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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第130話:半歩外の片づけ、置いていく湯気 【ミナ】

ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。

片づけることは、侍女の癖だ。


湯の温度が落ちれば替える。

布が湿れば干す。

皺が寄れば手で伸ばす。

主が立ち上がれば、次に戻る場所が迷わないよう座り先を整える。


良い侍女ほど、それを呼吸みたいにやる。

考える前に手が動く。

主が望むより先に、部屋のほうを主へ合わせる。


だから私は、三位一体の少女が `ここ、きょうまで` と言った瞬間、まっさきに自分の手首を掴みました。


動くな、と。

今ここで一番危ないのは、敵意でも、監査でも、巡見でもなく、私の手だと分かっていたからです。


あの方は、自分の足で `返し井` へ入っていった。

カイルの `左` を必要なぶんだけ使いながら、抱かれず、促されず、名を与えられずに。

その姿を見た時、胸の奥のどこかがひどく痛みました。


本当なら、手を貸したかった。

足元の石を払いたかった。

井の縁が冷たすぎないよう布を一枚かけたかった。

掠れた喉へ、湯をほんの少しだけ勧めたかった。

せめて一言、`お気をつけて` とでも言えたならと思った。


でも、それらは全部、今日の北影を `正しい見送りの部屋` にしてしまう。

見送りの部屋は、次の日には待つ部屋になり、待つ部屋は祈る部屋になり、祈る部屋は祭壇になります。


祭壇にしたいわけではない。

あの方を、また誰かの正しさの真ん中へ置きたいわけではない。


だから私は、掴んだ自分の手首へ爪を立てたまま、動かなかった。


北影の中は、もう `部屋` というより `抜けたあとの形` になりかけていました。

白布の皺は残っている。

温石の気配も、ぬるい湯の名残も、返し場所の石も、もう一つの置き場も、そのままある。

けれど、さっきまでそこにあった `今日の居方` が一歩ぶん先へ移ったせいで、全部の重みが少しずつ変わっている。


この変化が危ない。


きれいに片づければ、ここは `役目を終えた部屋` になる。

何も触らずに感傷へ沈めば、ここは `奇跡の残り香がある場所` になる。

どちらも駄目でした。


侍女として最悪の話です。

整えるのも間違い、残すのも間違い。

だったら何をするのか。


答えはたぶん、前から決まっていました。

半歩外で覚えたことを、最後まで半歩外でやるしかない。

ちょうどよく手を出さない。

だが放り出しもしない。

名も意味も足さずに、ただ `次へ渡る形` にだけ畳む。


私は一度、深く息を吸いました。

北影の空気は、まだほんのりと温石の残り熱を抱えています。

そこへ西四の補修音が薄く重なる。

ラザルたちが外で作っている `何もなかった午前番` の音です。


ずるいほど、ありがたい音でした。

あれがあるから、この部屋の中だけが特別な瞬間にならずに済む。

あれがあるから、私たちは泣かずに仕事ができる。


「ミナ」


レオンが、入口の線の向こうから低く呼びました。

いつも通り短い声です。

けれど、その短さで分かる。

任せる、という声でした。

慰めでも命令でもなく、ここから先はお前の仕事だと渡してくる声。


私は頷きました。

声にはしません。

頷くだけで十分でした。


まず、水差しへ手を伸ばします。

持ち上げる。

でも `次の一口のために運ぶ` 持ち方はしない。

飲ませる器具ではなく、もう終わった世話の一部として持つ。

それから、残っていたぬるい湯を半分だけ土へ落としました。


全部は捨てません。

全部捨てると、ここは `完全に終わった場所` になる。

少し残す。

けれど `まだ勧められる湯` の量にはしない。


中途半端。

侍女としては落第点に近い。

でも今は、その落第こそが必要でした。


空になった器も、そのままは磨かない。

口縁を親指で一度だけ拭い、誰かの唇の痕を `物語` にはさせず、しかし `使用の気配` までは消し切らないところで止める。

磨いたら記念になる。

汚したままなら噂になる。

そのあいだ。

最近の私は、そういうあいだばかり選んでいます。


返し場所の石にも触れました。

そこに手を置く時間は、ほんの一息だけ。

長く触れれば `返した石` になる。

短すぎれば `見落とした石` になる。

だから、私が今日ここで見たものは見たまま、しかし次の作法にはしない長さだけ触れる。


あの方が自分で器を戻した石。

何度も意味になりかけた石。

それを私は、侍女として片づけませんでした。

戻しもしない。

しまいもしない。

ただ、次の人間が `きれいにそこへ揃えたくなる位置` から、指二本ぶんだけ外しておきます。


使われたことは消さない。

けれど、使い方の見本にもさせない。


セリアが残した `ずれ`、トビアが守った `欠け`、レオンが引き直した線、セトが嫌った `次の正解`。

全部がここで繋がっているのだと、今さらながら分かりました。


侍女は、主のために完璧な部屋を作るものだと思っていました。

でも今の私は逆です。

完璧にしないことで、やっと主を次へ出せる。

そんな侍女に変わってしまった。


それを悲しいと思うかと問われれば、少しだけ悲しい。

ですが、誇らしくはありました。


私は入口近くの白布の下端も見ました。

下ろしすぎると、さっきまでの `見なかった盲路` を閉じすぎる。

上げすぎると、もう終わったはずの北影を誰かが覗ける。

だから、ほんの半寸だけ戻す。


これも片づけではなく、消去でもなく、単なる `渡し` です。

北影を北影のまま終わらせるための手付き。


「そこまででいい」


セトが言いました。

顔色の悪い少年のくせに、こういう時だけ他人の手を止めるのがうまい。

私は少しだけ眉を寄せました。


「分かっているわ」

「分かってる顔じゃない」

「あなたにだけは言われたくない」

「僕も言われたくない」


その応酬が、不思議とありがたかった。

いまここで誰かが `ちゃんとしすぎるな` と言える。

それ自体が、この場をまだ場のまま保っているのだと思えたからです。


カイルは返し井のほうを見たまま、右をかばうみたいに肩をずらしていました。

左だけが仕事をしている、あの妙な姿勢。

けれど、彼の役目はもう変わっている。

持ち上げる腕ではなく、必要なら貸す手すり。


「カイル」

と私は呼びました。


名前だけ。

それ以上は足しません。

彼は肩越しに少しだけ振り返る。


「左、戻しすぎないで」

「……分かってる」

「分かっていても言うの。侍女だから」

「今そういうの言うのかよ」

「今しか言えないでしょう」


彼は、ほんの少しだけ笑いかけて、でもやめました。

笑うと、ここが少しやさしくなりすぎる。

その加減が分かるくらいには、私たちはもう長く一緒にいたのでしょう。


返し井の口の向こうからは、大きな音はしません。

小さな石擦れ。

布とも土ともつかない乾いた触れ。

それだけ。


それでいいのだと思います。

大きな音がしないということは、あの方が `移された` のではなく `移っている` ということだから。

私は侍女として、その違いを守りたかった。


だから最後まで、駆け寄りません。

名も呼びません。

湯も持って入りません。


代わりに、北影に残っていた私自身の癖を少しずつ外していきます。


折りたたんでいた予備布を、一枚だけわざと粗くたたみ直す。

きれいに束ねれば `次もここで使う布` になる。

粗く畳めば、ただ今朝そこで触ったもののままで済む。


小さな布巾を、水差しの真下から横へずらす。

真下にあると `ここが侍女の定位置` になる。

横へずらせば、ただの忘れものに近づく。


そして最後に、自分が座っていた半歩外の石へ目を落としました。


ここには、私の気配が残っている。

呼ばなかった喉。

勧めなかった手。

主を主と呼びたかったのに呼ばなかった、みっともない忠誠の跡。


本当は、その石を布で拭ってしまいたかった。

侍女は痕跡を残さないものです。

けれど今日は、拭いませんでした。


拭うと `居なかったこと` になる。

残しすぎると `居た証` になる。

なら、ただそのままにしておく。

今日の午前番にいた侍女が、次の正解にも、次の物語にもならないくらいの濃さで。


私はそこでやっと、自分が泣きそうだったことに気づきました。

泣くわけにはいきません。

泣けば、ここが別れの部屋になる。

ここはそういう部屋ではない。

今日だけ置いて、今日だけ抜けるための影です。


だから代わりに、胸の奥でだけ言います。


よくここまで来られましたね、と。

ここを居場所にしすぎず、でも何もなかったことにもせず、ちゃんと今日だけ使えましたね、と。


それはたぶん、侍女の言葉というより、共犯者の言葉でした。


「ミナ」


今度はレオンの声です。

短い。

でも今度は、渡せ、という意味が混じっていました。

北影を、次へ。


私は頷き、入口の線を一度だけ見ました。

レオンが引いた線。

リノが座った線。

私が半歩外で守った線。

それを今、越えるのではなく、畳む。


片づけすぎないように片づけた北影の中で、もう人の体温はさっきまでのようには留まっていませんでした。

残っているのは、少しのぬるさと、使われたものの位置と、誰も正面を作らなかった朝の手触りだけ。


十分です。

十分でなければ、もう遅い。


私は水差しを持ち直し、その中の残りを一息ぶんだけ確かめました。

持っていく。

でも `北影の湯` としてではなく、ただの今日の残りとして。

名前をつけないまま。

正面を作らないまま。


それから、自分の外套の裾を上げ、返し井のほうへ足を向けました。


振り返りません。

侍女が最後に部屋を振り返ると、それはもう見送りになります。

見送りは、美しいです。

美しいから、残ります。

残るものは、次の作法になります。


今日はそれを、残したくない。


だから私は、北影を見ないまま、その気配だけを背中で受け取りました。

白布の皺。

温石のぬくさ。

置いていった器。

粗く畳んだ布。

半歩外の石。


全部、今日のまま。

今日のまま終わる。


それでよかった。


返し井の口へ近づくと、冷えた土の匂いが強くなります。

暗さはある。

でも、絶望の穴の暗さではない。

通すためにだけ開いた、古い喉の暗さ。


その手前で、私は一度だけ足を止めました。

止めて、呼びたい名を全部、そこで沈める。


お嬢様。

シオン様。

エリス様。

アレン様。


どれを選んでも、今は誰か一人に寄る。

だから選ばない。


私はその代わり、侍女として最後の仕事だけをすることにしました。

声ではなく、歩幅で。


返し井の縁へ近づく足音を、あの方が驚かない速さにする。

必要なら湯を差し出せるが、勧める形にはしない位置へ持つ。

そして、入る前に部屋の空気を一つも後ろから引っぱってこない。


それだけ。

それだけが、今の私に出来る最上でした。


私は静かに、返し井の口へ入っていきました。

北影は、私の後ろでようやく本当に `人の居ない影` へ戻り始める。

でもそれは空虚ではありません。

今日だけ、誰も正解にしなかった朝の残り香です。


その残り香が、誰の祈りにもならず、誰の伝説にもならず、ただ午前番の白い風の中へ薄まっていくことを願いながら、私は暗い口の中で水差しを抱え直しました。


次は `返し井` です。

次はもう、北影の続きではない。

だから私は侍女として、北影をここへ持ち込まない。

でも、主を一人にもさせない。


その両方を抱えたまま、半歩外の私は、ようやく次の影へ足を踏み入れました。


帝国暦849年。冬。

ミナは、三位一体の少女が `ここ、きょうまで` として北影を自分の意思で終わらせた直後、侍女として `北影を片づける` のではなく `北影を部屋にしないまま畳む` 役を引き受ける。彼女は残っていた湯、返し場所の石、予備布、自分の半歩外の石座まで、きれいに整えれば `役目を終えた部屋` に、何も触れなければ `奇跡の残り香` になると見抜き、どちらにも寄せない不完全な畳み方へ組み替えた。そのうえで、主を呼ぶ名を選ばず、最後の世話も `正しい見送り` にしないまま、水差しだけを `今日の残り` として持ち、返し井へ入っていく速度そのものを侍女の仕事として整える。こうして局面は、`三位一体の少女自身が北影を今日の居場所として終わらせ、自分の意思で次章の移送線へ乗る` 段階から、さらに `ミナが北影を部屋にしないまま畳み、侍女としての忠誠を次章の移送線へ半歩外のまま持ち込む` 段階へ進んだのです。

感想・ブクマ・評価、どれも本当に励みになっています。ありがとうございます!

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