床の男の前にしゃがみ込んだ。
「お方なの? 罪人なの? どっちなのかしら」
男は答えなかった。
バーデンの視線が、ちらりとレオンへ向く。
そして兵士に向き合い、襟元を軽くつまんだ。
「王都の兵にしては、縫い目が新しいわね」
「……」
「靴も揃いすぎ。腰の剣も王宮兵の官給品じゃない。それに、本当に王都の命なら、令状くらい見せるでしょう」
男の顔が、わずかに引きつった。
「やっぱり。王の命じゃなくて、王都のどなたかの命、かしら」
レオンは、床に押さえつけられた兵士を見下ろしていた。
怯えてはいないが、顔色は悪かった。
「……旦那様。この件は、私の責です」
「責って何だよ。お前、何者だ」
レオンは答えなかった。
代わりに、バーデンが小さく息を吐いた。
「ねえ、レオンちゃん」
「……はい」
「王都じゃ今、第二王子殿下が行方不明なんですって」
酒場の空気が、凍った。
俺はゆっくりとレオンを見た。
「お前、まさか……」
レオンは、静かに膝をついた。
「……黙っていたこと、お詫びいたします」
レオンは顔を上げた。
「私は、アルヴェリア王国第二王子、レオンハルト・アルヴェリアです」
酒場の誰かが、酒杯を落とした。
俺は天井を見上げた。
「……レオノーラちゃあああああああん!」
◆
兵士たちは、バーデンたちに任せた。
酒場の戸口には、片足の老兵が椅子を置いて座っている。
片腕の男は、奪った剣を並べて手入れの具合を確かめていた。
元斥候だった男は、縛られた兵士たちの靴底を見て、どの道を通ってきたのかを笑いながら当てている。
兵士たちの縮こまり方を見て、俺は確信した。
うん。
あいつら、うまいこと吐かせるな。
俺は青年――いや、第二王子レオン殿下を屋敷へ連れ帰った。
応接室には、俺と妻、レオノーラ、リシュアンを集めた。
全員がそろったところで、俺はレオン殿下に向かって叫んだ。
「なんで黙ってた!?」
レオン殿下が口を開きかける。
だが、その前にレオノーラが一歩前に出た。
「お父様! 私が殿下に、無理を言ったからです!」
「レオノーラ?」
「殿下を責めないでくださいませ……。第一王子殿下に近い方々が、もう殿下の周囲を削り始めております。あのまま王宮に戻れば、殿下のお命が危なかったのです」
「いや待て……なんでレオノーラがそんなこと知っている? そもそも、いつから知り合いなんだ?」
王宮の舞踏会で一曲踊って惚れ合ったとか、そういう話か。
何それ、物語かよ。
「わたくしの実家由来ですわ」
「リエネの実家?」
「ええ。わたくしの実家は、王都の記録官の家です。……お忘れだったのですか?」
「いや……忘れたわけじゃあ……」
「……殿下との出会いは、王宮の書庫でした。わたくしが北方街道の古い記録を読んでいた時、殿下が声をかけてくださったのです」
レオノーラがレオン殿下を見る。
「北方の話をしても、笑わずに聞いてくださいました。わたくしは、それがとても嬉しくて……」
レオン殿下も、静かに口を開いた。
「私にとっても、レオノーラ嬢と話す時間は救いでした。王宮では、誰もが私を王子として見ます。けれど彼女だけは、ただ私と話してくれました」
「殿下……」
俺は二人を見比べた。
もっとずっと前から、二人は知り合っていた。
俺の知らないところで。
「……だから、求婚があっても全部お断りしてたのか?」
「はい」
「俺、全部に難癖つけて追い返してたと思ってたんだけど」
「お父様のせいにもしておりました」
「レオノーラちゃん!?」
リシュアンが、部屋の端で小さく呟く。
「姉上、なかなかひどいですね」
「リシュアン」
「失礼しました」
俺は深く息を吐いた。
レオノーラは北方で生きたいから、王都の縁談を断っていたのだと思っていた。
実際には、娘の恋心の隠れ蓑にされていただけらしい。
つらい。
「それで……殿下は、王宮へ戻るつもりだったのか」
「私が北方に残れば、レオノーラ嬢と男爵家を巻き込みます。だから、戻るべきだと思っておりました」
レオノーラが首を振る。
「戻れば、あなたは殺されます……そんなのは嫌です」
「だいたい、なぜ命を狙われるんだ?」
俺は眉を寄せた。
「殿下は、王位継承争いから降りるつもりだったんだろう? 北方で、爵位も何も持たずに生きるつもりの男を、わざわざ連れ戻す必要があるのか?」
俺がそう言うと、リエネが静かに首を振った。
「レオン殿下ご本人が王位を望んでいなくても、殿下を望む者がいるからです」
レオン殿下は苦く目を伏せた。
「私は、母方の後ろ盾が強くありません。ですが……その分、王妃陛下のご実家にも、王弟殿下にも近すぎない」
「つまり?」
「第一王子殿下を不安に思う者たちにとって、私は都合のよい旗印なのです」
リシュアンが小さく呟いた。
「本人の意思は関係ない、ということですか」
リエネが頷く。
「第一王子殿下は正統ですが、外戚の力が強すぎます。第三王子殿下は王弟殿下の影が濃い。だから、そのどちらにも寄りきらないレオン殿下が、都合よく見えるのです」
レオン殿下は自嘲するように笑った。
「私は王位を望んでおりません。ですが、望んでいないからこそ、担ぎやすいのだそうです」
「……迷惑な話だな」
レオノーラが拳を握った。
「しかも、殿下は優秀です……。地方の事情にも耳を傾けてくださいます。地方の家々や商人たちにとっては、そういう方のほうが信じられるのです」
ああ、確かに。
わずかな期間でも、すぐに分かった。
こいつは、人の心を掴むのがうまい。
だからこそ、他の者からすれば、完成する前に消しておきたい火種なのだ。
「……で、今回のこれは?」
俺は酒場の方角へ目を向けた。
「あいつらは、殿下を連れ戻すだけのつもりだったのか」
レオン殿下は答えなかった。
代わりにリエネが言う。
「おそらく、戻した直後に事故として処理されます」
「事故か……」
「病。落馬。馬車の故障。あるいは、王都へ戻る途中で山賊に襲われた、と記録されるでしょう」
レオノーラの顔が青ざめた。
「そして、北方で殿下が襲われたことにすれば、我が家にも責任を問えます」
リシュアンの声が低くなる。
「第二王子殿下を消し、男爵家にも疑いをかける……。ついでに北方の街道と兵糧も押さえるつもりですか」
俺は頭を抱えたくなった。
その時、扉が軽く叩かれた。
「入るわよ」
バーデンだった。
「びっくりするほど吐かせるの楽だったわ」
「そうなのか?」
「ええ。下っ端はね。隊長格は口が堅いわ。そこは褒めてあげてもいいかも」
バーデンはひらひらと紙を振った。
「で、分かったこと。やっぱり正式な王命じゃないわ。近衛副長預かりの略印。名目は第二王子殿下の保護」
「いや、それただの連行だろ」
「それと、レオノーラちゃんの名前も出ていたわ。必要なら、事情聴取のため同行させよ、だそうよ」
「……レオノーラを?」
「ええ」
バーデンは肩をすくめた。
「どうするの? 王宮の兵士とやり合って、しかもレオノーラちゃんの名前まで出された。あんたはもう、黙って畑を耕していられる男爵じゃないわよ」
「……だよなぁ……」
俺は、どさっと椅子に座った。
「政治に巻き込まれるのが嫌で、優遇を蹴って北方に飛ばされたのによ……」
王都の派閥も、王位継承争いも、そんなものは全部まとめて暖炉に放り込んだつもりだった。
レオノーラが、俺の前で膝をついた。
「お父様……。殿下を、助けてください」
「レオノーラ……」
「わたくしは、殿下と結ばれなくてもいいのです」
俺は黙って、レオノーラを見た。
「お父様が……政治も戦争も嫌っていることは存じています。一生、わがままは申しません。殿下に……死んでほしくないのです」
一生のお願いにしては、重すぎやしないか。
俺は北方で静かに暮らしたかった。
妻と娘と息子がいて、退役した仲間たちがいて、仕事終わりに酒場で笑いながら酒を交わす。
それだけでよかったのに。
それに――。
「……レオノーラ。お前の一生のお願いが、男のためかぁ……」
「……申し訳ございません」
頭を下げる娘を見て、胸の奥が鈍く痛んだ。
違うんだ。
謝らせたかったわけじゃない。
ただ、嬉しいのと同じくらい、寂しいんだよ。
王都で田舎娘と笑われても、レオノーラは泣かなかった。
そう言われないために、作法を学び、書庫に通い、王都の令嬢たちに混じっても恥じぬよう、いつも背筋を伸ばしていた。
お前は、俺の誇りなんだよ。
そんなお前が、初めて自分の口で願っている。
好きな男と結ばれたい、ではなく。
死んでほしくない、と。
「……レオノーラ。顔を上げろ」
レオノーラが、ゆっくりと顔を上げた。
俺はレオン殿下へ視線を向ける。
「殿下」
「……はい」
「あんたは、これからどうしたい?」
「……」
「王子としての答えじゃない。レオノーラがここまで頭を下げたんだ。あんた自身の答えを聞かせろ」
レオン殿下の喉が、小さく動いた。
「……本当は」
レオン殿下は、レオノーラを見た。
「彼女を北方へ送り届けて、少しだけ思い出をいただいて、それで終わりにするつもりでした」
「殿下……」
「けれど……できませんでした」
俺は黙っていた。
「レオノーラ嬢が笑うたびに、卑怯にも思ってしまったのです。もう少しだけ、と。明日までは、と。次の朝までは、と」
レオノーラの目に、また涙が浮かぶ。
「私は王子です。逃げてはいけない立場です。けれど……」
レオン殿下は、ゆっくりと息を吸った。
「生きたい」
彼は、レオノーラを見た。
「レオノーラ嬢の隣で、生きたいです」
レオノーラの唇が震えた。
「……レオン様」
俺は、しばらく黙った。
ああ、くそ。
ここで嘘をつけば、まだ嫌えたのに。
王子の務めだの、国のためだの、綺麗な言葉で逃げれば、殴る理由もあったのに。
「……そうか」
俺は椅子の背に体を預けた。
「なら、先に言っておく」
レオン殿下が、顔を上げる。
「娘を泣かすなら、お前を殺す」
レオノーラが息をのんだ。
「お父様……」
「王子だろうが、王だろうが関係ない。今日みたいな顔でレオノーラを泣かせるなら、俺はお前を許さん」
レオン殿下は、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
俺は立ち上がった。
「バーデン」
「はいはい」
「宿駅の合図火を上げろ。街道の見張りを増やす。南から来る道は、荷馬車で詰まらせろ。東の橋は、いつでも落とせるようにしておけ」
バーデンの目が、すっと細くなった。
「本気でやり合う気なのね」
「ああ」
俺はレオン殿下を見下ろした。
「殿下。俺はあんたを王子だから助けるんじゃない。レオノーラが泣いたから助ける」
レオン殿下は、黙って俺を見た。
「だから、あんたを生かすのも殺すのも、王都じゃない」
俺は、部屋の外へ視線を向けた。
そこには、命令を待つ北方の者たちがいた。
「俺達だ」
◆
王都からの追手は、思ったより早く来た。
だが、こちらがわざと開けておいた大通りを進んだところで、荷馬車に道を塞がれ、動けなくなった。
脇へ逸れれば、雪に埋もれた溝と林道が待っている。
それでも無理に進もうとした兵士の前へ、槍を構えた男たちが飛び出した。
槍の穂先が兜を弾き、剣を落とし、馬の鼻先をかすめる。
びびった追手は、半刻もかからず縛られた。
こちらの被害は、見張り小屋の扉一枚。くすん。
バーデンが、終わったあと請求書を作っていた。
「王都の兵士さんたち、丁寧に払ってくれるかしらねぇ」
「払わなかったら?」
「鎧を売るわ」
「剣も貰わないとな」
もちろん、それで終わるわけがない。
王都は、面子で動く場所だ。
一度失敗すれば、次はもっと大きな旗を立てて来る。
おそらく第一王子派は、こう言っているだろう。
男爵家が王都の兵に刃を向けた。
第二王子を匿い、反逆を企てている。
よって、鎮圧の兵を出すべきだ、と。
こじつけやがって。
「早ければ、十日を過ぎる頃には軍が訪れるわね」
バーデンは、酒場の奥で地図を広げながら言った。
「軍、ねぇ」
俺は椅子に腰かけ、地図を眺める。
王都から北方へ来る道は、いくつもあるように見える。
だが、大きな荷馬車を連れて、鎧を着た兵を動かし、馬糧を運びながら進める道は限られている。
「俺らが、そう作ったんだけどな」
「商人が迷わなくて、荷が途切れなくていい道よねぇ」
だが、それ以外は違う。
北方の林は深く、見晴らしは悪い。
雪が降れば道は消える。
土地勘のない者が脇道へ入れば、湿地か、溝か、古い獣道へ迷い込む。
「王都の軍が来るなら、ここを通る」
俺は地図の南街道を指で叩いた。
「もう手は回してあるわ。あとで手当てを渡すからって」
「早いなぁ」
「あなたが腹を括った顔をした時点で、商人には声をかけたもの」
バーデンは、地図に小さな石を置いていく。
「南街道の宿は、うちの息がかかってるでしょ。馬糧は買い上げ済み。鍛冶屋には、王都軍の馬具修理を後回しにするよう頼んだわ」
「橋は二つ、いつでも落とせるな。ここまで歩かせて疲れさせるぞ」
「案内人にも声をかけておいたわ。まともなのは、誰も受けないはず。受けるのは、金だけ取って迷わせる連中ね」
「……レオン殿下には、玉座に座ってもらう」
バーデンが、静かにこちらを見る。
「そこまでやるの。 恩を売っておくつもり?」
「まぁな。これで北方の中立を確立させたい」
「それに、生かすなら誰にも殺せない場所に置いた方がいいものね」
「ああ。だから、なるべく殺すな。寝かせず、食わせず、休ませるな。鎧を重荷に変えろ」
「了解。正面衝突はしないわ」
王都の軍は、きっと旗を掲げて来るだろう。
鎧を着て、馬に乗り、隊列を組む。
王都の軍にとって、それは正規軍として当然の姿だ。
だが、ここは北方だ。
「さっきの追手で、相手は北方が槍を使うと思い込んだでしょうね」
バーデンが、楽しそうに笑う。
「なら、次は弓だ」
北方の本命は、槍ではない。
白い景色の中で、弓兵は音もなく動く。
雪に埋もれた罠は、踏むまで気づかない。
王都の軍が北方をただの寒い辺境だと思っているなら、雪の怖さを、骨身に染みてもらうまでだ。
それから数日後。
夜明け前、俺は政務室にリシュアンを呼んだ。
「父上。お呼びでしょうか」
「リシュアン、家はお前に任せる」
リシュアンの顔が、わずかに強張った。
「リエネとレオノーラを頼んだ」
リシュアンは黙った。
「宿駅を閉じるな。倉庫を空にするな。そして、商人への支払いを遅らせるな。北方の信用を守れ」
「……承知しました」
「すまんな。だが、次期当主のお前にしか任せられん」
リシュアンは、抱えていた書類を強く握った。
「……はい。お任せください」
「いい返事だ」
俺は息子の肩を叩いた。
「俺の息子だな」
リシュアンは、少しだけ唇を引き結んだ。
泣きそうな顔を、どうにか耐えているようにも見えた。
ああ、戦争は子供まで大人に変えてしまう。
本当に、王都の連中はろくなことをしない。
次に、レオン殿下を呼んだ。
殿下は、すぐに来た。
顔色は相変わらず悪いが、その目には決意があった。
「旦那様。私も参ります」
「なんでだ。待っていろ」
「ですが」
「待て」
レオン殿下は言葉を止めた。
「殿下。あんたは旗です。生きていることが仕事です。今ここで前に出られて、流れ矢にでも当たられたら全部終わる」
「私は、あなた方だけに危険を負わせるわけには」
「それを言うなら、あんたがここに来た時点で、もう俺たちは危険を背負っています」
「……私が、王子の身でありながら、逃げることを望んだばかりに……」
「違う」
俺は、レオン殿下の言葉を遮った。
「あんたに何かあれば、レオノーラが泣くからだ」
殿下は何も言えなくなった。
「生きたいと言ったでしょう」
「……はい」
「なら、生きるのが仕事です」
レオン殿下は、深く頭を下げた。
「……どうか、ご武運を」
そこへ、リエネが静かに入ってきた。
いつも通り、背筋を伸ばし、涼しい顔をしている。
外では男たちが走り回っているというのに。
「こんなことになるとはなぁ」
俺がそう呟くと、リエネは静かに頷いた。
「ええ」
「……なんでそんな落ち着いてんの?」
「領民を信じていますから」
「え……ここは俺では?」
リエネは、ほんの少しだけ笑った。
「もちろん、あなたが築き上げた地ですもの」
俺は言葉に詰まった。
「あなたが拾った人々です。あなたが道を作り、誰も捨てずに役目を与えた。だから、皆が動くのです」
「……買いかぶりすぎだ」
「いいえ」
リエネは首を振った。
「わたくしは、あなたについてきてよかったと思っておりますわ」
俺は、しばらく何も言えなかった。
前世の俺は、何も残せず死んだと思っていた。
ただ働き、疲れて、誰かと家庭を築くこともなく終わった。
けれど今、俺の前には妻がいる。
娘がいる。
息子がいる。
そして、外には北方の者たちがいる。
俺が作ったと言うには、大きすぎるものだ。
そして、守りたいと思うには、十分すぎるものだった。
俺は白い外套を羽織った。
扉のそばに、レオノーラが立っていた。
「お父様……」
「レオノーラ、いい子でいろ……いや、おまえはいつだっていい子だったな」
俺が言うと、レオノーラの目が揺れた。
「一生のお願い、俺達が叶えてやるからな」
「……はい」
リエネが、そっとレオノーラの肩に手を置く。
「お気をつけて」
「ああ」
レオノーラは深く頭を下げた。
「お父様。どうか、ご無事で」
「お父様、頑張っちゃう」
レオノーラが、泣きそうな顔で、ほんの少しだけ笑った。
俺は外へ出た。
「雪か……」
白い景色の中で、弓を持った兵たちが静かに待っている。
バーデンが、いつの間にか俺の隣に立っていた。
「軍は?」
「予定通り、本道を進むはずよ。南街道の見張りから合図が来てる。宿駅の者たちも配置済み。弓兵は森に入ったわ」
鍛冶場では、夜通し蹄鉄を打つ音が響いていた。
宿駅には合図火が灯り、荷馬車は街道の脇に並べられている。
「旦那様」
バルドが、俺に弓を差し出した。
「俺はもう、前に出る歳じゃないんだがな」
「そんなことありませんよ。若い連中に、旦那様の背中を見せてやってください」
俺は笑って、その弓を受け取った。
「久しぶりね。こうして並ぶの」
「そうだな」
片足の者が弓を持ち、片腕の者が罠の縄を引き、老兵が若い者の肩を叩く。
酒場の常連も、宿駅の番人も、鍛冶場の親父も、荷馬車の御者も。
みな、かつて戦場を知っている者たちだった。
俺は弓を握り直した。
「行くぞ。ヴァルグレイヴ軍」
そうして俺たちは、白い闇の中へ踏み出した。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
こちらは短編としてはここで一区切りです。
数百年後のヴァルグレイヴ家へつながる、初代のお父ちゃんの始まりのお話でした。
お父ちゃん戦記として続きを書くかどうかは、ブックマークの伸びを見て考えたいと思います。
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