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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第123話:隻眼のずらし、あいだを中心にしない番 【レオン】

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人は、正解より先に中心を作る。


正しい寝床があるから集まるんじゃない。

誰かがそこを見て、足先を向けて、次の一言を待つ。

そうやって、まだ名前もついていない場所が、先に `真ん中` になる。


戦場で旗が立つ前の空白もそうだった。

救護舎で、寝台の上のひとりが `重傷者` と書かれる前もそうだ。

誰かが視線を置き、次に誰かが息を止め、三人目が声を潜める。

それだけで、まだ何でもない場所が「ここを守れ」の顔をし始める。


北影の中を見たとき、僕が最初に嫌だと思ったのは、三位一体の少女の顔色じゃなかった。

床の上にできかけていた、足の向きだ。


さっきまでの `今日の座り方` と、セリアが残したもう一つの置き場。

そのあいだへ、あの子は自分で身体を置き始めた。

いい変化だと思う。

少なくとも、誰かに座らされた形じゃない。

だが、いい変化ってやつは大抵、次の面倒を連れてくる。


ミナのつま先が半歩だけ内へ向いている。

差し出しすぎないよう我慢しているくせに、湯を持つ手の重さは `あいだ` に寄る。

カイルの左も、引き際を覚えたとはいえ、貸すべき時の角度がもう少しで決まりそうになっていた。

リノは入口の外でだらしなく座っているが、喋る前の顔が、どうしても中の `そのへん` を向いてしまう。

セトは観測石を握りながら、見ないと言われた分だけ別の理屈で中心を決めたがる。


誰も悪くない。

悪くないから厄介だ。


守るために見ている。

壊さないために間を取っている。

その善意の足し算で、気づけば部屋の全員が `あいだ` の方へ身体を向ける。

そうなった瞬間、あの場所はもう `余白` じゃない。

新しい中心だ。


一度中心ができると、人はそこへ役目を足す。

水はそこへ届くよう置き直される。

布はそこを寒くしないよう引かれる。

言葉はそこへ届く高さで落ちる。

見張りはそこを守る角度へ立つ。

誰も命じていないのに、気がつけば `その位置にいれば助かる` という共同幻想ができあがる。


そして、たいていそのへんから壊れる。


僕は北影の入口に立ったまま、わざと一度、視線を外へやった。

白布の重なりは、まだ持っている。

トビアが残した欠けも、セリアのずらしも、昼前の光に食われきってはいない。

だが外周が無事でも、中で新しい中心が育ってしまえば意味がない。

外から守られた場所ほど、中で決まりやすくなる。

騎士団の仮営でもよくあった。

火を焚けない夜ほど、誰かの息遣いひとつが皆の基準になる。

ああいう夜に必要なのは毛布より先に、向きの悪い寝方だった。


「リノ」


入口布の外で、踊り子が顔を上げる。

「なに、隻眼」


「喋る位置を変えろ」


「あら、また間取り?」


「北へ向けるな。入口の柱へ向けて喋れ」


リノは一瞬だけ眉を寄せ、それからすぐに柱を見た。

こいつは勘がいい。

説明の前に意味を嗅ぐ。


「あたしの声の着地をずらしたいの」


「そうだ。中へ落とすな。入口で一度、外へ跳ねさせろ」


彼女は肩をすくめた。

「へえ。だんだん舞台監督みたいになってきたわね」


「お前の舞台は知らん」

「失礼ね。うるさいけど役には立つ舞台よ」


軽口は軽口のままでいい。

ただ、その落ちる先だけは変えなきゃいけない。

リノの声は部屋をやわらげるが、やわらげる場所がいつも同じだと、それもまた新しい中心になる。


「ミナ」


白百合の侍女は、僕が名を呼んだだけで嫌そうな顔をした。

最近のこいつは、何か言われる前から半分分かっている顔をする。

それでいて、半分は絶対に譲らない。

面倒くさくて助かる。


「湯を持つ位置をもう半寸だけ外せ」

「足りないのでは?」

「足りる。足りるかどうかじゃない。正面を作るな」


ミナは水差しと器、返し場所の石、三位一体の少女の座り方を順に見た。

それから黙って湯の器を持ち直し、今いた場所からほんの少しだけ後ろへ引いた。

ただ後ろじゃない。

入口から見た時に、`あいだ` と真っ直ぐ結ばれない角度へ。


「……侍女ってのは、ほんとうに面倒ね」

と、彼女は小さく言った。


「知ってる」

「いえ、あなたが思っているよりもっとです」


その言い方に、僕は少しだけ口元を緩めた。

たぶんこいつは、正しい給仕をしたい自分自身と戦っている。

湯をちょうどいい温度で、ちょうどいい距離に、ちょうどいい角度で置くこと。

侍女にとっては、それが誇りなんだろう。

だが今は、その `ちょうどいい` こそが部屋を一人ぶんへ寄せる。


「カイル」


運び屋は、壁にもたれたいのを我慢しているみたいな顔でこちらを見た。

右腕の灰は今日は表へ滲みすぎていない。

だがそのぶん、疲労が輪郭になって顔へ出ていた。


「今の `左`、貸しどころは悪くない」

「褒めるなって言うくせに」

「褒めてない。警告だ」


カイルが舌打ちする。

こいつは褒められると固まり、責められると意地になる。

だから、そのどっちでもない顔をしてやる必要がある。


「その位置で待ってると、他の全員がそこを基準に楽をする」

僕は言った。

「お前の左がある場所へ、目も、湯も、声も寄る。だから今日は、受ける位置も動かせ」


「動かしたら、あいつが困るだろ」

「毎回同じ助かり方をさせる方が困る」


返事の代わりに、カイルは眉間を押さえた。

理解はしている顔だった。

したくないだけだ。


「お前は `ここに来れば預けられる` を作るな」

僕は続けた。

「必要なら貸す。だが先回りして待つな。受ける側から合わせにいくな」


カイルは小さく息を吐いた。

「……難癖だろ、それ」

「その難癖で保ってる」


リノが柱に向かってわざとらしく咳払いした。

「はいはい。難癖が正義の部屋でーす」

「お前はまだ喋るな」

「はいよ」


笑いかけた空気が、柱のところで外へ散る。

悪くない。

少なくとも、全員の耳が同じ一点へ集まる感じは少し薄れる。


僕はしゃがみ込み、入口土間の上へもう一本、浅い線を引いた。

前に引いた `一人一役` の線より、今度は内側に寄せる。

帯じゃない。

点と点を繋ぐふうに、あえて歪ませた傷だ。


「セト」


少年は露骨に嫌そうな顔をした。

「今度は何」


「観測石の立ち位置を変えろ」

「は?」

「そこからだと `あいだ` が真ん中になる。柱の影へずれろ。正面を取るな」


セトは反論しかけ、観測石の面を覗き込み、そしてやめた。

こいつは嫌なほど頭がいい。

一度言われれば、どう見え方が変わるかまで分かってしまう。


「……最悪」

「知ってる」

「いや、そうじゃなくて。ほんとに真ん中になりかけてた」


ミナがそちらを見ないまま言う。

「分かっていたなら、もっと早く言ってください」

「そっちも分かってたくせに」

「分かっていても、認めたくないことはあります」


その会話を聞きながら、僕は北影の中をもう一度見た。

三位一体の少女は、あいだの形のまま、まだ崩れていない。

金の目は開いている。

だが、こちらが言葉を重ねるたびに細くなるでもなく、翼が逆立つでもなかった。

たぶん今のところ、部屋はまだ間に合っている。


問題は、ここから先だ。


人は居方を見つけると、それを守る。

守るのは悪いことじゃない。

けれど、守り方が真面目なやつほど、すぐに円になる。

囲いは楽だ。

誰がどこを見るか、誰がどこへ立つか、すぐ決まるから。

でも円は中心を作る。

中心ができれば、出入口は消える。


僕は昔、それで何人も潰れるのを見た。

負傷兵も、捕虜も、英雄候補もだ。

皆の善意の円の真ん中へ置かれた時点で、そいつはもう `そのままでいられる人間` じゃなくなる。

守られる対象、立たせる対象、死なせない対象、名誉を背負わせる対象。

そういうものへ変わる。


だから今日は、円を作らせない。

たとえ歪でも、視線と足と声の流れをずらし続ける。

守るためじゃない。

選べるままにしておくためだ。


「レオン」


ヘルマンだった。

いつのまにか入口のさらに外、白布の向こうで止まっている。

こっちへ寄らない位置を守っているのは、腹が立つが偉い。


「補助司祭が二人、北の杭数を見に上がりたがっている」

「見せるな」

「分かっている」

「なら訊くな」


司祭は少しだけ目を細めた。

「お前は本当に物の言い方が悪いな」

「そっちこそ」


ラザルが白布の外で鼻を鳴らした。

「仲良しごっこは外でやれ」


反射的に、リノが吹き出しかける。

僕はそちらを見る前に言った。


「笑うなら柱へ向けろ」


「はいはい」


今度の笑いは、ちゃんと入口柱で跳ねた。

ああ、こういう細かいことだ。

くだらない。

地味だ。

でも、こういう地味さでしか保てない部屋がある。


ガルドが槍の石突きを一度だけ鳴らした。

合図というほど大げさじゃない。

ただ、外周の空気がずれたのを知らせる鳴らし方だ。

トビアが白布の下三分へ土を擦りつけ、メルがそのさらに東で目線を低く保っているのが気配で分かる。

外もまた、なんとか円を作らずに済ませようとしている。


その時だった。

三位一体の少女が、ほんのわずかに身体を動かした。


今いる `あいだ` から、もうひとつの置き場へ寄るでもなく、前の座り方へ戻るでもない。

ただ、膝の向きを少しずらし、肩の落としどころを変える。

昨日なら同じに見過ごしただろう。

けれど今の僕には、それが `今日の居方` をもう一段、自分の側で調整した動きだと分かった。


誰も飛びつかなかった。

ミナも、器を持ち上げない。

カイルも、左を差し出さない。

リノも、褒めない。

セトも、観測石を動かさない。


それでいい。

それで、ちゃんと通る。


僕はそこでようやく、自分の肩の力を少し抜いた。

まだ昼前だ。

この先も是正だの監査だの、面倒なものはいくらでも来るだろう。

だが少なくとも今この瞬間、北影の中にある `あいだ` は、新しい中心にならずに済んでいる。


たぶん、守るってのはそういうことだ。

前に立つことでも、抱え込むことでも、正解の形を教えることでもない。

誰かが自分の居方を試せるだけの余白を、周りの足癖と視線癖から守ること。

隻眼の元騎士に似合う仕事じゃないが、英雄ごっこよりはよほど役に立つ。


「レオンのおっさん」

と、リノが柱の向こうから小さく言った。

「今の、座り直したの?」


僕は北影を見ず、入口の外を見たまま答えた。

「違う」


「違うの?」


「今日の居方を、まだ決めきらなかっただけだ」


少しの間があって、それからリノが、珍しく静かな声で言った。

「そっか」


その `そっか` も、ちゃんと柱へ落ちた。

悪くない。


僕は土間に引いた歪な線を見下ろした。

ただの傷だ。

夕方までには消えるだろう。

明日には跡形もないかもしれない。

それでよかった。

消える線じゃなきゃ困る。

残りすぎる線は、すぐに道になる。

道は、また正解を作る。


北影の中では、今日だけの座り方と、今日だけのずれと、今日だけのあいだが、まだ誰のものにも決まりきらないまま残っていた。

そのまま昼まで持つなら、上等だ。

それ以上を欲しがらないで済むのが、たぶん今の僕らにいちばん必要な上手さだった。


帝国暦849年。冬。

レオンは、三位一体の少女が作り始めた `あいだの居方` が、そのまま新しい中心や正解として囲われる危険を見抜き、リノの声の落ち先、ミナの湯の正面、カイルの `左` の待ち方、セトの観測位置、入口の相談線まで引き直した。こうして局面は、`器の側でもまた、一つの正解に座り込まず、ふたつのずれのあいだに自分の身体を置いて昼前を渡す` 段階から、さらに `外側の実務線もまた、その `あいだ` を新しい中心にせず、視線・足場・用事の流れそのものをずらしながら、北影を誰の部屋にも決めないまま昼へ渡す` 段階へ進んだのです。

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