第128話:何もなかった午前番、空になっていく北影 【ラザル】
ブックマーク・評価いただけると、とても嬉しいです。毎日20時更新!
空になっていく場所を守る、というのは性に合わない。
騎士の仕事はたいてい逆だ。
穴があれば塞ぐ。
抜け道があれば潰す。
人が消えそうなら、せめてどこへ倒れたかくらいは確かめる。
だが今日は、その全部をやってはいけなかった。
北影は守るほど駄目になる。
確かめるほど遅くなる。
うまくいった形を記録するほど、明日の手順になって死ぬ。
まるで信仰の逆側だ、とラザルは思った。
正しいことをしない方が、まだ壊しにくい。
そんな朝を回す羽目になるとは、騎士見習いの頃には夢にも思わなかった。
白布の外縁に立ち、ラザルは尾根下を見た。
西四では、補修班が真面目な顔で杭を打っている。
槌音はよく通る。
その合間に雪払いの擦れ、板片を重ねる乾いた音、継ぎ布を引き直す布鳴りが混じる。
どれも半分は本当の仕事で、半分は本当の仕事に見せるための仕事だ。
こういう時、人は嘘だけを嫌う。
だが、実務に薄く混ぜた嘘はよく通る。
ラザルはそれを嫌というほど知っていた。
「北二の継ぎ、動かすな」
若い兵が振り向く。
まだ声変わりの名残が喉に残っているような顔だ。
「え、でも先ほど風返りが」
「動かすな」
「しかし」
「しかしの先に北を見る言葉があるなら、先にそれを捨てろ」
兵は口をつぐんだ。
言われた意味を全部理解したわけではないだろう。
それでいい。
この場は、綺麗に分かってもらうほど危ない。
ラザルは白布の角度を確かめるふりで、北壁寄りの影を端目に見た。
返し井の口は見えない。
見えていないことが、今の唯一の救いだった。
だが、見えないものほど人は勝手に埋めたがる。
何があるのか。
誰がいるのか。
さっきまであった気配はどこへ行ったのか。
そして最悪なのは、何かが `なくなった` と分かった瞬間だった。
あるものは囲って守る。
なくなったものは、物語で埋める。
ラザルはそれを戦場で覚えた。
遺体が一つ見つからないだけで、兵どもは勝手に帰還譚を作る。
血痕が途中で切れているだけで、奇跡だの呪いだのと言い出す。
だから古参はまず、説明より先に仕事を配る。
穴を掘らせる。
荷を運ばせる。
持ち場を変える。
手を止める暇を与えない。
物語は、暇な口から始まるからだ。
「ラザル殿」
メルが駆けてきた。
息を切らしてはいるが、顔はまだもっている。
いい。
怯えを先に顔へ出すやつは、こういう朝に向かない。
「巡見補佐、もう一度北を上がるそうです」
「何を見たい」
「反射の再計測と……」
メルは一瞬だけ言葉を選んだ。
「北二の `静かさ` を」
ラザルは露骨に嫌な顔をした。
「その言い方をさせるな」
「すみません」
「謝るな。覚えろ。静か、空いた、減った、見えた。そういう言葉を先に口へ乗せるな」
「はい」
「言い換えろ」
メルは唇を引き結び、考える。
えらい。
こういう時に考える癖があるやつは、まだ使える。
「……北二、補修音薄い」
「惜しい」
「北二、継ぎ保ち」
「それだ」
ラザルは頷いた。
「中身を推すな。手元の仕事だけ言え。現場の朝は、作業名で回せ」
メルが深く頷く。
その目つきで分かる。
半分くらいしか納得していない。
それでいい。
完全に納得したら、今度はその納得ごと他人へ教え始める。
「補佐はどこだ」
「西四の杭列、見直してます」
「ならそこで待たせろ。北を見たがる理由を増やすな。西四の図面がまだ汚い、とでも言え」
「汚くないですよ」
「だから効く」
メルは一瞬だけ目を丸くし、それから苦い顔で走っていった。
ラザルは鼻で笑う。
こういう汚れ仕事ばかりがうまくなった。
若い頃の自分が見たら、きっと顔をしかめる。
だが今の現場で要るのは、剣の速さより `嫌な言い換え` の方だった。
白布の向こうで、低い補修音が続く。
西四。
北一。
東三。
全部、わざと同じ重さになるよう散らしてある。
北だけを静かにすると、人は北を聞く。
北だけを忙しくすると、人は北を疑う。
だから全部をそこそこ動かす。
全部が少しだけ面倒な午前番にして、北影だけを特別にしない。
トビアのやり方は気に食わないほど理に適っていた。
あいつは見ないようにしながら、見ている。
だが見たことにはしない。
教会の静修騎士なんて鼻につく肩書きのわりに、現場の汚れをよく分かっていた。
もっとも、その理解がなければ、今朝までここは持っていなかっただろう。
「ラザル殿」
今度は巡見補佐本人だった。
板片を脇に抱え、乾いた目をしている。
さっきより近い。
近いが、まだ北二そのものへ踏み込んではいない。
ぎりぎりのところで止まっている。
あちらも現場を知らぬわけではないのだ。
それが厄介で、ありがたくもある。
「西四の反射再計測、概ね済んだ」
補佐が言う。
「北二は」
「継ぎ保ち」
ラザルは即答した。
「補修音薄め。人は要らん」
「さっきと違うな」
「現場はずっと同じ顔をしない」
「だが、北の音は落ちた」
「西が厚い」
補佐の目が細くなる。
ああ、面倒くさい方へ入ったな、とラザルは思った。
こいつは音を聞いている。
白布の揺れ方も、たぶん見ている。
だから余計に、何も見せてはいけない。
「北二に何がある」
とうとう来た。
ラザルは内心で舌打ちしたが、顔には出さない。
「継ぎだ」
「それだけか」
「それだけだ」
「お前は現場の言葉を痩せさせすぎる」
「太らせたってろくなことにならん」
補佐は返事をしない。
その沈黙で、向こうも腹の中では分かっていると知れる。
分かっているが、持ち帰るための形が欲しいのだ。
書ける理由。
午後に説明できる理由。
上へ出しても自分が怒られない程度に整った理由。
その気持ちは分かる。
だからこそ、やらせない。
「お前は記録を持ち帰りたい」
ラザルはあえて言った。
「なら北二を見るな。見たら言葉が増える。言葉が増えたら、次は手が入る」
「手が入って困るのか」
「今は困る」
「なぜ」
「今は午前だからだ」
補佐がわずかに眉をしかめた。
ふざけているように聞こえるだろう。
だが、こういう答え方の方が通る時がある。
理由を綺麗に言うと、向こうも綺麗に踏み込んでくる。
現場都合と時間都合だけを投げる方が、まだ嫌がってくれる。
「半刻後ならいいのか」
「半刻後でも嫌だ」
「ではいつならいい」
「お前が見ても何の得にもならなくなった頃だ」
補佐の口元がほんの少しだけ歪んだ。
笑いではない。
あきれ半分、理解半分だ。
「嫌な騎士だな」
「よく言われる」
「ヘルマン殿の差し金か」
「現場の癖だ」
「便利な言葉だ」
「便利だから残ってる」
しばらく互いに黙る。
西四では槌音が続いている。
東側では継ぎ布を運ぶ兵がわざとらしく走っている。
誰も北を見ていないふりをして、全員が北の気配だけは感じている。
だからこそ、ここで `あれは何だ` と言葉を置かせたら終わる。
その時、白布の奥で、ごく短く土気のある音がした。
こつ。
古い井の縁へ、小さなものが触れた時みたいな音だった。
返し井だ、とラザルは思った。
思ったが、そのまま潰す。
脳の中でさえ、二度繰り返さない。
補佐の目も、一瞬だけ北壁寄りへ滑る。
まずい。
ラザルはすぐに西へ向かって怒鳴った。
「杭が浅い! 打ち直せ! 三本まとめてだ!」
槌音が跳ねた。
一つ、二つ、三つ。
白い斜面に硬い音が散る。
若い兵が慌てて走り、継ぎ布を踏みそうになって別の兵に怒鳴られる。
良い。
人の耳は、怒声がある方へ寄る。
補佐の視線がそちらへ引かれた隙に、ラザルは白布の下端だけを見た。
さっきより揺れが軽い。
重みが減っている。
中で何かが動いたというより、いたものが `いなくなり始めている` 布の返りだ。
北影は今、部屋からただの影へ戻りかけている。
だから危ない。
人は、部屋より影に意味を見たがる。
「メル!」
「はい!」
「北一の持ち場、二人とも西へ回せ。理由は言うな。布運びだ」
「北一が空きます」
「空いたと呼ぶな」
ラザルは吐き捨てた。
「仕事がない場所に変えるだけだ」
メルは一拍だけ固まり、それから頷いて走った。
仕事がない場所。
それこそが今欲しい状態だった。
守るべき中心でも、確認すべき異常でもなく、ただ誰も用のない白布の陰。
そうなれば勝ちだ。
誰もそこへ物語を置けなくなる。
補佐が低く言う。
「お前たちは、何も起きていない朝を作りたいらしいな」
ラザルは肩を竦めた。
「だいたいの現場はそうだろ」
「だが今朝は、何も起きていないわけではない」
「見たのか」
「……見てはいない」
「なら今は起きてない」
乱暴な理屈だ。
だが、現場の朝など本来その程度でいい。
全部を名付けたがるやつは、だいたい昼から来る。
補佐はそこでようやく、深く息を吐いた。
諦め半分、保留半分の呼気だった。
「午前番一巡」
と、彼は言う。
「それまでは西四の記録だけ取る」
「賢明だ」
「それ以後は」
「その時の現場だ」
補佐は舌打ちこそしなかったが、そんな顔をした。
それで十分だ。
納得ではなく、嫌な保留を持って帰らせる。
今朝の勝ち筋はそこにしかない。
補佐が下がる。
その背中を見送ってから、ラザルはやっと肩の力を抜いた。
だが一息しか許さない。
抜きすぎると、今度は自分が北を見たくなる。
北影の中身を知りたくないわけではなかった。
むしろ知りたい。
どこまで進んだのか。
返し井へ何が落ちたのか。
今あそこに残っているのは誰の気配なのか。
だが知ったら最後、その知った分だけ守り方を変えたくなる。
一枚布を増やしたくなる。
一つ持ち場を戻したくなる。
そういう善意が一番いらないと、今朝だけで何度叩き込まれたことか。
ラザルは自分の掌を見た。
剣ダコの下に、白布の粉がついている。
騎士の手で隠しているのは、いまや傷口でも異端でもなく `空きつつある場所` だった。
ひどい役回りだ。
だが、ひどいからこそ自分向きでもある。
嫌な仕事は、だいたい嫌な顔が似合うやつに落ちてくる。
白布の返りが、また少しだけ軽くなる。
今度はもう、布一枚の下に部屋がある感じではなかった。
風と影と、抜けたあとの手触りだけが残っている。
ラザルは一歩だけ北二へ寄り、そこで止まった。
入らない。
覗かない。
ただ、外から見て `ここはまだ同じ朝だ` と通る角度だけ確かめる。
「継ぎ、半寸だけ上げろ」
兵が戸惑う。
「さっきは下げろと」
「今は上げろ」
「理由を」
「白が厚すぎると、今度は北を疑う」
兵は理解しきれない顔で従った。
それでいい。
理由を飲み込ませる必要はない。
手だけ合えば十分だ。
継ぎ布が半寸だけ上がる。
北影の下端は、さっきまでの `守っている影` ではなく、ただの北壁の癖みたいな揺れに戻った。
よし。
これなら、空いていることにも、抜けたことにも気づきにくい。
ラザルはそこで初めて、北影はもう半分以上終わったのだと悟った。
トビアが言っていた `盲路` は通ったのだ。
誰かが通った。
あるいは、通り始めた。
いずれにせよ、ここはもう `待つ部屋` ではなくなりつつある。
だから次の仕事は、そこを空だと呼ばせないことだった。
「メル」
「はい」
「板蝋持ちが戻ったら、返答は三つだけだ」
「三つ」
「`西四継続`、`北二保ち`、`異常なし`」
「……それだけでいいんですか」
「それだけがいい」
「もし聞かれたら」
「同じことを順番だけ変えて言え」
メルは苦笑しかけて、すぐ真顔へ戻った。
この子ももう分かり始めている。
答えは情報ではなく、形だ。
形が痩せていれば、向こうも太らせにくい。
西の補修音が続く。
午前の白みは、少しずつ重さを変えている。
間に合うかどうかは、まだ分からない。
だが少なくとも今、北影は `守られている部屋` ではなくなった。
その変化に名前を置かせずに済んでいる。
それだけで、十分大きい。
ラザルは尾根下へ向けて、わざと不機嫌そうに顎をしゃくった。
「そこで突っ立ってるなら、縄でも運べ」
若い兵が慌てて動く。
誰も北二を見ない。
見ても、ただ白布と継ぎと影しかない顔をする。
そうだ。
それでいい。
北影はもう、事件ではなく `終わりかけた持ち場` でなければならない。
白布の向こうで何がどう終わったのかを、ここで知る必要はない。
必要なのは、終わったあとに誰も上を向かない朝だけだ。
ラザルは胸の奥で、教会らしさという言葉を思い出しかけて、すぐ捨てた。
そんなものは今朝の役に立たない。
役に立つのは、若い兵に仕事を増やし、補佐に嫌な保留を飲ませ、布の角度を半寸ずらし、空になっていく場所を `空いた` と言わせないことだけだ。
それが出来るなら、信仰でも騎士道でも、名は何でもよかった。
尾根を渡る風が少し変わる。
午前番一巡半の、ちょうど真ん中を過ぎた合図みたいな乾き方だった。
ラザルは北を見ないまま、口の中だけで呟く。
消えるなら、何もなかった顔で消えろ。
見たやつの胸に残るな。
報告書の行間に残るな。
午前番の暇な口に残るな。
ただ次へ行け。
ここを、明日の正解にするな。
そうして彼は、空になっていく北影の前で、最後まで何も起きていない午前番の顔をし続けた。
帝国暦849年。冬。
ラザルは、トビアが通し始めた `返し井` への盲路を外側から守るため、`空になっていく北影` そのものを事件にしない午前番を回し始める。彼は、巡見補佐の `静かさ` への疑いを `継ぎ保ち` `補修音薄め` `異常なし` という痩せた現場語へ潰し、若い兵や見習いたちには `空いた` `見えた` `何かあった` といった言葉を持たせないまま、西四の補修と白布の継ぎ作業へ忙しさを流し続けた。そのうえで、白布の返り方や土気のある小さな音から北影の内側が `返し井` へ移り始めたと察しながらも、それを `見たこと` にせず、継ぎ布の角度と返答の痩せ方で `何も起きていない午前番` を成立させる。こうして局面は、トビアが `見なかったまま返し井へ抜けさせる盲路` を実装し始めた段階から、さらに `ラザルが空になっていく北影そのものを事件化させず、次章の移送線へ消していく外側の午前番` を成立させる段階へ進んだのです。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。ブックマーク・評価もぜひお願いします!




