表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
114/125

第114話:半歩外の引き算、呼ばない湯守り 【ミナ】

いつもお読みいただきありがとうございます。感想お待ちしています!

侍女というものは、部屋を仕上げる生き物です。


寒ければ温石をもう半歩寄せる。

眩しければ布を一枚増やす。

飲み口が遠ければ器を近づけ、喉が鳴れば何も言われる前に湯を差し替える。

相手が `欲しい` と口にする前に、欲しがる形へ整えてしまう。


良い侍女ほど、その癖が深い。


そして今の北影にとって、その癖はたぶん毒でした。


トビア殿が外で善意の補修を止めてくれたあと、私は湯器を抱えたまま、しばらく動けませんでした。


白布の向こうでは、細い返答がまだ回っています。

`位置そのまま`

`布回してる`

言葉として聞けば痩せているのに、その痩せ方そのものが、いまの部屋を守っていました。


北影の内は静かです。

静かですが、昨夜までの静けさとは違う。

あの時は、少し触れれば壊れる器を前に、誰もが息を詰めていただけでした。

今は違う。

水をひとくち飲み、自分で返し場所へ戻し、誰にも運ばれず四歩で次の影へ移った、そのあとに出来た静けさです。


つまり、何も起きていないのではない。

小さすぎて見落とされそうな変化が、すでにいくつも通ってしまったあとの静けさ。


だから怖い。


人は、少し通るとすぐ次を足したくなるからです。


もうひとくち飲めるように。

もう少し座りやすいように。

もう少し眠りやすいように。

もう少し、私たちの手を信用してもらえるように。


その `もう少し` を積み上げた先で、部屋はあっという間に誰かのものになる。

侍女の手は、そういうふうに出来ています。


私は湯器を抱え直しました。

中は、熱すぎもしないし冷えすぎてもいない。

昨夜より少しだけぬるい。

第105話の朝、私は `暮らしすぎない世話` を選びました。

温石を近づけすぎず、水を渡しすぎず、白百合めいた欠片を遠ざける。


けれど、あの時はまだ `足さない` ことに必死だっただけです。


今はもう少し厄介でした。

足さないだけでは足りない。

足したくなる気持ちそのものを、自分で飼いならさなければならない。


少女は北寄りの影で、岩に肩を預けきらず、預けなさすぎもしない姿勢で座っていました。

黄金の目は半分ほど開いている。

黒い方はまだ深い。

片翼の泥は、畳まれかけた布みたいに背で静かに揺れていました。


カイルは壁際にいる。

左はまだ使える位置にあるが、出しっぱなしにはしていない。

必要になったら貸す。

必要でなければ手すりのままでいる。

あの人にしては、驚くほど我慢強い距離です。


レオンは入口の布を見ているようで、内側の音を聞いている。

リノはさっきから、どうでもいい昔話を二種類くらい混ぜて、誰にも返事を要求しない無駄口を流していました。

セリアは自分で残した皺を、直したい顔のまま直さずにいる。


皆それぞれに、`やらないこと` を引き受けている。


その事実に、胸が少しだけ痛みました。


本当なら一番そういう役に慣れているのは私のはずでした。

主を楽にする手。

部屋を落ち着かせる手。

何が欲しいかを先に読む手。

そういうものは、侍女の誇りです。


けれど今その誇りは、器を `お嬢様` に寄せる最短距離でもある。


私はそのことを、痛いほど知っている。


一度だけ、喉の奥に古い呼び名が浮きました。

お嬢様。

その二文字を出せば、きっと私は楽になります。

この子を誰として見るか、すぐに決められるから。

仕えるべき相手が定まり、自分の役目も定まる。


だから呼びませんでした。

呼ばないだけでは足りないと分かっていたので、私は唇の裏で別の数を噛みます。


ひとつ。

ふたつ。


ただの拍です。

昨夜、触れない侍女になった時と同じ、意味を足さないための細い拍。


私は湯器を持ったまま、少女の正面には回りませんでした。

正面は迎える形になる。

迎える形は、部屋に主を作る。

だから半歩だけ脇へずれ、返し場所の石板と寝床のあいだ、そのどちらにも見えすぎない位置へ膝をつきます。


そこから先は、侍女としての勘を、わざと鈍く使う仕事でした。


器は近づけすぎない。

でも遠すぎても `取らなくてよい理由` になる。

湯気は立てすぎない。

でも冷たくすれば `欲しくなかったもの` になる。

飲み口は少女へ向けない。

けれど返し場所の石と一直線にも置かない。

一直線にすると、手順になるから。


私は石床の上へ、器と湯器のあいだに小さな布切れを一枚だけ噛ませました。

それで器は少しだけ斜めになる。

取りやすい。

けれど `差し出された形` には見えない。


リノが横目でこちらを見ます。

「細かいわねえ」


「侍女ですので」

と答えかけて、私はやめました。


それも、少し重い。

侍女ですので、は正しい。

けれど正しすぎる。

この場でその言葉を丸ごと着ると、私はまた役に溺れる。


だから言い直しました。

「癖です」


リノは一度だけ瞬きをして、それから笑います。

「やな癖」

「ええ」

「でも今は役立つ」

「……たぶん」


自信はありませんでした。

たぶん、でいいのです。

自信満々の世話は、たいてい押しつけになる。


少女の黄金の目が、器ではなく私の指先を見ていました。

持ち方。

置き方。

引き際。

たぶん見ているのは、湯そのものではない。

私が `どこまで来るか` の方だ。


そこが侍女にはきつい。

本来なら、見られたら一歩寄る。

安心させるために寄る。

欲しいものを確かにそこにあると知らせるために寄る。


私は寄りませんでした。


代わりに、器から手を離したあと、指先だけを膝へ戻します。

すぐ取れる位置にも置かない。

もう一度押し出せる位置にも残さない。

ただ、そこに湯があるという事実だけを残す。


長い沈黙がありました。


その間に、外から細い声がまた流れる。

`位置そのまま`

`補修なし`

`反射かわりなし`


トビア殿の声だと分かりました。

きっとあの人も、善意の顔をした補助司祭たちを追い払っているのでしょう。

ありがたいと思う。

同時に、腹も立つ。


どうして私は、外の人間の手まで借りて `お嬢様` を呼ばない部屋を作っているのだろう。

どうして私は、白陽上がりの騎士と教会の静修騎士に助けられながら、侍女として一番やりたいことを我慢しているのだろう。


こんな主従関係、みっともないにもほどがある。


けれど、みっともないからこそ本物だ、とも思ってしまう。

綺麗に取り戻せるなら、こんな泥だらけの場所まで来ていない。

私が仕えていたあの方は、最初から綺麗な救いに収まる人ではなかった。

なら、迎え方だって綺麗である必要はない。


その時、少女の指が動きました。


すぐには器を取らない。

まず、器の脇に噛ませた布切れを爪先で押す。

少しだけ器が戻る。

それから、もう一度こちらを見る。


試している。


私は何もしませんでした。

布を戻さない。

器も押さえない。

ただ、見ているようで見ていない顔を選ぶ。


指がまた動く。

今度は器の縁に触れ、ほんの少しだけ持ち上げた。

昨日の `ひとくち` より遅い。

慎重で、用心深くて、途中でやめるつもりを残した手つきでした。


よいと思いました。

いや、よいと思ってはいけない。

褒めるのはセトが禁じた。

私がここで何かを喜べば、それだけで部屋に意味が増える。


だから私は、喜びのかわりに仕事をしました。

少女が器を口へ運ぶあいだ、返し場所の石板ではなく、その少し横の白布の端だけを見ます。

戻す場所を先に見つめると、それが正解になるから。

飲めるかどうかも、確かめません。

確かめた瞬間に、私はまた `飲ませる側` に戻る。


喉が一度だけ鳴りました。

小さい、本当に小さい音でした。


リノの無駄口が、そこで一拍だけ細くなります。

レオンは布を見たまま、何も言わない。

カイルの左は動かない。

みんな、ちゃんと邪魔をしない。


それが、妙に胸へきました。


私たちはいま、誰か一人の帰還式をしているのではない。

部屋の中で、誰にも決まりきらないまま、ひとつの動作だけを通そうとしている。

そのために、こんなに大勢がそれぞれの我慢を持ち寄っている。


滑稽です。

泥臭くて、遠回りで、神話の欠片もない。

でも私は、そういうものの方を信じます。


少女は器を下ろしました。

返し場所の石へは向かわない。

代わりに、さっき自分で動かした布切れのすぐ手前へ一度置く。

少しだけ迷う。


私は呼吸を止めました。

戻し場所を教えたくなる。

そこではないと、喉まで出かかる。


けれど、その迷いごと渡さなければ意味がない。


少女はもう一度だけ器を持ち上げ、今度は返し場所の石ではなく、その隣の床へそっと置きました。

石に触れすぎず、でも遠すぎない。

昨日の返し方をなぞらず、今日の位置で終える置き方。


私はそこで、ようやく少しだけ息を吐きました。


返し場所は残っている。

でも `返し方` は決まっていない。

北影はまだ、そこまで部屋になっていない。


「熱すぎませんでしたか」


気がつくと、私はそう言っていました。

しまった、と思う。

問いかけは重い。

返事を要求する。


けれど少女はすぐには答えず、黄金の目だけで器と私を見比べ、それから掠れた声でひとことだけ言いました。


『……ちょうど、じゃない』


私は胸の奥で笑いそうになりました。

もちろん笑いません。

ただ、少しだけ救われる。


`ちょうど` ではない。

完璧ではない。

だからまだ、この部屋に居られる。


「そうですか」

私は頭を下げました。

「次も、そのくらい外します」


リノが向こうで肩を震わせる。

レオンは呆れたみたいに鼻を鳴らした。

カイルだけが、目を閉じたまま口元を少し緩めています。


私は器へ手を伸ばしませんでした。

少女がもう一度触るなら、そのあとで片づければいい。

触らないなら、半刻くらいそのままでも構わない。

部屋は、少し散らかっていた方がいい。

侍女としては最悪の結論です。


でも今の私には、その最悪を選べることの方が嬉しかった。


お嬢様、と呼ばない。

代わりに、湯の温度を外し、器の角度を外し、返し方まで決めきらない。

それが今の私に出来る忠誠でした。


半歩外から、決めすぎないように守る。

なんとも不恰好で、情けなくて、けれどたぶん、いちばん裏切らない仕え方です。


帝国暦849年。冬。

ミナは、トビアが `補修せず、布角度のみ保全` の実務線を引いた北影で、侍女として次に必要なのが `何を足すか` ではなく `何をしないか` をさらに選び続けることだと悟る。彼女は `お嬢様` と呼んで器を誰か一人へ寄せたくなる衝動と、良い侍女として部屋を仕上げたくなる癖の両方を抑え、湯を `差し出す形` にせず、返し場所を `正解の終わり方` にしすぎず、問いや褒め言葉すら削ることで、北影を `世話が行き届いた部屋` ではなく `まだ誰の部屋にも決まりきらないまま、少し使って少し終えられる部屋` として保つ側へ一歩深く踏み込んだ。こうして局面は、`その未完さ自体を昼前の現場運用として守り、善意の補修すら外へ逃がしながら、北影を誰の部屋にも決めさせないまま回す` 段階から、さらに `侍女の手つきそのものまで引き算へ変え、暮らしにも忠誠にも完成させすぎないかたちで、北影を昼前の不完全な部屋として保ち続ける` 段階へ進んだのです。

お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ