表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
110/120

第110話:空欄の報告、北影を閉じない書式 【ヘルマン】

ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。

奇跡より厄介なのは、暮らしだ。


神託が降りた、異端が吠えた、死人が歩いた。

そういう分かりやすい異常なら、教会はまだ処理しやすい。名を付け、鐘を鳴らし、布告し、焼けばいい。敵か、徴か、聖別の材料か。どの棚へ上げるかを決めるだけで済む。


だが、誰のものとも決まりきらぬまま、水をひとくち飲み、器を自分で戻した。

そういう瑣末な出来事は、却って始末が悪い。


人はそこへ、すぐ暮らしを足す。

寝床を厚くしろ。

器を増やせ。

温石を近づけろ。

祈りをひとつ添えろ。

記録を一行残せ。

様子が良いなら、確認を入れろ。


その `ついで` が、あらゆる破綻の入口になる。


私は北影の外縁に立ち、白布越しの気配を見ないまま、見ていた。


セトが置いた石板の上に、器は確かに戻されている。

真ん中ではない。几帳面すぎも、投げ置きすぎもせぬ、ただ手を離しただけの位置だ。

だからこそまずい。


もしあれが、誰かに飲まされ、誰かに受け取られ、誰かに褒められた結果なら、まだ単純だった。回収できる。あくまで処置の成功であり、処置の延長に留められる。


だが、あれは違う。

北影という空欄の中で、主体の始まりと終わりが一度通ってしまった。

しかも、誰の名でもなく、誰の腕でもなく、誰の祈りでもなく。


そういうものは、上に知られると必ず `意味` を要求される。


何が戻った。

誰が残った。

どの人格が優勢だ。

保護か、確保か、拘束か。

危険度は。

接近可能か。

分類は。


分類。


私はその語を胸中で噛み潰した。

それこそが、いま最も危険な凶器だ。


「執行司祭」


背後から呼ばれ、振り返る。

尾根下の白みに、人馬が二組。朝から止めていた遅参組ではない。西方司教座からの板蝋持ちだ。片方は荷の軽さからして伝令、もう片方は書記助祭だろう。薄い革函を胸に抱え、現場の事情も知らぬ顔でこちらへ登ってくる。


早すぎる。

いや、遅いのだ。現場が長く持ちすぎたせいで、制度の歩幅がようやく追いついた。


「止めろ」

と、私はラザルへ言った。


ラザルは嫌そうな顔もせず、すぐに二人の進路へ回り込む。こういう時のあいつは、反発より先に膝が動く。


「ここより先、持場更新なし」


書記助祭が板蝋を持ち上げる。

二十に届くか届かぬかの顔だ。現場の凍え方を知らぬ、紙と祈祷文の匂いがする。


「司教座より確認命」


「確認済みだ」


「現地書記が不在です」


「今着いたお前が、その不在の一部になれ」


助祭は一瞬言葉を失った。

隣の伝令が鼻で笑いかけたが、ラザルが一歩詰めただけで黙る。


私は板蝋を受け取らず、相手の目だけを見る。


「ここから先に必要なのは、確認ではない。未確認のまま保つことだ」


「しかし報告書式が」


「書式で歩いてきたなら、書式で帰れ」


助祭の喉が上下する。

おそらく理解はしていない。ただ、私が理解させる気もないと察したのだろう。


それでも食い下がる。

若い者は規則が盾になると信じている。


「対象の安定度、種別、視認人数、接近回数、いずれも空欄では戻せません」


そうだろうな、と私は思った。

だからお前たちはここへ寄越された。

空欄を埋めろと命じられたのだ。

現場が空欄を守っているなど、上はまだ知らぬ。


「空欄で戻せ」


「司祭殿」


「埋める欄を変えろ」


私はそこでようやく助祭の持つ板蝋を取った。

蝋面には定型の問答が並んでいる。

対象名。

種別。

段階。

処置。

移送可否。

記録語。


実に美しい。

美しいから、どこまでも壊しやすい。


私は親指で上段の蝋をなぞり、最初の三欄を潰した。

名、種別、段階。

それらを消すと、書記助祭が息を呑む気配がした。


「見ておけ」

と私は言った。

「現場が長く持った時、報告書は詳しくなるんじゃない。狭くなる」


空いた欄へ、私は別の語を書いた。


`位置 維持`

`布 運用`

`反射 管制`

`接近 禁止`

`鐘 不要`


たったそれだけだ。


助祭が顔をしかめる。

「対象が何か、何も分かりません」


「それでいい」


「よくありません。司教座は判断を」


「判断なら現地で済んでいる」


「記録が残りません」


「残すな」


助祭の顔に、初めて薄い怒りが浮いた。

信仰を否定されたのではない。書式を否定されたことへの怒りだ。

その怒りの質を、私は嫌というほど知っている。制度の人間は、世界が分からなくなることより、欄が埋まらないことに耐えられない。


「それでは、後着命が」


「来る」

と私は遮った。

「来るとも。だからこそ、見せないまま間に合わせる」


私は板蝋を閉じ、助祭の胸へ押し返した。


「上へはこう返せ。北面反照の揺れ、継続。布運用継続。視認制限継続。接近価値、現時点で増加なし」


「増加なし、とは」


「そのままの意味だ。増えていない」


嘘ではない。

少なくとも、上が欲しがる形では、何一つ増えていない。

帰還はしていない。英雄も聖女も現れていない。回収可能な異端標本も転がっていない。

ただ、北影の中で、水が飲まれ、器が戻された。


その程度のことを、上へ渡してなるものか。


私は若い助祭から目を外し、ラザルへ言った。


「この二人は尾根下東四へ。板蝋はそこで書き直させろ。文言は三つまでだ。四つ目を書いたら破棄しろ」


「三つ?」


「位置、布、反射。欲張ると増える」


ラザルは口の端だけで笑った。

「欲張ると増える、ね」


「現場の新しい戒律だ」


「教義に載せるか?」


「載せた瞬間に腐る」


ラザルは短く鼻を鳴らし、二人を追い立てて行った。

助祭はまだ何か言いたげだったが、伝令のほうが先に顔色を失っていた。あちらは嗅ぎ取ったのだ。ここで書き間違えれば、自分ごと現場の沈黙へ呑まれると。


人が引くと、白布の向こうから風だけが残る。


私はそこではじめて、少し疲れていることに気づいた。

夜の処置、朝除け、北影への黙許、遅参組の整理。そこへ今度は報告書だ。

祈らぬ夜番を命じた時点で、私はもう十分に教会らしくなかった。だが今や、教会の書式そのものを削っている。


滑稽だ。

異端を囲うために来たはずが、いま守っているのは空欄である。


だが、その滑稽さを笑う気にはなれなかった。


北影の中で起きていることを、一度でも `分かった` 形にした瞬間、あの部屋は死ぬ。

ミナの半歩外は `侍女の帰還` になり、カイルの左は `抱擁` になり、リノの軽口は `応答の兆候` になり、レオンの間取りは `保護体制` になり、セトの返し場所は `回復確認の試験` になる。


何もかも、言い換えられる。

言い換えられた途端、それはもうあの場のものではなく、上のものになる。


それだけはさせられなかった。


私は白布の隙を見た。

見た、と自分で言うのも癪だが、輪郭だけは分かる。


器はまだ石板の上にある。

触れられていない。

褒められていない。

片づけられていない。


だから、まだ壊れていない。


この `まだ` を何枚先まで延ばせるか。

それが今の私の仕事だった。


遠くで鐘が鳴る。

西方司教座本営の定時鐘だ。ここへ届く頃には、ただの硬い音に痩せている。

あの音はいつも、世界が一つの書式で回っていると信じさせる。


だが、この尾根では違う。

ここでは音も、布も、光も、言葉も、削って削って、ようやく一つの朝を持たせている。


私は白布の留め具をひとつ外し、北側の廊下を半尺だけ細くした。

細くしすぎない。閉じない。ただ、次に登ってくる視線が最初にぶつかる角度をずらすだけだ。


閉じれば疑われる。

開けば見つかる。

だから、少しだけ曲げる。


最近の我々は、そんなことばかり上手くなった。


「執行司祭」


今度はメルだった。白布の内に入らぬ位置から、小さく頭を下げる。


「東三、交代要員が二。どちらも北を見たがってます」


「見たい理由は」


「ひとつは武勇心。ひとつは、さっきの板蝋持ちが何か見たと思ってる顔でした」


「なら両方とも東へ回せ。見たがる者は、まず眩ませろ」


メルは一瞬だけ迷い、それから頷いた。

あの若さで、最近はよく踏みとどまる。以前なら、見たがる者に自分もつられていただろうに。


人は変わる。

変わるから厄介だ。

だが、変わるから、まだ持つこともある。


私はもう一度、板蝋の控えを見た。


位置。

布。

反射。


それだけで返す。

それだけで十分だ。

十分でないと言い出す者から、北影は遠ざける。


報告とは本来、出来事を上へ渡すためのものだ。

だが今この場で必要なのは、出来事を渡さず、場だけを持たせるための報告だった。


実に教会らしくない。

実に、いまの私らしい。


帝国暦849年。冬。

ヘルマンは、三位一体の少女が `返し場所` の石板へ自分で器を戻した直後こそ、制度と書式が北影へ最も近づく瞬間だと見抜きます。彼は西方司教座から到着した板蝋持ちを尾根下で止め、`名` `種別` `段階` を報告書から潰し、`位置` `布` `反射` だけを残す `空欄の報告` へ書式そのものを狭めました。こうして局面は、`北影が小さな使用を自分で始め、自分で終えて返せる部屋` へ進んだ段階から、さらに `その静かな前進を制度側の書式からも隠し通し、北影を閉じないまま午前へ渡す` 段階へ進んだのです。

感想・ブクマ・評価、どれも本当に励みになっています。ありがとうございます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ