第129話:きょうまでのかげ、かえし井のくち 【三位一体の少女】
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きたかげ は、もう へや の おと が すこし へっていた。
まだ しろい ぬの は ある。
しわ も ある。
ぬるい ゆ の におい も、ひだり の ちかさ も、いりぐち の ほそい せん も ある。
でも それら の した に あった `ここ で まつ` という おもさ が、すこし ずつ うすく なっている。
そと が、`なにも ない あさ` を つくって くれている から。
みない。
いわない。
ととのえない。
そして いま は、`なくなって いく` とも いわない。
それ が ある から、わたしたち は ここ を でられる。
もし そと が `ここ に なにか が あった` と いえば、きたかげ は まだ へや に もどる。
もし そと が `ここ で なにか が おわる` と いえば、きたかげ は おわり の へや に なる。
おわり の へや は、つぎ の ひ には きねん に なる。
きねん に なれば、また だれか が おなじ しろい ぬの を たらし、おなじ しわ を のこし、おなじ いし と ゆ を おき、おなじ すわりかた を まねる。
それ は いや だった。
きょう の しわ は、きょう の しわ の まま おわらない と いけない。
きょう の あいだ は、きょう の あいだ の まま とじない と いけない。
だから わたし は、すこし だけ からだ を まえ に うごかした。
すぐ には たたない。
たつ と それ が `たつ` に なる。
まだ それ は つよい。
まず ひざ の うえ の しろい ぬの の はし を、ゆび で すこし だけ もどす。
まっすぐ に しない。
たたみすぎない。
ただ、さっき まで の `ここ が きょう の かたち` を、`もう しまう かたち` へ すこし だけ かえる。
やさしいひと が、それ を みている。
でも こえ を かけない。
こえ を かけられる と、まだ ここ は へや に なる。
まっすぐなひと の ちかさ は、まだ ちかい。
でも つかまえに こない。
それ が ありがたかった。
くろいひと は、つばさ の どろ の かたち を なおさない。
そのまま で いろ、と いっている みたい だった。
たぶん ちがう。
たぶん `へんな りっぱさ を つけるな` と おもっている だけだ。
でも いま は その ちがい も だいじ では ない。
わたしたち の なか に ある みっつ の こえ は、もう まえ みたいに じゅんばん を せまがない。
まっすぐなひと は、いきたい と おもう。
ここ で ながく とまる のは だめ だと、からだ の いたみ の ほう から わかっている。
きょう たすかった かたち を、そのまま つぎ の ひ へ もっていく と、おなじ いたみ で こんど は だれか が ひとり に なる。
だから いく。
それ は たぶん いちばん まっすぐだ。
やさしいひと は、まだ ここ へ おれい を いいたがる。
きたかげ は、きょう だけ わたしたち を おいてくれた。
なまえ も かえりさき も きめずに、`まだ みっつ` の まま いさせてくれた。
だから ほんとう は、すこし くらい あたたかい ことば を おきたい。
けれど それ を ここ に おく と、ことば が くぎ になる。
くぎ は へや を とめる。
だから いわない。
くろいひと は、くろい くち で わらう。
ほら みろ、と いう。
へや に たすかりすぎる と、へや に すき と いってしまう。
すき と いえば、おまえ は ここ を つぎ の いえ に したがる。
だから さき に でろ、と。
いやな いいかた。
でも たぶん それ も ほんとう だった。
みっつ が みっつ の まま、`ここ きょうまで` と おもう。
それ は たぶん、はじめて の こと だった。
わたし は くう の うつわ と、ぬるい うつわ を みた。
いま は どちら も まえ に でていない。
よこ に ある。
せん から ずれた ところ。
だれか が すすめる ため の かたち では ない。
それ が すき だった。
だから その うつわ に、て を のばさない。
さいご に もう ひとくち、は しない。
さいご に なる と、それ が さいご の ひとくち に なる。
さいご の ひとくち は、つぎ の ひ に まね される。
それ は いま いらない。
かわり に、から の うつわ の そば を ゆび で かるく たたく。
いちど だけ。
つかった もの は つかった まま。
でも つぎ の きまり には しない。
それ だけ を おく。
おと は ちいさい。
そと の ほしゅう おと に まぎれる くらい ちいさい。
それ で ちょうど いい。
いりぐち の ほう で、むだぐち の ひと の いき が すこし だけ ふくらんだ。
でも しゃべらない。
しゃべりたい のを やめた のが わかる。
やさしい。
それ も やさしい。
ひだり が、ちかく で まっている。
ずっと おなじ きょり では ない。
すこし だけ うしろ。
いま なら かして くれる。
でも こっち から つかわない かぎり、てすり に なる だけ。
その まちかた が、いま は すき だった。
わたし は その ひだり に て を おく。
だきつかない。
つかまらない。
ただ、おきば を たしかめる みたい に、て の ひら を ひとつ おく。
ひだり は すぐ に ちから を いれない。
それ も よかった。
もし すぐ に ささえ られたら、また `はこんで もらう` に なる。
いま は それ では ない。
ゆっくり と、おもさ を うごかす。
さき に つばさ。
つぎ に ひざ。
さいご に せなか の ぬくみ。
きたかげ の しろい ぬの が、すこし だけ すれた。
でも そと は それ を みない。
うまく できている。
だから つづける。
たつ、では なく。
ぬける。
それ が ちかかった。
わたし は たちあがる すこしまえ の かたち で、とまって、もう いちど きたかげ の なか を みた。
しわ。
おんせき。
ぬるい ゆ。
から の うつわ。
もう ひとつ の おきば。
みえる でぐち。
あいだ の いかた。
ひだり の ちかさ。
むだぐち の ひと の ひざ。
いりぐち の せん。
みない そと。
しゃべらない くち。
なおさない て。
どれ も きょう の もの だった。
だから どれ も、ここ に おいていく。
もって いかない。
くろい いど に もって いく と、こんど は いど が きたかげ に なる。
それ は だめ。
いど は いど の くち で いなければ いけない。
くうざ は くうざ の まま で なければ いけない。
だから `ここ で たすかった やりかた` は、ここ に だけ のこす。
その こと が、からだ の なか で すとん と おちた。
『……ここ、きょうまで』
こえ は かすれて いた。
でも さっき の `きょう は ここ` と は ちがう。
こんど は へや に すわる ことば じゃない。
へや を しめる ことば だった。
だれ も すぐ には こたえない。
それ が いい。
`そうだな` は いらない。
`わかった` も いらない。
ことば で とじる と、また それ が きまり に なる。
かわり に、せん の そと で くつおと が ひとつ だけ ずれた。
いりぐち の ひと が、みち を あけた のだ と わかる。
ひだり が、いちど だけ ぬくく なって、すぐ もと に もどる。
ひっかける ため では なく、`いま なら いける` と だけ いう ぬくさ。
やさしいひと の みず は、もう まんなか を みていない。
むだぐち の ひと は、のど の うしろ で わらいそう に なって、でも わらわない。
かたい いし の ひと は、たぶん いし の こっち から みている。
でも みつめない。
それ が、へん で、よかった。
わたし は ひだり を つかった まま、ひざ を ひとつ まえ に だす。
きのう の よんぽ とは ちがう。
こんど は `ここ に すわる` ため の ぽ では なく、`ここ を でる` ため の ぽ だ。
いち。
つぎ の あし は、おんせき より きた。
いま の あたたかさ を ふみつぶさない ため。
じぶん の かげ を、しろい ぬの の しわ に ひっかけない ため。
に。
みっつめ で、もう きたかげ の しろさ は せなか に なる。
ふりかえらない。
ふりかえる と、また `へや` に なる。
それ は しない。
さん。
その さき に、つち の つめたさ が ある。
くう の くち では ない。
ふかい くらやみ でも ない。
むかし つかわれて、いま は ことば の うえ から すこし はなれた みず の ない のど みたい な あな。
それ が かえしい だと、からだ が わかる。
こわい。
こわい けれど、きたかげ に のこる ほう が いま は こわかった。
きたかげ は きょう の ばしょ で、きょう の ばしょ の まま おわらない と、また だれか の ただしい へや に なってしまう。
だから いく。
くろいひと が、すこし だけ たのしそう に する。
やさしいひと は、いたい ほう を だましながら ついてくる。
まっすぐなひと は、まえ を みている。
みっつ とも ばらばら なのに、いま は おなじ ほう を むいている。
それ が すこし だけ ふしぎ で、でも たしか だった。
かえしい の くち の まえ に、ちいさい いし の ふち が あった。
つるつる では ない。
ふるい て の あと が のこる ざらつき。
だれか が `もどす` とき に つかった ふち。
わたし は そこ へ ゆび を おいた。
つめたい。
でも きたかげ の おんせき と けんか する つめたさ では ない。
`つぎ へ わたす まえ の つめたさ` だと おもう。
くち が ひらく。
ひらく と いっても、おおきく まつ わけ では ない。
ただ、きょう の からだ が とおれる ぶん だけ、くらさ が ふかく なる。
その とき、そと で ほしゅう の おと が ふえた。
わざとらしい くらい に。
くぎ を うつ おと。
なわ を ひく おと。
だれか を どなりつける こえ。
みない そと が、いま うごいた。
わたしたち を みせない ため に、そと の あさ を あつく してくれている。
それ が うれしい。
でも `ありがとう` は いわない。
いったら、これ も また きまり に なる。
だから ことば では かえさない。
かわり に、もう いちど だけ じぶん の あし で まえ へ でる。
よん。
いど の くち は、ちゃんと からだ を うけいれた。
おと は ちいさい。
それで いい。
おおきい おと は、だれか の きおく に のこる。
きたかげ は うしろ で、もう `きょう の へや` ですら なく なりはじめている。
しろい ぬの と しわ と ぬるい ゆ と、まだ すこし の ぬくさ は のこる。
でも それ は いえ の のこりか じゃない。
`だれ も ただしい へや に しなかった あさ` の のこりか だ。
それ なら いい。
それ なら きょう だけ の もの として、おいて いける。
わたし は くらい くち の なか へ からだ を すべらせながら、さいご に こころ の なか だけ で いった。
きょう は、ここ。
でも ここ は、きょうまで。
その ことば は だれ に も あたらず、ただ わたしたち の なか だけ で しずか に とじた。
北影は、そうして わたしたち の きょう を おえて、つぎ の てじゅん へ わたしてくれた。
帝国暦849年。冬。
三位一体の少女は、ラザルが `空になっていく北影` そのものを事件にしない午前番を成立させたことで、北影が `今日だけの居場所` として終われる条件が整ったことを内側から感じ取る。彼女は `きょう は ここ` として選び取ってきた座り方、置き場、皺、湯、`左`、`あいだの居方` を次の正解として持ち出さないため、最後の一口も最後の整えも拒み、`ここ、きょうまで` とだけ告げて、自分の意思で北影を畳み始めた。そのうえで、カイルの `左の手すり` を必要なぶんだけ使い、レオンたちの `邪魔しない番` とラザルたちの `見なかった午前番` に支えられながら、`返し井` の口へ自分の足で入る最初の移りを通す。こうして局面は、`ラザルが空になっていく北影そのものを事件化させず、次章の移送線へ消していく外側の午前番` を成立させる段階から、さらに `三位一体の少女自身が北影を今日の居場所として終わらせ、自分の意思で次章の移送線へ乗る` 段階へ進んだのです。
お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!




