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今世で勝ち組だった俺、娘にイケメン彼氏ができたと思ったら、王家に喧嘩を売られた

作者: 福嶋莉佳
掲載日:2026/05/17

遅ればせながら『八甲田山』を観まして、雪の怖さを知りました……。

寒い土地、こわい。

王都では、王位をめぐる争いが日に日にきな臭くなっている――らしい。


だが、寒い北方の男爵領主である俺には関係ない。


俺には美しい妻と娘、そしてかわいい息子がいる。


前世で結婚もせずに死んだ俺にとって、今世は大勝利だ。


人生勝ち組。


ハッハッハーー!


「お父様。好きな方ができました」


「いやあああああああ!」


妻が優雅にカップを口にする。

息子のリシュアンは、書類を持ったまま固まっていた。


「レオノーラちゃん! お父様と大きくなったら結婚するって言ってたでしょ!?」


「言ってません」


「『おとうしゃまだいしゅき〜、大きくなったら結婚しようね〜』って言ったじゃない!」


「言ってません」


「父上……さすがにそれは……」


リシュアンが引いた顔でこちらを見る。


「だ、誰!? 誰なの!?」


レオノーラは、ほんの少しだけ視線を伏せた。


「王都で知り合った、誠実な方です。いずれ、身分も立場も置いて、北方で生きたいと仰っています」


「身分も立場も置いて? ちょっと待て、どこの家の厄介息子だ!」


「お父様」


「いや、だってそう聞こえるだろう!?」


そこで妻が、静かに紅茶の器を置いた。


「あなた。まずは会って差し上げなさい」


「リエネ、お前は知ってるのか!?」


「ええ。とても感じのよい青年ですよ」


「どこの馬の骨だ!」


「……あなたも元は平民でしょう」


俺は黙った。

それを言われると弱い。


その時、扉の外から控えめな声がした。


「お客様がお見えです」


レオノーラの表情が、ぱっと明るくなる。


「彼だわ」


「入れちゃうのか!?」


扉が開き、入ってきたのは一人の青年だった。


青年は、まずレオノーラへ一瞬だけ視線を向けた。

それからすぐに、俺と妻へ向き直る。


「遅れて申し訳ございません」


深く、丁寧に頭を下げる。


「レオンと申します。本日は、お時間をいただきありがとうございます」


「……お、おう……」


青年は俺を見た。


王都の若い男にありがちな、北方を見下すような目はない。

かといって、妙にへりくだる様子もない。


ただ、こちらをまっすぐ見ている。


「……どうぞ」


「ありがとうございます」


青年はもう一度礼をして、レオノーラの隣ではなく、少し離れた席に座った。



その夜、俺は酒場のカウンターに突っ伏していた。


「娘に恋人ができたんだけどー!」


向かいでグラスを磨いていたバーデンが、ちらりと俺を見る。


「よかったじゃない、レオノーラちゃん」


「よくない!」


「どうしてよ。爽やかで、礼儀正しくて、顔もよくて、北方の寒さにも文句を言わないんでしょう? いい男じゃなーい」


「だから困っているんだろうが!」


バーデンはこの酒場を仕切っている。

俺とは長い付き合いの友人で、年は俺とそう変わらないおっさんだが、酒場をきり盛りし始めてからこの口調になった。


「しかも俺がキョドっても笑わないし」


「いい男じゃない」


「うちの娘に軽々しく触れないんだぞ!」


「最高じゃない」


「そうなんだよ!」


バーデンは呆れたように肩をすくめた。


「じゃあ、何が不満なのよ。王都の求婚者たちより、ずっとましじゃない」


「……それは、まあ」


たしかに、レオノーラに近づこうとした王都の男たちは、ろくでもなかった。


たとえば、ブランシュ伯爵家の三男。

北方の暮らしは退屈でしょうから王都へ戻して差し上げます、などと言った男だ。


舐めてんのか。


それから、モルガン子爵家の令息。

あいつは酷かった。


夜会でレオノーラの手を取ったまま、やたらと顔を近づけたり、髪の香りを褒めたり、手をいつまでも離さなかった男だ。


思い出しただけで、背中に寒気が走る。

妻に扇で叩かれなければ、剣を抜いていた。


「……レオノーラは、王宮の舞踏会で第二王子のファーストダンスも踊ったほどなんだぞ?」


「あなた、それずっと自慢してたわね」


そうだ。

レオノーラは、こんな北方の田舎令嬢でありながら、王都でもよく知られている。


美しく、礼儀正しく、賢く、俺に似なかった。


王都の舞踏会でも、彼女に声をかける者は多かった。

縁談の申し込みも、こちらが返事に困るほど届いた。


それなのに。


「身分も立場もない訳あり王都男なんて……」


「北方で暮らしたいって言ってるなら、覚悟はあるんじゃない?」


俺は酒杯を握ったまま、低く唸った。


「前世の知識チートで、俺は知っている」


「なにそれ」


「妻と娘の言うことに、むやみに口を出してはいけない」


「急に現実的ね」


「円満な家庭とは、勝つことではない。従うことだ」


「なにその真理」


俺はため息をついた。


今世の俺も、ぱっとしない顔のおっさんだ。

顔には傷があるし、最近は加齢臭も気になってきた。


それでも妻はそばにいてくれて、娘は微笑み、息子は俺を尊敬してくれている。


だから、できる限り家族の望みは聞きたい。


聞きたいのだが。


「よりによって、あんな好青年を連れてくるなよ……」


俺が呻くと、バーデンは楽しそうに笑った。


「勝ち目ないわね」


「……言うなよ」


その時、酒場の扉が開いた。


冷たい風と一緒に入ってきたのは、噂の青年だった。


厚手の外套に雪の名残をつけている。

王都の人間なのに、北方の寒さに身を縮める様子もない。


青年はこちらを見ると、まっすぐ歩いてきた。


「旦那様」


「……何だ」


俺は、できるだけ威厳のある声を出した。


バーデンが隣で笑いをこらえている。

笑うな!


「おくつろぎのところ、失礼いたします。少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「……ああ」


「ありがとうございます」


青年は隣に座った。


それにしても、場に似つかわない。


北方の酒場は、王都の貴族が思い浮かべるような上品な場所ではない。


壁には古い弓や折れた槍。

天井の梁には干し肉。

暖炉のそばには片足の老人が座り、奥の卓では厳つい男が杯をがぶ飲みしている。


その雑な背景に、この青年。


浮いている。


「……レオノーラ嬢から、あなたのことを伺っておりました」


「レオノーラから?」


「はい。北方の何もない土地を、ここまで作り上げた方だと。その話を聞き、あなたを尊敬しております」


俺は固まった。


え?

俺、尊敬されてんの?

このイケメンに?


「この土地のことを、もっと知りたいと思っています」


「……」


「旦那様のもとで、お仕事を学ばせていただけませんか」


やめろ。

そういう目で見るな。


気分いいじゃないか!


「……好きにしろ」


「ちょろいわね」


「うるさいぞ、バーデン」


青年は、困ったように笑った。


その顔がまたいい。

本当に腹立たしい。


その翌朝から、青年は俺の後をついてくるようになった。


「おはようございます」


「おはよう……早すぎないか」


「学ばせていただくと申し上げましたので」


イケメンで腰も低い。

なんなんだ。


俺は青年を連れて、北方の街道沿いを歩いた。


朝の空気は冷たい。

荷馬車の車輪が、踏み固められた雪道をぎしぎしと鳴らしながら進んでいく。

道の両脇には掻き寄せられた雪が低く積もり、まだ新しい杭が等間隔に頭だけを出していた。


「この道は、昔から?」


「昔は道なんて呼べたもんじゃない。雨でぬかるむ、雪で消える。そんなのばっかりだ」


青年は、しばらく道を見ていた。


「では、旦那様が作られたのですか」


「作ったってほど立派なもんじゃない。荷馬車が通れるようにしただけだ」


前世の俺は、物流の仕事をしていた。


倉庫で荷を数え、車を手配し、遅れた荷に頭を下げる側だった。


だが、その仕事で一つだけ身に染みていた。

金になるのは、荷そのものだけじゃない。


だから北方に来て、まず道を見た。


最初に直したのは、荷馬車が沈むぬかるみだった。

次に橋をかけ、宿を置き、馬を替えられる場所を作った。


道が通れば、商人は来る。

けれど、ただ通り過ぎるだけでは、この土地に金は落ちない。


商人が泊まり、馬を替え、荷を預ける。

そうして初めて、この土地に金を落としていく。


青年は、街道沿いの宿と倉庫を見比べた。


「宿、倉庫、馬、護衛。全部そろって、初めて荷が流れるのですね」


「分かってるじゃないか」


「いえ。今、分かりました」


嫌味なくらい、素直な男だ。


俺は、凍った道を進む荷馬車を見送った。


「……北方は貧しかったんじゃない。荷が通れる形になってなかっただけだ」


青年は、しばらく黙って街道を見ていた。


ちょうどその時、荷馬車の御者が俺に向かって軽く帽子を上げた。

王都から来る商隊の一つだ。

荷台の樽は、いつもより少ない。


「……商人は、よくここを通るのですね」


「ああ。おかげで、王都のくだらん噂まで流れてくる」


「噂……」


「お前、それこそ王都にいたんだろ? 王位継承で揉めてるんだっけか」


「……ご存じないのですか」


「政治は知らん」


いや、正確には、知りたくない、だ。


領主をしている以上、王都の動きが荒れているかどうかくらいは、荷を見れば分かる。


「荷の流れ、ですか」


「馬が急に買われ、干し肉が消えたり、鉄の注文が増え、塩の値が上がる。すると?」


青年は小さく息をのんだ。


「……兵を動かす前触れですね」


「そうだ。知っているか」


「王都でも、そう教わります。ですが……机上の話でしたので」


「王都の噂は嘘つきだ。けど、荷の流れはあまり嘘をつかないな」


その後、俺は青年に倉庫を軽く案内した。


「ガゼル、膝はどうだ」


「寒い日は軋みますな」


「酒を減らせ」


「それは無理です」


即答するな。


青年は、そのやり取りを不思議そうに見ていた。


「仲がいいのですね」


「まあな。兵士だった頃からの付き合いだしなぁ」


「退役した方が多いのですか?」


「そうだなぁ。領民を増やすために、兵士に片っぱしから声をかけたからなぁ。何せ、そもそも人がいなかったんだ」


「兵士に……」


「戦が終われば、兵士は要らなくなるだろ。怪我をしていれば、なおさらだ。けど、道を直すにも、倉庫を建てるにも、見張りを置くにも、人手はいる――」


「お父様」


背後から声がして、俺は振り返った。


レオノーラが、侍女を一人連れてこちらへ歩いてくるところだった。


淡い外套の裾が、冷たい風に揺れている。

王都の令嬢らしい品のよさはあるのに、不思議と北方の朝にも浮いていない。


「レオノーラ」


青年の表情が、ほんの少しやわらいだ。


おい、俺の前でそういう顔をするな。


「お嬢様」


近くの倉庫から出てきた男が、帽子を取った。


「おはようございます、ベルグさん。奥様のお加減はいかが?」


「おかげさまで。臨月に入りましたんで、今日は家で休ませています」


「無理をさせないで。赤子が生まれたら、必ず知らせてくださいね」


「もちろんです」


ベルグは、照れたように頭を下げた。


少し離れたところでは、荷を運んでいた若い女が顔を上げる。


「お嬢様、今日は市場の方へ?」


「ええ。あとで寄ります。新しい毛織物が入ったのでしょう?」


「はい。母が、お嬢様に見ていただきたいと」


「楽しみにしています」


レオノーラは、ひとりひとりに自然に声を返していく。


青年は、その様子を静かに見ていた。


「……レオノーラ嬢は、領民のことをよくご存じなのですね」


「うちの娘だからな。かわいいだけじゃない」


「存じております」


なぜそんなさらりと言えるんだ。

コツでもあるのか?


「お父様。そろそろお昼にしませんか」


「もうそんな時間か?」


「朝からずっと歩いていらっしゃいますもの。レオン様もお疲れでしょう」


青年はすぐに首を振った。


「いえ、私は――」


「食え」


俺は言った。


「遠慮するな。倒れられたら困る」


「……ありがとうございます」


レオノーラが小さく笑った。


「では、食堂へ参りましょう」


青年が自然に一歩引き、レオノーラの歩幅に合わせる。


悔しい。

悔しいが、様になっていた。



青年は、驚くほどあっさり領民たちに受け入れられた。


レオノーラに倣って領民の顔を覚え、挨拶をし、立ち話にもきちんと付き合う。


あれだけ見た目がいいのだ。

商店のマダムたちが「おまけあげるよー」と声をかけるのも、もはや日課になっていた。


しかも、ただ愛想がいいだけではない。


荷札の色と焼き印を見て、どの倉庫へ運ぶ荷かすぐに覚えた。

干し肉や薬草の箱は湿気を嫌うのだと教えれば、次の日には自分から積み順を直していた。


前世でも、そんな新人いなかったぞ。


馬での移動もそうだった。


「乗れます」


そう言って、レオンはあっさり馬にまたがった。


姿勢がいいし、手綱の扱いも慣れている。

というか、見た目が絵になっている。


聞けば、王都では狩猟会に出ていたそうだ。


ぼんぼんめ。


リシュアンは、いつの間にか懐柔されていた。


「兄上、次は厩を見に行きましょう」


もう兄上呼び。


もう、だ。早すぎない?


レオノーラは幸せそうだし、リエネには釘を刺されるし、かく言う俺も、レオンに「旦那様」と呼ばれ、慕われている。


あんな男前に尊敬されて、別に変な趣味はないが、気分がいい。


いつの間にか、「おい、レオン。付き合えよ」と言ってバーデンの酒場に通うようになっていた。


そんな、代わり映えはないが悪くもない日々が続いていた頃。


王都から来た商人が、妙なことを言い出した。


「旦那様、王都相手の取引は少し締めた方がいいですよ」


俺は取引台帳から顔を上げた。


「……なんだ、支払いを渋ってんのか?」


「渋るまでは……しかし、遅れております。王宮筋の支払いが、少し」


「王族も金払いが悪くなったか。終わってるな」


「それだけなら、まだ笑い話で済みますがね」


商人は、声を少し落とした。


「王都のいくつかの商会に、やたらと役人が出入りしているそうです」


「役人?」


「ええ。どの家へ品を納めているか、誰から注文を受けているかを聞いて回っているとか」


横にいた勘定方の声が低くなった。


「……旦那様」


分かっている。


王都で、何かが動いている。

王位がらみか、王宮内の派閥争いか。

中身までは分からない。


だが、ろくな話ではないことに変わりはない。


「うちに飛び火するか?」


「すぐには。ただ、王都筋の後払いは危ういかと」


「なら前金だな。王宮筋に納めている品が、いくつかあったよな。しばらく距離を取るぞ」


「そのほうがよろしいかと」


そして、こういう時は、たいていもう一つ困る話がついてくる。


「旦那様。王都のいくつかの家から使者が向かっているそうです」


「ほれ来た。理由は?」


「おそらく、ご挨拶とご協力の打診かと」


「協力ねぇ」


王都の連中は、北方の道を押さえたいのだろう。


北方は隣国との貿易路だ。

王都との荷の行き来も多い。


ここを押さえれば、通すのも、止めるのもある程度決められる。


だから今のうちに、男爵家を自分たちの側だと言わせたい……迷惑な話だ。


その数日後、本当に使者が来た。


第一王子派だという貴族の使いは、いかにも王都らしい香水の匂いをさせて、にこやかに言った。


「第一王子殿下は、旦那様のお力を高く評価しておられます」


「それはありがたい」


本当に理解して言っているのか。

それとも、ただ都合のいい言葉を並べているだけなのか。


どちらにせよ、こちらの返事は決まっている。


「では、干し肉を買ってくれ。いい馬具も揃っているんだ。毛織物も今年は出来がよくてな」


「いえ、そういうことではなく……」


使者は笑みを崩さないまま、少しだけ身を乗り出した。


「王都が不穏な折には、男爵家にも、第一王子殿下のお考えにご理解をいただきたく」


「王都は大変そうですね」


「ええ。ですので、いざという時には――」


「いやぁ、お互い様ですなぁ。こちらも雪が積もると人手が足りず困っておりまして」


使者の笑みが、わずかに固まった。


「しかも、領民は老人と怪我人ばかりで。彼なんて片足ありませんし」


広間の隅に控えていた片足の老人バルドが、杖をついて笑った。


「役に立たん老いぼれで申し訳ありませんなあ」


使者は笑みを貼りつけたまま、バルドへちらりと視線を向けた。


「いえ、もちろん北方のご事情は承知しております。ですが、男爵家のお立場を示していただくだけでも、王都の不安はずいぶん鎮まります」


「立場?」


「はい。第一王子殿下こそ、次代の王にふさわしいと。男爵家がそうお認めくださるだけ――」


「それをやると、荷が止まるぞ」


使者の笑みが止まった。


「……荷、でございますか」


「ああ。男爵家が第一王子殿下に味方すると言った瞬間、第二王子派も、第三王子派も、北方の道を使いづらくなる」


「ですが、王国の安定のためには――」


「北方の道は、第一王子殿下のためだけに通しているわけではありません」


「……」


「商人が安心して荷を預けるには、この道がどこか一派のものでは困るんです」


使者の笑みが、完全に固まった。


「と言うわけで。少なくとも今は、王都の争いに色をつける気はありません」


「……第一王子殿下へのご協力は」


「干し肉なら今ストックありますんで」


「……」


「あ、毛織物もありますよ!」


使者は、笑みを貼りつけたまま立ち上がった。


その日、第一王子派の使者は、男爵家の支持ではなく、干し肉と毛織物の見積書を持って帰った。



その夜、酒場はいつもより少し静かだった。


炉には火が入り、壁際では男たちが酒杯を手にしている。

バルドが今日の馬車道のぬかるみについて文句を言い、片腕の男がそれを笑っていた。


「なんだかんだ言って、レオンちゃんと上手くやってるじゃなーい」


カウンターの向こうで、バーデンが頬杖をつきながら言った。


「……仕方がないだろう」


「よかったじゃない。レオノーラちゃん、嫁いで出ていく必要もなくなったんだし」


「……そうなんだよ〜」


それが、困るくらい嬉しかった。


リシュアンがいずれ家を継ぐ。


レオノーラには、街道沿いの支領か宿駅まわりの仕事を任せるとして、レオンはそこで働かせればいい。


問題は爵位だ。


どこか、小さな領地でも切り出すか?

いや、さすがに気が早いか。


そんなことを考えていた時だった。


酒場の扉が開いた。


「おお、レオン」


声をかけると、青年はまっすぐこちらへ歩いてきた。

いつものように穏やかな顔をしている。


……と思ったが、少し違った。


表情が硬い。


「男爵、お話がございます」


「なんだ? 改まって。お前も飲めよ」


「いえ」


即答だった。


少し傷ついた。

くすん。


「私は、ここを離れます。明日の朝には、北方を発つつもりです」


「……は?」


バーデンが目を細める。


「あら……」


「急な話で申し訳ございません」


「ちょ、ちょっと待て。何でだ? もしかして……俺がうざすぎた?」


レオンは一瞬だけ目を瞬いた。


「……違います」


「本当に?」


バーデンが横から口を挟む。


「はい」


「それならよかった」


いや、よくない。


「では、なぜだ」


「……彼女が大切だからです」


意味が分からん。


「お前、そんなこと言って、別に不満があるんじゃないのか?」


「……私の周囲は、今、あまり穏やかではありません。ここにいれば、いずれレオノーラ嬢も巻き込まれます」


「お前の周囲?」


「……はい」


「なら、なおさら北方にいればいいだろう。王都よりこんなに離れてるんだぞ? だいたい、お前、家とは距離を置きたいって話だったろ。今さら何を言われるんだ」


レオンは、何かを言いかけて、やめた。


「……レオン。お前、何から逃げてる?」


「逃げているわけでは……」


「逃げてるだろ。うちの娘から」


レオンは唇を引き結んだ。


その時だった。


酒場の扉が、乱暴に開いた。


冷たい夜気とともに、武装した男たちが踏み込んでくる。


飲んでいた男たちの声が、ぴたりと止まった。


先頭の男が、レオンを見た。


「見つけたぞ」


レオンの顔色が変わった。


「……来たか」


「お迎えに上がりました。ご同行を」


男たちは王都の兵の格好をしていた。


バーデンが、にこりと笑って前へ出る。


「ちょっとすみません、兵士さん。困りますわ。剣に手をかけちゃって入られちゃあ」


先頭の男は、バーデンを一瞥しただけだった。


「下がれ」


「あら、怖い」


俺は椅子に座ったまま、首を傾げた。


「ちょっと待ってくださいよ。そいつ、娘の恋人なんです。何かの間違いでは?」


先頭の男の視線が、こちらへ向く。


「間違いではありません。これは王都の命です。口を挟まれぬよう」


「王都の命?」


「その男を引き渡していただく」


「罪人か?」


男は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……王都へ戻すべき者です」


「じゃあ令状を見せてくださいよ」


「必要ありません」


「俺の領で、人を連れていくのに?」


兵の顔が険しくなる。


「逆らうならば、力ずくでも――」


男が剣を抜こうとした、その瞬間。


「わっ!」


兵の一人が膝をついた。


「なにをっ……うわっ!」


兵士たちに向かって卓が飛んできた。


「貴様らっ……!」


男たちが、すでに剣を抜いて兵を囲んでいる。


「ちょっと。暴れすぎないでよ。椅子、高いんだから」


俺は酒杯を置いた。


「お前らぁ、殺すなよ」


そして数十秒後。


王都の兵たちは、男たちに押さえられ、床に転がっていた。


レオンは息をのんでいた。


「さて」


俺は立ち上がり、床に押さえつけられた兵を見下ろした。


「……男爵。これは、ただでは済みませんぞ」


床に押さえつけられた男が、歯を食いしばって言った。


「王都の兵に手を上げたのです……。反逆と取られても、文句は言えませんぞ」


「言っただろ。ここは俺の領だ」


俺は首を傾げた。


「令状も出さずに何を言ってる。俺の領で剣を抜いた時点で、お前らはただの暴漢だ」


「その男は……、王都へ連れ戻さねばならぬお方です」


「お方?」


「っ……」


「ねえ、兵士さん」


バーデンが、床の男の前にしゃがみ込んだ。


「お方なの? 罪人なの? どっちなのかしら」


男は答えなかった。


バーデンの視線が、ちらりとレオンへ向く。


そして兵士に向き合い、襟元を軽くつまんだ。


「王都の兵にしては、縫い目が新しいわね」


「……」


「靴も揃いすぎ。腰の剣も王宮兵の官給品じゃない。それに、本当に王都の命なら、令状くらい見せるでしょう」


男の顔が、わずかに引きつった。


「やっぱり。王の命じゃなくて、王都のどなたかの命、かしら」


レオンは、床に押さえつけられた兵士を見下ろしていた。


怯えてはいないが、顔色は悪かった。


「……旦那様。この件は、私の責です」


「責って何だよ。お前、何者だ」


レオンは答えなかった。


代わりに、バーデンが小さく息を吐いた。


「ねえ、レオンちゃん」


「……はい」


「王都じゃ今、第二王子殿下が行方不明なんですって」


酒場の空気が、凍った。


俺はゆっくりとレオンを見た。


「お前、まさか……」


レオンは、静かに膝をついた。


「……黙っていたこと、お詫びいたします」


レオンは顔を上げた。


「私は、アルヴェリア王国第二王子、レオンハルト・アルヴェリアです」


酒場の誰かが、酒杯を落とした。


俺は天井を見上げた。


「……レオノーラちゃあああああああん!」



兵士たちは、バーデンたちに任せた。


酒場の戸口には、片足の老兵が椅子を置いて座っている。

片腕の男は、奪った剣を並べて手入れの具合を確かめていた。

元斥候だった男は、縛られた兵士たちの靴底を見て、どの道を通ってきたのかを笑いながら当てている。


兵士たちの縮こまり方を見て、俺は確信した。


うん。

あいつら、うまいこと吐かせるな。


俺は青年――いや、第二王子レオン殿下を屋敷へ連れ帰った。


応接室には、俺と妻、レオノーラ、リシュアンを集めた。


全員がそろったところで、俺はレオン殿下に向かって叫んだ。


「なんで黙ってた!?」


レオン殿下が口を開きかける。


だが、その前にレオノーラが一歩前に出た。


「お父様! 私が殿下に、無理を言ったからです!」


「レオノーラ?」


「殿下を責めないでくださいませ……。第一王子殿下に近い方々が、もう殿下の周囲を削り始めております。あのまま王宮に戻れば、殿下のお命が危なかったのです」


「いや待て……なんでレオノーラがそんなこと知っている? そもそも、いつから知り合いなんだ?」


王宮の舞踏会で一曲踊って惚れ合ったとか、そういう話か。

何それ、物語かよ。


「わたくしの実家由来ですわ」


「リエネの実家?」


「ええ。わたくしの実家は、王都の記録官の家です。……お忘れだったのですか?」


「いや……忘れたわけじゃあ……」


「……殿下との出会いは、王宮の書庫でした。わたくしが北方街道の古い記録を読んでいた時、殿下が声をかけてくださったのです」


レオノーラがレオン殿下を見る。


「北方の話をしても、笑わずに聞いてくださいました。わたくしは、それがとても嬉しくて……」


レオン殿下も、静かに口を開いた。


「私にとっても、レオノーラ嬢と話す時間は救いでした。王宮では、誰もが私を王子として見ます。けれど彼女だけは、ただ私と話してくれました」


「殿下……」


俺は二人を見比べた。


もっとずっと前から、二人は知り合っていた。

俺の知らないところで。


「……だから、求婚があっても全部お断りしてたのか?」


「はい」


「俺、全部に難癖つけて追い返してたと思ってたんだけど」


「お父様のせいにもしておりました」


「レオノーラちゃん!?」


リシュアンが、部屋の端で小さく呟く。


「姉上、なかなかひどいですね」


「リシュアン」


「失礼しました」


俺は深く息を吐いた。


レオノーラは北方で生きたいから、王都の縁談を断っていたのだと思っていた。

実際には、娘の恋心の隠れ蓑にされていただけらしい。


つらい。


「それで……殿下は、王宮へ戻るつもりだったのか」


「私が北方に残れば、レオノーラ嬢と男爵家を巻き込みます。だから、戻るべきだと思っておりました」


レオノーラが首を振る。


「戻れば、あなたは殺されます……そんなのは嫌です」


「だいたい、なぜ命を狙われるんだ?」


俺は眉を寄せた。


「殿下は、王位継承争いから降りるつもりだったんだろう? 北方で、爵位も何も持たずに生きるつもりの男を、わざわざ連れ戻す必要があるのか?」


俺がそう言うと、リエネが静かに首を振った。


「レオン殿下ご本人が王位を望んでいなくても、殿下を望む者がいるからです」


レオン殿下は苦く目を伏せた。


「私は、母方の後ろ盾が強くありません。ですが……その分、王妃陛下のご実家にも、王弟殿下にも近すぎない」


「つまり?」


「第一王子殿下を不安に思う者たちにとって、私は都合のよい旗印なのです」


リシュアンが小さく呟いた。


「本人の意思は関係ない、ということですか」


リエネが頷く。


「第一王子殿下は正統ですが、外戚の力が強すぎます。第三王子殿下は王弟殿下の影が濃い。だから、そのどちらにも寄りきらないレオン殿下が、都合よく見えるのです」


レオン殿下は自嘲するように笑った。


「私は王位を望んでおりません。ですが、望んでいないからこそ、担ぎやすいのだそうです」


「……迷惑な話だな」


レオノーラが拳を握った。


「しかも、殿下は優秀です……。地方の事情にも耳を傾けてくださいます。地方の家々や商人たちにとっては、そういう方のほうが信じられるのです」


ああ、確かに。


わずかな期間でも、すぐに分かった。

こいつは、人の心を掴むのがうまい。


だからこそ、他の者からすれば、完成する前に消しておきたい火種なのだ。


「……で、今回のこれは?」


俺は酒場の方角へ目を向けた。


「あいつらは、殿下を連れ戻すだけのつもりだったのか」


レオン殿下は答えなかった。


代わりにリエネが言う。


「おそらく、戻した直後に事故として処理されます」


「事故か……」


「病。落馬。馬車の故障。あるいは、王都へ戻る途中で山賊に襲われた、と記録されるでしょう」


レオノーラの顔が青ざめた。


「そして、北方で殿下が襲われたことにすれば、我が家にも責任を問えます」


リシュアンの声が低くなる。


「第二王子殿下を消し、男爵家にも疑いをかける……。ついでに北方の街道と兵糧も押さえるつもりですか」


俺は頭を抱えたくなった。


その時、扉が軽く叩かれた。


「入るわよ」


バーデンだった。


「びっくりするほど吐かせるの楽だったわ」


「そうなのか?」


「ええ。下っ端はね。隊長格は口が堅いわ。そこは褒めてあげてもいいかも」


バーデンはひらひらと紙を振った。


「で、分かったこと。やっぱり正式な王命じゃないわ。近衛副長預かりの略印。名目は第二王子殿下の保護」


「いや、それただの連行だろ」


「それと、レオノーラちゃんの名前も出ていたわ。必要なら、事情聴取のため同行させよ、だそうよ」


「……レオノーラを?」


「ええ」


バーデンは肩をすくめた。


「どうするの? 王宮の兵士とやり合って、しかもレオノーラちゃんの名前まで出された。あんたはもう、黙って畑を耕していられる男爵じゃないわよ」


「……だよなぁ……」


俺は、どさっと椅子に座った。


「政治に巻き込まれるのが嫌で、優遇を蹴って北方に飛ばされたのによ……」


王都の派閥も、王位継承争いも、そんなものは全部まとめて暖炉に放り込んだつもりだった。


レオノーラが、俺の前で膝をついた。


「お父様……。殿下を、助けてください」


「レオノーラ……」


「わたくしは、殿下と結ばれなくてもいいのです」


俺は黙って、レオノーラを見た。


「お父様が……政治も戦争も嫌っていることは存じています。一生、わがままは申しません。殿下に……死んでほしくないのです」


一生のお願いにしては、重すぎやしないか。


俺は北方で静かに暮らしたかった。


妻と娘と息子がいて、退役した仲間たちがいて、仕事終わりに酒場で笑いながら酒を交わす。


それだけでよかったのに。


それに――。


「……レオノーラ。お前の一生のお願いが、男のためかぁ……」


「……申し訳ございません」


頭を下げる娘を見て、胸の奥が鈍く痛んだ。


違うんだ。

謝らせたかったわけじゃない。


ただ、嬉しいのと同じくらい、寂しいんだよ。


王都で田舎娘と笑われても、レオノーラは泣かなかった。

そう言われないために、作法を学び、書庫に通い、王都の令嬢たちに混じっても恥じぬよう、いつも背筋を伸ばしていた。


お前は、俺の誇りなんだよ。


そんなお前が、初めて自分の口で願っている。


好きな男と結ばれたい、ではなく。

死んでほしくない、と。


「……レオノーラ。顔を上げろ」


レオノーラが、ゆっくりと顔を上げた。


俺はレオン殿下へ視線を向ける。


「殿下」


「……はい」


「あんたは、これからどうしたい?」


「……」


「王子としての答えじゃない。レオノーラがここまで頭を下げたんだ。あんた自身の答えを聞かせろ」


レオン殿下の喉が、小さく動いた。


「……本当は」


レオン殿下は、レオノーラを見た。


「彼女を北方へ送り届けて、少しだけ思い出をいただいて、それで終わりにするつもりでした」


「殿下……」


「けれど……できませんでした」


俺は黙っていた。


「レオノーラ嬢が笑うたびに、卑怯にも思ってしまったのです。もう少しだけ、と。明日までは、と。次の朝までは、と」


レオノーラの目に、また涙が浮かぶ。


「私は王子です。逃げてはいけない立場です。けれど……」


レオン殿下は、ゆっくりと息を吸った。


「生きたい」


彼は、レオノーラを見た。


「レオノーラ嬢の隣で、生きたいです」


レオノーラの唇が震えた。


「……レオン様」


俺は、しばらく黙った。


ああ、くそ。


ここで嘘をつけば、まだ嫌えたのに。


王子の務めだの、国のためだの、綺麗な言葉で逃げれば、殴る理由もあったのに。


「……そうか」


俺は椅子の背に体を預けた。


「なら、先に言っておく」


レオン殿下が、顔を上げる。


「娘を泣かすなら、お前を殺す」


レオノーラが息をのんだ。


「お父様……」


「王子だろうが、王だろうが関係ない。今日みたいな顔でレオノーラを泣かせるなら、俺はお前を許さん」


レオン殿下は、深く頭を下げた。

  

「……承知いたしました」


俺は立ち上がった。


「バーデン」


「はいはい」


「宿駅の合図火を上げろ。街道の見張りを増やす。南から来る道は、荷馬車で詰まらせろ。東の橋は、いつでも落とせるようにしておけ」


バーデンの目が、すっと細くなった。


「本気でやり合う気なのね」


「ああ」


俺はレオン殿下を見下ろした。


「殿下。俺はあんたを王子だから助けるんじゃない。レオノーラが泣いたから助ける」


レオン殿下は、黙って俺を見た。


「だから、あんたを生かすのも殺すのも、王都じゃない」


俺は、部屋の外へ視線を向けた。


そこには、命令を待つ北方の者たちがいた。


「俺達だ」



王都からの追手は、思ったより早く来た。


だが、こちらがわざと開けておいた大通りを進んだところで、荷馬車に道を塞がれ、動けなくなった。


脇へ逸れれば、雪に埋もれた溝と林道が待っている。

それでも無理に進もうとした兵士の前へ、槍を構えた男たちが飛び出した。


槍の穂先が兜を弾き、剣を落とし、馬の鼻先をかすめる。


びびった追手は、半刻もかからず縛られた。


こちらの被害は、見張り小屋の扉一枚。くすん。


バーデンが、終わったあと請求書を作っていた。


「王都の兵士さんたち、丁寧に払ってくれるかしらねぇ」


「払わなかったら?」


「鎧を売るわ」


「剣も貰わないとな」


もちろん、それで終わるわけがない。


王都は、面子で動く場所だ。

一度失敗すれば、次はもっと大きな旗を立てて来る。


おそらく第一王子派は、こう言っているだろう。


男爵家が王都の兵に刃を向けた。

第二王子を匿い、反逆を企てている。

よって、鎮圧の兵を出すべきだ、と。


こじつけやがって。


「早ければ、十日を過ぎる頃には軍が訪れるわね」


バーデンは、酒場の奥で地図を広げながら言った。


「軍、ねぇ」


俺は椅子に腰かけ、地図を眺める。


王都から北方へ来る道は、いくつもあるように見える。

だが、大きな荷馬車を連れて、鎧を着た兵を動かし、馬糧を運びながら進める道は限られている。


「俺らが、そう作ったんだけどな」


「商人が迷わなくて、荷が途切れなくていい道よねぇ」


だが、それ以外は違う。


北方の林は深く、見晴らしは悪い。

雪が降れば道は消える。

土地勘のない者が脇道へ入れば、湿地か、溝か、古い獣道へ迷い込む。


「王都の軍が来るなら、ここを通る」


俺は地図の南街道を指で叩いた。


「もう手は回してあるわ。あとで手当てを渡すからって」


「早いなぁ」


「あなたが腹を括った顔をした時点で、商人には声をかけたもの」


バーデンは、地図に小さな石を置いていく。


「南街道の宿は、うちの息がかかってるでしょ。馬糧は買い上げ済み。鍛冶屋には、王都軍の馬具修理を後回しにするよう頼んだわ」


「橋は二つ、いつでも落とせるな。ここまで歩かせて疲れさせるぞ」


「案内人にも声をかけておいたわ。まともなのは、誰も受けないはず。受けるのは、金だけ取って迷わせる連中ね」


「……レオン殿下には、玉座に座ってもらう」


バーデンが、静かにこちらを見る。


「そこまでやるの。 恩を売っておくつもり?」


「まぁな。これで北方の中立を確立させたい」


「それに、生かすなら誰にも殺せない場所に置いた方がいいものね」


「ああ。だから、なるべく殺すな。寝かせず、食わせず、休ませるな。鎧を重荷に変えろ」


「了解。正面衝突はしないわ」


王都の軍は、きっと旗を掲げて来るだろう。

鎧を着て、馬に乗り、隊列を組む。


王都の軍にとって、それは正規軍として当然の姿だ。


だが、ここは北方だ。


「さっきの追手で、相手は北方が槍を使うと思い込んだでしょうね」


バーデンが、楽しそうに笑う。


「なら、次は弓だ」


北方の本命は、槍ではない。


白い景色の中で、弓兵は音もなく動く。

雪に埋もれた罠は、踏むまで気づかない。


王都の軍が北方をただの寒い辺境だと思っているなら、雪の怖さを、骨身に染みてもらうまでだ。


それから数日後。


夜明け前、俺は政務室にリシュアンを呼んだ。


「父上。お呼びでしょうか」


「リシュアン、家はお前に任せる」


リシュアンの顔が、わずかに強張った。


「リエネとレオノーラを頼んだ」


リシュアンは黙った。


「宿駅を閉じるな。倉庫を空にするな。そして、商人への支払いを遅らせるな。北方の信用を守れ」


「……承知しました」


「すまんな。だが、次期当主のお前にしか任せられん」


リシュアンは、抱えていた書類を強く握った。


「……はい。お任せください」


「いい返事だ」


俺は息子の肩を叩いた。


「俺の息子だな」


リシュアンは、少しだけ唇を引き結んだ。

泣きそうな顔を、どうにか耐えているようにも見えた。


ああ、戦争は子供まで大人に変えてしまう。

本当に、王都の連中はろくなことをしない。


次に、レオン殿下を呼んだ。


殿下は、すぐに来た。

顔色は相変わらず悪いが、その目には決意があった。


「旦那様。私も参ります」


「なんでだ。待っていろ」


「ですが」


「待て」


レオン殿下は言葉を止めた。


「殿下。あんたは旗です。生きていることが仕事です。今ここで前に出られて、流れ矢にでも当たられたら全部終わる」


「私は、あなた方だけに危険を負わせるわけには」


「それを言うなら、あんたがここに来た時点で、もう俺たちは危険を背負っています」


「……私が、王子の身でありながら、逃げることを望んだばかりに……」


「違う」


俺は、レオン殿下の言葉を遮った。


「あんたに何かあれば、レオノーラが泣くからだ」


殿下は何も言えなくなった。


「生きたいと言ったでしょう」


「……はい」


「なら、生きるのが仕事です」


レオン殿下は、深く頭を下げた。


「……どうか、ご武運を」


そこへ、リエネが静かに入ってきた。


いつも通り、背筋を伸ばし、涼しい顔をしている。

外では男たちが走り回っているというのに。


「こんなことになるとはなぁ」


俺がそう呟くと、リエネは静かに頷いた。


「ええ」


「……なんでそんな落ち着いてんの?」


「領民を信じていますから」


「え……ここは俺では?」


リエネは、ほんの少しだけ笑った。


「もちろん、あなたが築き上げた地ですもの」


俺は言葉に詰まった。


「あなたが拾った人々です。あなたが道を作り、誰も捨てずに役目を与えた。だから、皆が動くのです」


「……買いかぶりすぎだ」


「いいえ」


リエネは首を振った。


「わたくしは、あなたについてきてよかったと思っておりますわ」


俺は、しばらく何も言えなかった。


前世の俺は、何も残せず死んだと思っていた。

ただ働き、疲れて、誰かと家庭を築くこともなく終わった。


けれど今、俺の前には妻がいる。

娘がいる。

息子がいる。

そして、外には北方の者たちがいる。


俺が作ったと言うには、大きすぎるものだ。


そして、守りたいと思うには、十分すぎるものだった。


俺は白い外套を羽織った。


扉のそばに、レオノーラが立っていた。


「お父様……」


「レオノーラ、いい子でいろ……いや、おまえはいつだっていい子だったな」


俺が言うと、レオノーラの目が揺れた。


「一生のお願い、俺達が叶えてやるからな」


「……はい」


リエネが、そっとレオノーラの肩に手を置く。


「お気をつけて」


「ああ」


レオノーラは深く頭を下げた。


「お父様。どうか、ご無事で」


「お父様、頑張っちゃう」


レオノーラが、泣きそうな顔で、ほんの少しだけ笑った。


俺は外へ出た。


「雪か……」


白い景色の中で、弓を持った兵たちが静かに待っている。


バーデンが、いつの間にか俺の隣に立っていた。


「軍は?」


「予定通り、本道を進むはずよ。南街道の見張りから合図が来てる。宿駅の者たちも配置済み。弓兵は森に入ったわ」


鍛冶場では、夜通し蹄鉄を打つ音が響いていた。

宿駅には合図火が灯り、荷馬車は街道の脇に並べられている。


「旦那様」


バルドが、俺に弓を差し出した。


「俺はもう、前に出る歳じゃないんだがな」


「そんなことありませんよ。若い連中に、旦那様の背中を見せてやってください」


俺は笑って、その弓を受け取った。


「久しぶりね。こうして並ぶの」


「そうだな」


片足の者が弓を持ち、片腕の者が罠の縄を引き、老兵が若い者の肩を叩く。


酒場の常連も、宿駅の番人も、鍛冶場の親父も、荷馬車の御者も。

みな、かつて戦場を知っている者たちだった。


俺は弓を握り直した。


「行くぞ。ヴァルグレイヴ軍」


そうして俺たちは、白い闇の中へ踏み出した。

ここまでお読みいただきありがとうございました。


こちらは短編としてはここで一区切りです。

数百年後のヴァルグレイヴ家へつながる、初代のお父ちゃんの始まりのお話でした。


お父ちゃん戦記として続きを書くかどうかは、ブックマークの伸びを見て考えたいと思います。

続きが読みたい方は、ブックマークで残していただけると嬉しいです。

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素晴らしかったです 最高です 続き…シリーズ…連載版 激しく希望します
いやいや、なんで雪深い道もない様な所へ進軍すんの? バカなのw でもって、せめて王都側がギャフンされるまでだけでも続きがよみたいでーす! 若人の為に頑張っちゃうおいちゃん達がステキ⭐︎ 気長にお待ちし…
余命いくばくもない老人です。 もう先がありません。 ろくでもない、つまらない人生でした。 せめてこの続きを読んで「ああ面白かった!」と思って旅立ちたいと願っております。
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