第140話:痩せすぎない節、残しておく雑音 【セト】
ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。
僕は、うまくいったあとほど気分が悪くなる。
失敗した時はまだ単純だ。
どこで間違えたか、何を足しすぎたか、誰が寄せすぎたか、後からでも線が引ける。
けれど一度うまく通ってしまうと、人はすぐそれを `次も使える形` だと思い始める。
しかも最悪なのは、こちらだけじゃない。
向こうだって同じだ。
痩せすぎた午前番。
整いすぎた空欄の報告。
返し井の喉を一度だけ通った、あのぎりぎりの静けさ。
あれが向こうに読まれ始めたらしい、と僕はまだ知らない。
知らないけれど、知らなくても分かることがある。
うますぎる静けさは、次には痕跡になる。
返し井を抜けた先の最初の節は、北影よりずっと乾いていた。
布の影が薄い。
石の冷えがまっすぐだ。
だからこそ、ちょっとした違いが目立つ。
ひとくち分の湯の残り方、靴裏の粉の散り方、立ち止まった息の長さ。
北影では布や音に混じって消えたものが、ここではそのまま細い線になって残る。
嫌な場所だった。
でも、嫌だからこそ見える。
僕は観測石を掌で転がしながら、石の縁と縁の間に残ったわずかなぬくみを拾った。
カイルの左が一度近づいた場所。
ミナが器を寄せかけてやめた位置。
三位一体の少女が、まだ座らないまま膝の向きを変えた浅い擦れ。
どれも薄い。
どれも薄いのに、並べるとよく見える。
「あー、最悪」
思わず声に出た。
「何が?」
と、リノがすぐ拾う。
こういう時だけ耳がいい。
「うまくいきすぎた」
僕が言うと、リノは嫌そうに眉をしかめた。
「それ、ぜんぜん褒め言葉に聞こえないんだけど」
「褒めてない」
僕は観測石を布に押し当てる。
「北影で切ってきたつもりのものが、こっちで綺麗に線になってる」
カイルが少しだけ肩を動かした。
前みたいにすぐ `悪かった` と言わないのは助かる。
あいつが謝り始めると、それだけでまた `何を直すか` の話になってしまう。
レオンは入口側を見たまま、短く訊く。
「追える線か」
「追える」
僕は即答した。
「今はまだ、こっちしか分からない程度の線。でも、向こうに観測と記録をやるやつがいたら、そのうち気づく」
ミナの指先が、器の縁で止まった。
半歩外の侍女の手だ。
止まったまま、余計な音を立てない。
そこは本当にすごいと思う。
思うけど、思った瞬間にまた `それが正解` になるから、口にはしない。
「つまり?」
セリアが壁際から言う。
「足りなかったのは、引き算じゃないの?」
「違う」
僕は首を振った。
「引き算は足りてる。足りてないのは、無駄だ」
その場の空気が少しだけ止まった。
リノが目を丸くする。
ミナは露骨に嫌そうな顔をした。
レオンだけが、ああなるほどな、みたいな顔をするのがまた腹立つ。
「言い方を変える」
僕は苛立ちを飲み込んで続けた。
「痩せすぎると、痩せ方が同じになる。向こうは中身を見なくても、`あ、これ同じ手だ` で追える」
観測石を石床へ軽く当てる。
乾いた小さな音。
「北影の成功を持ち込まないっていうのは、北影みたいにしないだけじゃ足りない」
僕は一人ずつ見た。
「ここでうまくいったことも、次の正解にしない」
リノが口笛を吹きかけてやめる。
「じゃあ、何すんの。下手にやるの?」
「そう」
僕は言った。
「ただし、雑にやるんじゃなくて、わざと下手にする」
自分で言っていて、ひどい理屈だと思う。
でも、いま必要なのはそういうことだった。
綺麗な沈黙はいらない。
綺麗な薄さもいらない。
必要なのは、二度と写し取れない程度の雑音だ。
僕はまずミナの器を指した。
「湯、もう `ちょうどいい残し方` やめて」
ミナが眉を寄せる。
「言い方」
「悪かった。でも本題」
僕は畳みかけた。
「一口ぶん残すとか、石へ少し返すとか、ああいうのが続くと線になる。次からは、残すなら残し方を変える。返すなら返しきらない。返さないなら、持ってるだけで終える」
「……毎回、変えろってこと?」
「変えろ」
ミナは嫌そうに黙った。
でも否定はしない。
この人は今、本当に嫌なことほどちゃんと分かる。
次にカイルの左を見る。
あいつはすでに、自分から寄らない形まで来ている。
けれど来ているからこそ、それもまた見えてしまう。
「カイル」
「ああ」
呼ばれる前から身構えている。
そこも良くない。
良くないが、今日は責める順番じゃない。
「左、近づけるなとは言わない。でも `いつも同じ遅さで間に合う` のは駄目だ」
「……雑にしろってことか」
「違う。間に合わない時がある形を混ぜろ」
カイルの顔がしかめられる。
そりゃそうだ。
守る側にとって、一番飲み込みにくい命令だ。
「全部取るな」
僕はなるべく短く言う。
「石の縁で止まる揺れもあれば、レオン側が拾う揺れもある。お前だけで間に合わせると、それが手順になる」
レオンがそこで小さく頷いた。
「分担じゃなく、偏らせないってことだな」
「そう」
僕は助かった気持ちで返す。
一から十まで説明すると、こっちの頭が先に焼ける。
セリアは布端を指先でいじりながら、ぽつりと言った。
「皺も?」
「皺も」
僕は答える。
「同じ欠けを残すの、もうだめ。同じ欠け方は、次から見本だ」
セリアの顔が一瞬だけ固くなった。
でも、そのすぐ後に薄く笑う。
「面倒くさいわね」
「最初からずっと面倒だよ」
「それはそう」
リノがそこで、わざとらしくあくびをした。
芝居だ。
でも、悪くない。
僕はそちらを見る。
「リノは拍を揃えない」
「それもう私の本職みたいに言われてない?」
「実際そうだろ」
「ひど」
ひどい。
でも必要だ。
「喋るなら、必要な時だけじゃなくて、必要じゃない時にも一回だけ喋れ」
僕は続ける。
「ただし、癖にするな。二回続けるな。笑わせるな。意味を持たせるな」
「注文多っ」
「今さらだろ」
リノは肩を竦めた。
けれど、その目はちゃんと真面目だ。
無駄口を武器にできる人間は、無駄と必要の境目が一番よく分かっている。
最後に、僕は自分の観測石を見た。
これも同じだ。
僕が毎回同じ位置、同じ長さ、同じ深さで見れば、それ自体が支柱になる。
支柱になった瞬間、誰かがそこへ寄る。
寄ったものは記録になる。
「……僕も減らす」
思わず独り言みたいに出た。
「何を?」
と、ミナ。
「見る回数」
僕は観測石を仕舞いながら答える。
「毎回確かめるの、やめる。見るとしても順番を変える。見ない節を混ぜる」
レオンが低く笑った。
「お前がそれ言う日が来るとはな」
「うるさい」
本当にうるさい。
でも、そう言い返せるくらいには、僕も分かっている。
観測したい癖そのものが、いまは一番危ない。
返し井の奥から、かすかな冷気が流れてきた。
空座の渡し場の、そのさらに先。
トビアの言う `最初の節` の方からだ。
誰かが止まったわけじゃない。
むしろ、止まりきらなかったからこその、浅い流れ。
そこへ、また同じように全員で寄ってしまえば、きっと駄目になる。
だから僕らは今、うまくやらない練習をしている。
助け方を下手にするんじゃない。
同じ助け方を二度と残さないための、嫌な練習だ。
「動かす」
僕は言った。
「でも、さっきと同じ順ではやらない」
誰も異論を挟まない。
その沈黙が少しだけ怖い。
従ってくれる時ほど、僕の言葉は形になりやすいからだ。
だから最後に、わざとひとつ崩す。
「あと」
僕は付け足した。
「失敗してるみたいに見えても、今はそれでいい。綺麗な成功だけは駄目だ」
リノがそこで小さく笑った。
「それ、あんたの口から聞くと励ましに聞こえないね」
「励ましてない」
「うん、知ってる」
その軽い返しで、少しだけ空気がずれた。
よかった、と思う。
会話ひとつでずれるなら、まだ間に合う。
すぐに、最初の小さなやり直しが始まった。
ミナは器を差し出さないまま、いつもの半歩外よりさらに半足ぶんだけ位置を外した。
湯気は届く。
でも、正面の線には乗らない。
そのくせ、今度は石へ一滴も返さない。
器の中で揺れたぬるさを、そのまま持って終える。
さっきまでの `ちょうど悪い置き方` とも、もう違う。
カイルは左を残したまま、わざと半拍だけ遅れた。
一度なら前に出ていた位置で出ない。
次に、もう少し遠いと思ったところでだけ間に合う。
見ていて心臓に悪い。
でも、心臓に悪いくらいでちょうどいいのだろう。
あれが毎回ぴたりと合い始めたら、その精度ごと次の手すりになる。
リノはというと、誰も困っていないタイミングで「寒っ」とだけ言って黙った。
意味がない。
励ましでもない。
拍を作るほど長くもない。
そのどうでもよさが、妙にありがたかった。
セリアは布端の皺を一度見て、直しかけて、やめて、代わりに別の端をほんの少しだけ踏んだ。
さっきの欠けを守るんじゃない。
次の欠けにもしない。
その場その場で、閉じない方へ重みを逃がす。
あの人もだいぶ嫌な勘を育ててしまった。
レオンだけは、ほとんど変わらないように見えた。
でも、入口線の足の向きが違う。
誰かが次に同じところへ立とうとしても、一拍迷う程度にだけ、線を崩してある。
ああいうのが一番腹立たしい。
腹立たしいくらい上手い。
僕らは北影を置いてきた。
返し井で支えを返した。
空座の渡し場にも初期値を置かないって決めた。
それでも、次の節でまた `今日の正解` を作るなら、全部台無しだ。
だからここからは、通るたびに少しずつ違わなければならない。
同じように助からない。
同じように座らない。
同じように待たない。
面倒で、神経質で、しかも誰にも褒められない。
最悪の手順だ。
でも、たぶんそれでしか守れない。
観測石越しに世界を眺めると、物事はすぐ線になる。
線になれば、いつか誰かが辿ってくる。
なら、線になる前に、節ごとにずらしてしまうしかない。
僕は布端を踏まない位置を選んで立ち、最初の節の向こうを見ないまま数を数えた。
一。
二。
三。
数え方まで固定すると、また癖になる気がして、四は数えない。
本当に嫌な仕事だと思う。
でも、その嫌さを誰かに押しつけるよりは、自分で引き受ける方がましだ。
僕はまだ子供だし、腹も据わってないし、胃も強くない。
それでも、ここで `面倒だから後でいい` と言った瞬間に、次の節はもう誰かの型になる。
それだけは嫌だった。
「行くよ」
僕は最後にそうだけ言った。
命令にしない程度の強さで。
誰かの開始合図になりきらない程度の硬さで。
それで十分だった。
十分でなければ困る。
今日の正解を置かないまま、次の節へ移る。
第3部第3章の序盤は、たぶんそういう嫌なやり直しから始まるのだ。
帝国暦849年。冬。
セトは、ヴェインたち再観測線がまだ知らぬところで、`返し井` と `空座` のその先に入った今度の危険が `何も残さないこと` ではなく `痩せすぎた痕跡そのものが同じ線になること` だと見抜く。彼はミナの湯、カイルの左、セリアの皺、リノの拍、自分の観測石にいたるまで、`北影で通った正解を持ち込まない` だけでなく `この場所で新しい正解を作らない` ための再設計を始め、`無駄` や `ずれ` や `間に合わない時の余り` をあえて混ぜることで、追う側にとっての線を節ごとに崩し始める。こうして局面は、`ヴェインと特務室が空になった北影の異常さを次の盤面として認識し、後に `空座の列` と呼ぶことになる継ぎ手群を追う理由を得る` 段階から、さらに `セトたち渡し線側もまた、痩せすぎた成功そのものを追跡の目印にしないため、空座のその先で `綺麗に助からない` 新しい通し方を始める` 段階へ進んだのです。
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