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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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113/124

第113話:欠けを残す補修、昼前の静修 【トビア】

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静修騎士として覚えさせられる作法のひとつに、手当てのあとは必ず部屋を整えろ、というものがありました。


乱れた寝具は不安を呼ぶ。

濡れた布は冷えを招く。

置きっぱなしの器は怠慢を育てる。

そういう理屈です。


私は長いあいだ、それを疑ったことがありませんでした。

傷んだ者、怯えた者、熱にうなされた者を前にした時、人はまず周囲を整えたくなる。

毛布を引き、器を寄せ、灯りを隠し、出入口を絞る。

綺麗になれば少し落ち着く。

落ち着けば言葉が通る。

言葉が通れば従う。


静修騎士の仕事とは、そういう順番を乱さないことだと教わってきました。


だから北影へ足を向けた時、最初に感じたのは違和感ではなく、反射でした。

直さなければ、という反射。


白布の内へ直接は入らない。

それはもう、この数日で骨に入っています。

だが外縁から見えるだけでも、直したくなる箇所はいくつもあった。


入口の布は皺が深い。

寝床の角は揃っていない。

湯器の下へ噛ませた布切れは歪み、返し場所の石の横には欠けた留め具まで転がっている。

保護を受ける者の臥所としては、あまりに見栄えが悪い。

報告の対象である以前に、世話の行き届かない現場に見える。


朝までの私なら、真っ先にそこを直したはずでした。

風を読んで白布を張り直し、温石を対に置き、石板の周りを空け、皺をなくす。

人が休む場所は、人が休める形にしておくべきだと、本気で信じていたからです。


だが今は、その `正しさ` の方が怖い。


第112話の朝、白陽上がりの少女騎士が、わざと皺を残したのを私は見ていました。

見たと言っても、真正面から覗いたわけではありません。

外縁の布越しに、白の反射が急に鈍ったこと。

温石の片方だけが半歩遠ざかったこと。

返し場所の石板が急に `目立たなくなった` こと。

その変化だけを拾った。

そして少し遅れて、あれが「乱れ」ではなく「手を入れた乱し」だと理解したのです。


不思議なもので、一度そう分かると、部屋の見え方そのものが変わります。


皺は怠慢ではない。

出口だ。

欠けた配置は粗忽ではない。

一つの正しさへ従わせないための逃げ道だ。


なのに、人は昼へ近づくほど直したがる。

朝を越えたなら、次は整備だと考える。

夜を持たせるために乱していたものを、昼の顔で片づけたがる。

そこで壊れる。

たぶん、いま一番危ないのはそこでした。


「トビア殿」


北東外周で板蝋を持っていた若い補助司祭が、私へ小さく頭を下げました。

背後には補助騎士が二人。どちらも新しい布束と温石袋を抱えている。

嫌な取り合わせでした。


「北影内の補修指示はありますか」

と、補助司祭は言う。

「布の皺が深い。寝床もかなり乱れています。温石も片寄っているように見えました」


見えました、か。

その言い方だけで、こちらの胃が重くなる。

見えたものを、そのまま正しさへ繋げようとしている。


私はすぐには答えませんでした。

代わりに白布の外縁を見ます。

昼前の光は、朝より細く、いやらしい。

皺のある布には陰を作るが、まっすぐな布には容赦なく輪郭を与える。

もし今ここで白布を張り直せば、北影の内と外は急にはっきり分かれるだろう。

寝床の四隅を揃えれば、中心が出来る。

温石を対に置けば、熱の意味が生まれる。

返し場所の石板を片づければ、そこは `戻るべき場所` になる。


整えるということは、結局いつも、そこに中心を作るということです。


「ありません」

私は言いました。


補助司祭が目を瞬く。

「しかし」

「補修は外だけだ」

私は続ける。

「内側の乱れには触るな。白布の張りも、この角度のまま保て」


背後の騎士のひとりが、思わず布束を抱え直しました。

気持ちは分かる。

これだけ材料を持って立たされて、何もするなと言われれば、手持ち無沙汰どころではない。

しかも彼らは善意で来ている。

善意は、止められると不満になる。


「理由を伺っても」

補助司祭が慎重に問う。


ここで言葉を間違えると、全部駄目になる。

`あの子には今こういう配慮が必要だ` と言った瞬間に、彼らはその配慮を完成形へ持っていくだろう。

`収容ではない` と言ったところで、そんなものは否定しただけで輪郭が濃くなる。


私は少しだけ考え、それから教会の言葉を借りました。


「補修すると、そこが基準になる」

私は言った。

「今いるのは治療対象でも、収容対象でも、礼拝対象でもない。基準を置くな」


補助司祭は難しい顔をした。

分からないのではない。

半分だけ分かって、残り半分が納得できない顔です。


「だが乱れたままでは」

今度は補助騎士が口を開きました。

若いが、昨夜からの徹夜ではない顔つきでした。

「落ち着きません。こちら側も」


正直でよろしい。

私は少しだけそちらを見ました。


「そうだ」

私は答えます。

「落ち着かないまま保つ」


三人とも黙りました。

無茶を言われたという顔です。

当然でした。

人は普通、部屋が乱れていれば直す。

光が強ければ覆う。

寒ければ寄せる。

その反射を止めろと言うのだから、無理に決まっています。


けれど今の北影は、落ち着かせると逆に壊れる。

この数日で、私はそれを嫌というほど見ました。

祈れば壊れる。

呼べば壊れる。

寄りすぎれば壊れる。

褒めても、回収しても、名を置いても壊れる。

なら、整えすぎても壊れるに決まっている。


「布を下げるな」

私はさらに言いました。

「皺は残せ。北寄りの折れも、そのままでいい。温石は新しいものを置くな。いまの位置を変えるな」


「返し場所の石の周辺は」

と、補助司祭。


ああ、そこを見るか、と私は思った。

やはり同じところへ目が行く。

一番きれいにしたい場所へ。


「そのまま」

私は答える。

「空けるな。片づけるな。見やすくするな」


若い騎士が耐えかねたように言いました。

「ですが、それでは雑然としすぎます」


私はそこで、ようやく半歩だけ彼らに近づきました。

怒鳴る必要はない。

静かに言った方が、こういう手合いにはよく刺さる。


「雑然としているのではない」

私は言いました。

「未完なんだ」


誰も口を挟まない。


「終わった部屋は、次の手順を呼ぶ。収容か、看護か、礼拝か、分類か。何でもいい、終わった形には必ず次が降る」

私は布束を抱える騎士の手元を見た。

「今ここで必要なのは終わった部屋じゃない。まだ何にも決めきらない部屋だ」


自分で言って、少しだけ苦笑したくなりました。

教会の騎士が、部屋は未完であれと説いている。

誰に聞かれても面倒な話です。


その時、白布の内から、布の擦れる音が小さくした。

誰かが大きく動いたわけではない。

ほんの指先ほどの変化。

けれど、それだけで三人の視線が一斉に北へ切れかけた。


私は反射で、補助司祭の持つ布束を指で押さえました。


「上を見るな」


低く言うと、三人ともはっとして視線を落としました。

良い。

まだ間に合う。


「仕事をやる」

私はすぐに続けます。

「北を気にした手を空けるな。西外周の留め具を替えろ。東の杭を半尺埋め直せ。温石は外で温度だけ揃え、余りは尾根下へ回せ。ここに持ち込むな」


役目を渡されると、人は少し落ち着く。

とりわけ若い者ほどそうです。

見たい欲は、仕事で潰すに限る。


補助騎士たちは渋々うなずき、足を散らしました。

補助司祭だけがまだ残る。

この男は面倒だな、と私は思う。

真面目で、理由を理解したがる顔です。


「本当に」

と、彼は小さく言いました。

「このままの方が守れるのですか」


私は少し考えました。

嘘を言っても仕方がない。


「守れる、とは言わない」

私は答えました。

「だが、決めないで済む時間は延びる」


その返答に、彼は少しだけ肩を落としました。

希望がないと思ったのかもしれません。

だが、今の現場に必要なのは希望ではない。

延長だ。

決定の先送り。

誰か一人へ寄り切るまでの時間を、少しでも薄く引き延ばすこと。

朝から昼へ渡る今は、それだけで十分な仕事になります。


背後で、ラザルの声が細く飛びました。

`位置そのまま`


誰かが受ける。

`布回してる`


そこへ私は一語だけ足します。

「補修なし」


ラザルが一瞬こちらを見た気配がした。

意味は通じたでしょう。

外周の返答に、余計な親切を混ぜるなという合図です。


それから私は、あえて北影を見ませんでした。

見たくなかったからではありません。

見れば、直したくなるからです。

皺を伸ばしたくなる。

石板の周りを空けたくなる。

寝床の端を揃えたくなる。

私はたぶん、そういう訓練を受けすぎている。


だが同時に、見なくても分かるようにもなっていた。

白布の下端の揺れ方。

中へ返る音の軽さ。

人が `そこで少し使い、少し終える` 時の気配。

そういうものは、真正面から確かめなくても拾える。


しばらくして、北影の入口側の皺がひとつだけ深くなりました。

誰かが内側から少し触れたのだろう。

それだけで十分です。

直されていない部屋が、まだ部屋として保っている証拠になる。


「トビア殿」

今度はラザルでした。

「昼前の交代表、どう書きます」


私は答える前に一度だけ空を見ました。

白い。嫌になるほど白い。

だからこそ、書式は痩せていなければならない。


「こう書け」

私は言います。

「北影、維持。補修せず。布角度のみ保全」


ラザルが鼻で笑う気配。

「本当に嫌な文だ」

「美文にするな」

「善処します」


それでいい。


私は最後に、北外周の留め具へ自分で手を入れました。

締め直さない。

ただ、緩みすぎていないか確かめ、半回転だけ戻す。

直すのではない。

壊れない程度に、未完を保つ。


それが今の私の仕事なのだと、ようやく腹に落ち始めていました。


静修騎士は、本来なら乱れを鎮める側です。

けれど今日の私は、乱れを守っている。

その乱れがあるからこそ、北影はまだ誰の部屋にもなりきらずに済む。

実に教会らしくない。

実に、今の私らしい。


帝国暦849年。冬。

トビアは、セリアが残した `皺` と `欠け` が単なる乱れではなく、北影を `保護房` や `礼拝所` や `回収対象の保管室` に完成させないための未完の工夫だと見抜きます。彼は昼前に到着した補助司祭たちの `整えて落ち着かせたい` という善意を外周作業へ振り替え、白布、温石、返し場所、寝床に対する `補修` をあえて禁じ、`補修せず、布角度のみ保全` という実務線を引きました。こうして局面は、`整いすぎる正しさ` を退け、北影を `少しだけ乱れていて、少しだけ出口が見える部屋` として保ち始める段階から、さらに `その未完さ自体を昼前の現場運用として守り、善意の補修すら外へ逃がしながら、北影を誰の部屋にも決めさせないまま回す` 段階へ進んだのです。

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