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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第139話:痩せすぎた午前番、流れた案件 【ヴェイン】

いつもお読みいただきありがとうございます。感想お待ちしています!

報告が抜ける時は、まだ分かりやすい。


伝令が消えた。

数字が飛んだ。

時刻が合わない。

一つの塔だけ急に沈黙した。

そういう穴は、見つけた瞬間から案件になる。

僕みたいな胃の弱い下っ端でも、「ああ、誰かが何かを隠してるな」と理解できる。


本当に性質が悪いのは、逆だ。


抜けていない。

飛んでいない。

沈黙していない。

むしろ全部が、妙にきれいに揃っている。


そういう朝は、たいていろくでもない。


帝都の軍事塔、その最上層に増設された特務室の仮観測室で、僕は三杯目の薄い薬茶を飲み下した。

効いている気はしない。

胃の痛みは相変わらずだし、羊皮紙の山は減らない。

西方の報告は、北影が空になったはずの今朝に限って、嫌になるほどよく届いていた。


『北二補修継続』

『反射薄』

『異常なし』

『西四杭列、再打』

『北寄り視認価値、低』


一見すれば、何の問題もない。

いや、問題がないどころか、優秀なくらいだ。

巡見、補修、引き継ぎ、全部がほどよく回っている。

記録の語尾も整っている。

数字も抜けていない。


だからこそ、吐き気がした。


「……綺麗すぎる」


僕は羊皮紙を一枚、二枚、三枚と並べた。

聖教会の巡見札、地方補修班の付記、帝国西方の中継塔が拾った雑音めいた現場報。

出どころは違う。

文体も違う。

本来なら、もう少し互いに噛み合わない。

現場の報告というのは、だいたいそういうものだ。


なのに今朝の西方だけは、揃い方が妙だった。

誰も北を見ていない。

だが、その `見ていない` の置き方が、同じ方向へ痩せすぎている。


異常がないから異常なのではない。

異常を `なかったことにした` 匂いとも少し違う。


これはもっと、嫌な形だった。

隠したのではなく、流している。

同じ場所を守るためではなく、同じ場所に視線を止めさせないために。


僕は教会製の観測鏡を覗き込んだ。

盗品だ。

レンズの縁に刻まれた浄光文字が、もう半分磨り減っている。

特務室がこういうものを堂々と使っている時点で、いろいろ終わっている気もするが、いまさらだ。


水盤の上に浮かぶ西方簡図は、今日に限って腹立たしいほど静かだった。

北影のあったはずの地点は、鈍い灰色に曇るだけ。

大きな熱源はない。

異常波形も立たない。

代わりに、その南へ半刻ぶんほどずれたところで、ごく小さな揺れが一つ、消えかけの虫みたいに灯っては痩せる。


さらに少し先でも、同じ。

強くはない。

だから普通なら雑音で捨てる。

だが今日は、その `捨てられる程度の揺れ` ばかりが、細い筋になって続いていた。


「うわあ……嫌だ」


思わず声が出た。

誰もいない観測室でよかった。


これは残滓じゃない。

移動体でも、以前みたいな `中心を抱えた塊` でもない。

もっと痩せている。

一つの節で座り切らず、次へ体重を渡しながら、報告価値ぎりぎりの薄さで繋がっている。


北影を空にしたあと、そのまま姿を消したんじゃない。

北影で成功した形をほどきながら、次の継ぎ手へ流している。


しかも厄介なのは、それを現場の実務が支えていることだった。

ただの逃走なら、もっと荒れる。

伝令が駆ける。

禁止語が増える。

無理な沈黙ができる。

だが今朝の西方には、それがない。


代わりにあるのは、よく回っている補修音と、ちょうどよく薄い申し送りだけだ。

つまり、現場にいる誰かが `うまくいって見えない形` を作れてしまっている。

その時点で、僕の胃には最悪だった。


なぜなら、それは長持ちしないからだ。

長持ちしないものほど、追う側は急に忙しくなる。


僕はもう一度、報告束へ目を落とした。


『午前番一巡、変化なし』

『北寄り追記不要』

『西二板列、音厚し』

『引継簡素化』


音厚し。

その一行で、喉の奥がひやりとした。

現場にいる人間が、視線を止めるために何を使うかなんて、だいたい決まっている。

音、光、手順、善意。

そのどれかを `本当に必要な実務` に混ぜる。

混ぜ方がうまいと、外からはただ真面目な午前番にしか見えない。


「最悪だ……本当に最悪だ」


僕は報告書を抱え、半ば転がるように執務室へ向かった。

走りながら、嫌でも理解が深まる。


北影を守っていたんじゃない。

北影を過去にするために、午前番全体が働いている。

しかもその先では、次の節がもう動いている。

だったら追うべきなのは `あそこに何があったか` じゃない。

`どこへ流れたか` だ。


ゼクス室長は、案の定、僕が息を切らして飛び込む前から地図を広げていた。

本当に腹が立つ。

この人はどうしていつも、部下が胃痛で死にかける半歩前のところで待っていられるのか。


「室長!」

僕は報告書を机に叩きつけた。

「西方案件、隠蔽じゃありません。流してます」


ゼクスは椅子の背にもたれたまま、ゆっくり眉を上げた。

「ほう。ようやく、そこまで来たか」


「そこまで来たか、じゃありませんよ……」

息を整える暇もなく、僕は羊皮紙を広げる。

「見てください。抜けがないんです。むしろ揃いすぎてる。北側の報告価値だけを綺麗に痩せさせながら、西四、西二、外縁補修へ視線を流してる。これ、現場実務が噛んでます」


室長の指先が、報告書の上をゆっくり滑った。

楽しそうではある。

だが前より笑い方が薄い。

盤上が見えてきた時の、この人なりの機嫌の良さだ。


「空欄ではなく、痩身化か」


「そんな上品な言い方で済ませていい話じゃないです」

僕は観測鏡の控え写しを押し出した。

「北影の南へ、ごく小さい揺れが節みたいに続いてる。強い中心熱源じゃない。座り切らずに次へ渡してる。しかも全部、雑音扱いで捨てられるぎりぎりです」


ゼクスはそれを見て、口元だけで笑った。

「なるほど。消したんじゃない。薄くして送ったわけだ」


「はい。たぶん北影は、もう案件の中心じゃありません」

言いながら、自分で背筋が寒くなる。

「中心を空にしたまま、次の継ぎ手へずらしてる。だから今から北影を掘っても、残るのは `うまく回った午前番` だけです」


「それはそれで愉快だな」


「僕は全然愉快じゃありません」


即答すると、室長は喉の奥で笑った。

腹立たしい。


「で?」

と、あの人は促す。

「お前は何を追う」


僕は地図の上、北影の地点から南へ続く薄い点を指でなぞった。

一つ目。

二つ目。

三つ目。

どれも座ではない。

だが、どれも `そこに決まらないための空き` みたいに見える。


「場所じゃありません」

僕は言った。

「場所にすると遅れます。たぶん向こうは、同じ場所に留まらない前提で動いてる」


「なら?」


「継ぎ手です」

喉が少し乾いた。

「空いたまま人を通す節。報告価値ぎりぎりの薄さで繋がる、名前のない座り損ね。そこが連なってる」


室長の目が細くなる。

その顔を見た瞬間、嫌な確信が生まれた。

あ、この人、今ので名前を付けるな、と思った。


「空座の列、か」


やっぱり言った。

僕は机に額を打ちつけたくなった。


「室長」

「仮称だ」

「仮称ほど増えるんですよ、この部屋では」


ゼクスは無視して地図へ赤い待ち針を三本打った。

北影の跡。

最初の薄い揺れ。

その先のさらに痩せた一点。


「いいだろう。案件名を更新しろ」


僕は嫌々ながら筆を取った。

前回つけた `灰燼の揺り籠` は、もう少し手前の話だ。

いま追うべきなのは、もっと痩せたもの。

座らず、留まらず、継ぎながら流れるもの。


「件名」

室長が言う。

「`空座列追尾案件`」


僕は心底嫌そうな顔をしたはずだが、この人は気にしない。


「追尾って」

「追跡より上品だろう」

「そういう問題じゃないんですって」


室長は椅子を立ち、窓辺へ行った。

冬の帝都は晴れている。

西だけが、見えない灰を抱えている気がした。


「いいか、ヴェイン」

背中越しに言う。

「ここから先は、何があるかを当てる必要はない」


「……どこで痩せるか、ですか」


「そうだ。うまくいった場所は捨てられる。次に価値が出るのは、痩せすぎて誰も見ない節だ」


その理屈は分かる。

分かるから嫌だ。

こっちはまた、役に立たなそうな記録と小さすぎる揺れを何十枚も選り分ける羽目になる。

胃に悪いにもほどがある。


けれど、腹を括るしかなかった。

北影は終わった。

終わったはずの午前番が、あまりに綺麗すぎた。

その綺麗さが次の地点を指しているなら、もう追わない理由はない。


僕は新しい台帳を引き寄せ、件名を書き直した。


`空座列追尾案件`


字面が嫌だ。

嫌だが、いまの盤面には妙に合っている。


「ヴェイン」

と、室長が振り返りもせずに言う。

「次から追うのは中心熱源じゃない」


「分かってますよ」

僕はむっとして返す。

「報告価値が低すぎる地点、ですよね」


「半分正解だ」


嫌な言い方だ。

この人は本当に、人の胃痛を育てる才能だけは一級品だと思う。


「低すぎるだけなら、ただの雑音だ」

室長は窓辺から地図を指した。

「見るべきは `痩せ方が似る` 地点だ。補修、反射、異常なし、午前番、引継簡素化。語彙が揃い始めたら、そこは現場で一度誰かの手を通っている」


僕は慌てて羊皮紙の余白へ走り書きした。

補修。

反射。

異常なし。

引継簡素化。

音厚し。


どれも、単独ならくだらない。

くだらないからこそ、連なると臭う。


「宿跡、井戸跡、使われていない祈り場、隊商の仮繋留地」

室長は続ける。

「人が長居するには足りないが、一度だけ重みを渡すにはちょうどいい場所を洗え」


「そんなの、西方にいくつあると思ってるんですか」


「多いほどいい」

あっさり言いやがる。

「向こうも多さに紛れてる」


僕は思わず顔をしかめた。

要するに、また始まるのだ。

役に立たなそうな記録を延々と拾い、薄すぎる共通点だけで線を引き、外したらただの寝不足、当たったらもっと胃が痛くなる仕事が。


「あと」

室長の声が少しだけ低くなる。

「教会の上層回線も深く噛むぞ。現場がうますぎる時は、たいてい上が遅れて不機嫌になる」


その言葉に、背中が冷えた。

地方現場の静かな黙許だけでも面倒なのに、そこへ上層教会や帝国記録網まで混ざり始めたら、盤面は一気に濁る。

濁る前に拾えということだ。

分かる。

分かるが、分かるほど嫌だった。


それでも、僕は筆を止めなかった。

嫌でも書く。

書いた瞬間から案件になり、案件になった瞬間から追わざるを得なくなる。

特務室の仕事なんて、大体そういうものだ。


見つけたいのは、英雄でも聖女でも魔王でもない。

そのどれにも決まりきらないまま、次の空きへ流れていく継ぎ手だ。

特務室がそういうものを追い始める世界は、かなりろくでもない。


でも、ろくでもないからこそ、うちの出番でもある。


僕は薬茶の残りを一気に飲み干し、観測鏡の焦点を次の薄い点へ合わせた。

雑音みたいな揺れ。

報告価値ぎりぎりの空白。

誰かが意図して痩せさせた午前。


嫌な予感というものは、たいてい当たる。

そして今回は、その嫌な予感にようやく名前が付いた。


帝国暦849年。冬。

ヴェインは、`北影` を空にした現場が残した `何もなかった午前番` と `空欄の報告` の痩せすぎ方を読み直し、それが `隠した` のではなく `流した` 痕跡だと見抜く。彼は補修、反射、異常なしといった整いすぎた報告の裏に、視線を外縁へ逃がしながら `返し井` と `空座の渡し場` を通す現場実務が存在すると理解し、さらにその先にも `座り切らない浅さ` が節のように連なっていることを観測上の薄い揺れから掴み始める。こうして局面は、`返し井` から `空座` のその先へ続く最初の節を `見なかったまま通す継ぎ手` として動かし始める` 段階から、さらに `ヴェインと特務室が `空になった北影` と `痩せすぎた午前番` の異常さを次の盤面として認識し、後に `空座の列` と呼ぶことになる継ぎ手群を追う理由を得る` 段階へ進んだのです。

お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!

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