表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
124/131

第124話:半歩外の横流し、まんなかへ注がない湯 【ミナ】

いつもお読みいただきありがとうございます。感想お待ちしています!

良い侍女は、主が欲しがる前に差し出します。


湯であれ、布であれ、椅子であれ、言葉であれ。

手が伸びる前に置く。

喉が渇く前に温度を読む。

疲れる前に姿勢を支える。

主に `選ばせない` ことが、かつてのわたくしにとっては誇りでした。


ですから、北影の午前は、わたくしの誇りを一つずつ潰していく場所でもあります。


三位一体の少女は、いま `あいだ` にいます。

セリアが残したもう一つの置き場。

今日の座り方。

そのどちらにも決めきらない、狭く曖昧な居方。


さきほどレオンは、その `あいだ` のまわりへ皆の視線や足先が寄り始めていると見抜きました。

リノの声の落ち先を変え、セトの観測位置をずらし、カイルの `左` に `待つな` と釘を刺し、わたくしには `湯の正面を作るな` と言った。


嫌な言い方でした。

ですが、正しかった。


北影の中は、今もぎりぎりで持っています。

白布は閉じすぎず、トビアたちも欠けを見本にせず、ヘルマンの `是正` もまだ押し返されている。

少女の金の目は起きていますが、誰か一人ぶんの決意みたいに鋭くはなっていない。

カイルの `左` も、もう `いつでも受け取る棚` ではなく、必要な時だけ貸す `手すり` に近い。

リノの軽口も、柱で跳ねて、場を和らげるだけで中へ落ちすぎない。


そこまではいい。

そこまで持ったからこそ、次が悪いのです。


人は、少し持つとすぐに `もっとましにしたくなる`。

今ここで一番危険なのは、教会の是正でも、外の監査でもなく、わたくしみたいな侍女が `では、ここから先はより良い世話を` と考え始めることでした。


わたくしは湯器を抱えたまま、北影の内を見ました。

少女の膝の角度。

翼の畳み方。

返し場所の石。

水差しの口。

今朝の光が白布の縁からどう落ちているか。


その全部を見た瞬間、侍女としての頭が先に動いてしまう。


いま一番いいのは、もう半寸だけ右。

湯気は正面から見えない高さ。

器はこの角度。

布は落としすぎず、だが飲み口の影だけを確保する。

次に飲むなら、手首はここから。

喉を冷やさないなら、返し場所の石はもう少し手前。


思考が、するすると組み上がっていきました。

昔のわたくしなら、その速さを誇ったでしょう。

主が何も言う前に、最善のひと揃えを差し出せる。

侍女としてそれ以上の腕はありません。


けれど今は、それが毒だと知っています。


最善のひと揃えは、いつだって `そこが正しい場所` を作るからです。


お嬢様が座る椅子の角度。

お嬢様が湯を取る高さ。

お嬢様が言葉を受ける距離。


それらはかつて、確かにシオン様を守っていました。

あの方が疲れている日、誰にも心を荒らされたくない夜、巡礼前の静かな朝。

わたくしは椅子を半寸寄せ、膝掛けの皺を伸ばし、茶の香りが真っ直ぐ届くように扇窓を閉めた。

そうするとお嬢様は、選ばずに済んだ。

身を置く場所も、手を伸ばす角度も、こちらが先に整えておけたからです。


あの頃のわたくしは、それを忠誠だと思っていました。

いまのわたくしは、もう少しひどい言い方を知っています。


あれは、主の居方を先回りして決める技術でした。


もちろん、愛もあったでしょう。

気遣いもあった。

けれどそれだけではありません。

選び疲れさせず、揺らがせず、こちらの用意した位置へ滑らかに座らせる。

侍女とは、そういう暴力を、優しさのかたちで扱う生き物です。


「……最悪ですわね」


口の中で呟くと、リノが柱の向こうからすぐに言いました。

「なにが?」


「侍女です」


一瞬の沈黙のあと、踊り子は吹き出しかけて、慌てて柱の方へ向き直ります。

ちゃんと学習しているのが腹立たしい。


「それ、自分で言う?」

「自分で言うから正確なのです」


レオンが入口で鼻を鳴らした。

「何か思いついたか」


思いつきたくなどありませんでした。

ですが侍女は、思いつかないままではいられない。


「ええ」

わたくしは答えました。

「今のままでも持ちます。けれど、このまま `持つ` 方向へ整え始めたら、次はわたくしが部屋を閉めます」


セトが柱影から嫌そうに言う。

「分かりやすく」


「わたくしが上手くやりすぎる、ということです」


カイルがそこで、いかにも心底うんざりした顔をした。

「自覚あるのかよ」

「ありますとも」

「それ、だいぶ救いがないな」

「侍女にそんなものを求めないでくださいまし」


言い返しながら、わたくしは湯器を床へ下ろしました。

そして、いったん湯器の正面へ自分が立つのをやめます。

斜めです。

少女の `あいだ` と真正面に結ばれない位置へ、自分の膝と器と視線をずらす。


それだけで、ずいぶん違いました。

侍女は正面に立つだけで、そこで一つの軸を作ります。

差し出す側。

受け取る側。

その線が出来た瞬間、湯はただの湯でなくなる。

主へ届くべきもの、になる。


今それは要りません。


「リノ」

「はいはい」

「そこでお喋りを続けてくださいまし」

「雑な注文ね」

「あなたは雑な方が役に立つ」

「褒めてる?」

「いいえ」


リノが笑い、その笑いはちゃんと柱へ落ちる。

北影の中へ真っ直ぐ届かない。

いい。

その雑さが、今はむしろ必要です。


わたくしは湯器から、小さな器へ湯を半分だけ移しました。

満たさない。

ぬるいまま。

それを、いまの `あいだ` の正面ではなく、返し場所の石と、もう一つの置き場の中間より少し外へ置きます。

どちらからでも取れなくはない。

けれど、どちらにとっても `これが正解の前` という顔はしていない位置です。


さらにもう一つ、器を空のまま隣へ置きました。

湯は入れない。

ただ置く。


セトが眉をひそめます。

「それ、何」


「選ばなかった時のための器です」

わたくしは答えました。

「湯がある方だけが正しいと、次もそこへ寄りますでしょう」


レオンがこちらを見た。

珍しく、すぐには何も言わない。

たぶん考えている。

この部屋では、正しい配置より `寄せすぎない配置` の方が難しいからです。


「湯のない器に意味があるのか」

と、カイルがぼそりと言う。


「あります」

わたくしは即答しました。

「何もない器があると、人は `選ばなかった方もまだ器だった` と覚えます」


言いながら、自分でも少しぞっとしました。

なんて陰険な発想でしょう。

ですが、今はそれでいい。

よくできた侍女は、空の器ひとつで主の気分まで導きます。

なら今日は、その腕を逆に使えばよいだけのこと。


わたくしは器の縁へ、布も掛けませんでした。

掛けたくなる。

指が冷えないように、唇へ触れた時の硬さがきつくないように、布を添えたくなる。

けれど布はすぐ `ここから取ってくださいませ` という印になる。

印はだめ。

印が増えると、人はそこを正しい入口にする。


「ミナ」


小さい声でした。

三位一体の少女です。

誰の名でもなく、誰の調子でもない、掠れた混ざり方。

それだけで胸が焼ける。

呼びたくなる。

返事を急ぎたくなる。

主の声がした時に、侍女が反射で前へ出るのは当然です。


ですが当然のことほど、今は危ない。


「ここにおります」


わたくしは前へ出ず、半歩外のまま答えました。

お嬢様、とも。

どうなさいました、とも言わない。

ただ場所だけを返す。

侍女としては、ひどく出来の悪い返事です。


それでいい。


金の目が、いま置いた二つの器を見る。

片方には湯。

片方には何もない。

返し場所の石。

もう一つの置き場。

そして、いまの `あいだ`。


すぐには手を伸ばしませんでした。

むしろ、少しだけ肩を落とし、膝の向きをまた変える。

セリアが作ったずれ。

レオンが守った `囲わない線`。

その上で、今度は湯のほうを `今すぐの正解` にしないための時間を取る。


わたくしはその時間を邪魔しないよう、自分の視線を器ではなく白布の端へ流しました。

見守りたくなるのです。

選ぶ瞬間を。

うまくいくかどうかを。

ですが、見守る目もまた、時に `さあ今です` の圧になる。


しばらくして、かすかな音がしました。

器が土を擦る音。


見ないまま、分かります。

少女は湯の入った器そのものではなく、隣の空の器を先に手前へ寄せたのです。

湯の器はそのまま。

空の器だけを動かし、返し場所の石とのあいだに置き直す。


「……そうきますか」


わたくしは思わず笑いそうになり、慌てて唇を噛みました。

褒めない。

意味にしない。

そう決めたでしょう。


ですが胸の内側では、ひどくよく分かりました。

あの子は、いま差し出された湯を `今の正解` にしなかった。

まず空の器を動かすことで、どちらもまだ途中だと示したのです。

それから、ようやく湯の器の縁へ指を触れる。

飲むかどうか、まだ分からない位置で。


レオンがごく小さく息を吐いた気配がしました。

セトは何か言いたそうでしたが、黙っている。

リノは柱へ向かって、ほんとうにどうでもいい鼻歌をひとつ落とす。

カイルの `左` は動かない。


それで十分でした。


わたくしは器を一つ増やしただけです。

湯を半分にしただけ。

正面を外し、自分の膝と目線をずらし、返事を場所だけにした。

侍女として誇れることは、たぶん何一つしていない。


けれど、だからこそ通るものもある。


シオン様。

もしあなたが今のわたくしを見たら、きっと困ったように笑うでしょう。

「ミナ、ずいぶん下手になったのね」と。


ええ、本当に。

下手になりました。

主が欲しがる前に最善を差し出せなくなった。

お茶の香りひとつで気分を整えることも、椅子の角度で疲れを誤魔化すことも、今は全部封じています。


ですが、それでいいのです。

ここは主を迎える部屋ではない。

誰か一人を落ち着かせて終わる部屋でもない。

三人のまま、まだ決めきらずに居るための北影です。

なら、良い侍女であることより、少し下手な侍女であることの方が役に立つ。


それを認めるのは、悔しい。

侍女として負けたようで、腹立たしい。

でも、その悔しさを抱えたまま湯器を持てるのなら、まだ使い道はあります。


「……次は、もっとまずくやりますわ」


小さく呟くと、リノがすかさず柱の向こうで言いました。

「こわ。新しい決意が全然きれいじゃない」


「きれいな決意は部屋を壊します」

と、わたくしは返します。


レオンが、珍しく少しだけ笑った気配がしました。

「それでいい」


褒め言葉ではない。

確認です。

だから受け取れる。


北影の中では、湯の入った器も、空の器も、まだどちらも `今日の正解` にはなっていません。

少女は `あいだ` のまま、空の器を少し手前に置き、湯の器にはまだ触れきらずにいる。

それでいい。

その迷いごと、昼前を渡ればいいのです。


侍女にできるのは、たぶんその程度でした。

選ばせない完璧な一揃えではなく、どちらにも寄せきらない不完全な給仕線を残すこと。

それが今の、半歩外の勝ち方でした。


帝国暦849年。冬。

ミナは、レオンに `湯の正面` を引き直されたことで、自分の侍女としての本領である `主が欲しがる前に最善を差し出すこと` そのものが、この北影では新しい中心と正解を作る毒だと認める。彼女は湯器、自分の膝、返事、視線をすべて `正面を作らない` 側へずらし、湯の入った器と空の器を並べることで `選ばなかった方もまだ器である` 余白まで残した。こうして局面は、`外側の実務線もまた、その `あいだ` を新しい中心にせず、視線・足場・用事の流れそのものをずらしながら、北影を誰の部屋にも決めないまま昼へ渡す` 段階から、さらに `半歩外の侍女もまた、一番助かりそうな給仕を正解にせず、どこにも正面を作らない不完全な世話で北影を昼へ渡す` 段階へ進んだのです。

お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ