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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第111話:空欄の返答、午前番の癖 【ラザル】

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人間ってのは、見たものより、見たことにしたものの方をよく喋る。


実際に剣を交えたかどうかより、あの時こう見えた、あの顔はこうだった、俺だけは分かった、そっちの方がよほど早く広がる。

教会の兵も同じだ。

異端を刺し違えた話は後から盛られるし、奇跡を見た話はその場で育つ。

しかも厄介なことに、育てている本人には悪気がない。

正しさだと思っている。

自分の見たものを、上に分かりやすく渡してやるのが忠義だと信じている。


だから、ヘルマンが `空欄の報告` なんてふざけたものを出した時、俺は半分むかつき、半分ぞっとした。


むかつくのは、こっちは寒い尾根で靴底を凍らせながら白布を回してるのに、あいつは上の板蝋を削るだけで同じ仕事をした気になっているところだ。

ぞっとするのは、その削り方が正しいと、もう分かってしまったからだ。


報告書だけ細くしても足りない。

現場の口も細くしなきゃいけない。

口を細くしても足りない。

持場の癖そのものを、`見ない` 側へ寄せなきゃいけない。


結局、最後に面倒を見るのはいつだって現場だ。


午前の光が、尾根の上からじわじわ押してきていた。

白布の縁に当たる光が、朝より少しだけ重い。

北影はまだ持っている。だが、持っているからこそ危ない。

人間は、ひとつ持つと次も持つ気になる。

次も持つ気になると、途端に油断して覗く。


俺は東三の杭に片足を掛け、交代に上がってきた若いのを睨んだ。


「答え方を言え」


若い騎士が面食らう。

まだ頬の線が柔らかい。夜番の間に三度は北を見たがった顔だ。


「は?」


「だから答え方だよ。尾根下で何を聞かれても、何て返す」


「……位置、布、反射」


「それは板蝋だ。口でどう言う」


騎士は口ごもる。

隣の助祭見習いが小さく息を吸ったので、そちらへ先に目を飛ばす。

吸い込み方が長い。こういうのは余計な説明を足す。


「お前は」


「き、北面の布運用、継続」


「長い」


俺は即座に切った。


「長い言葉は、それだけで覗きだ。自分の頭の中を見せたがるな」


二人とも嫌そうな顔をした。

その顔が出るうちは、まだ持つ。分かったつもりになっていない証拠だ。


「覚えろ。聞かれたら三つだ。`位置そのまま`、`布回してる`、`反射あり`。それ以上は言うな」


「ですが」

と、見習いが言いかける。

「反射って何の」


「空のだ」


「空……」


「そうだよ。空だ。布だ。雪だ。白みだ。何でもいい。とにかく中身へ寄るな」


俺は白布の北縁を見た。

見ると言っても、布そのものだ。中じゃない。

角度がもう半分違う。あと一刻もすれば、朝の反り返りが北影の足元へ滑り込む。

ヘルマンが半尺だけ廊下を曲げたのは正しかったが、あれで終わりじゃない。

白いものは、放っておくと勝手に正面を作る。

正面ができると、人はそこを覗きたくなる。


「メル!」


東口寄りにいた助祭が、すぐに振り向いた。

あいつは前よりマシだ。まだ若いが、最近は `止まる` のを覚えた。


「北一の継ぎ布、もう一枚持ってこい。縁だけ足す」


「内へ入れますか」


「入れるな。外から引け」


「杭が足りません」


「足りないなら槍を杭にしろ」


白陽上がりなら怒りそうな命令だが、教会の槍なんてこういう時こそ使ってなんぼだ。

飾りにしてるから融通が利かなくなる。


メルが走る。

若い騎士も反射でついて行きかけたので、俺は肩を掴んで止めた。


「お前は残れ。走りたい時ほど、その場に立て」


「……はい」


返事だけはいい。

だが目が北を向く。

その癖が一番危ない。


「何が気になる」

と、俺は聞いた。


騎士は迷った。

迷った末に、正直に言った。


「本当に……本当に何も決まっていないのですか」


いい問いだった。

夜のうちなら、俺は鼻で笑って終わらせただろう。

だが今は少しだけ腹に落ちる。

こいつらは怯えているのだ。

未確定のまま持たせるのは、結局のところ、全員に我慢を強いる。

剣も祈りも書式も、使いどころを先延ばしにするのだから。


「決めたら壊れる」

俺は言った。

「だから今は、決まってない方を守ってる」


騎士が眉を寄せる。

やっぱり分からないという顔だ。

そりゃそうだ。俺だって、数日前にそんなことを言われたら殴っていた。


「守るってのは」

俺は少し考えてから続けた。

「見たものを全部 `分かった` に変えないことだ。お前らはすぐやるからな」


「自分たちは、そんな」


「やるよ。俺もやる」


自分で言って、少し苦かった。


昨夜だってそうだ。

金の目が開いた瞬間、胸の奥でまず走ったのは恐れだったが、その次に来たのは理解したい欲だった。

誰だ。

何が起きた。

何を先に囲う。

そこまで一気に伸びた。

伸びたからこそ、ヘルマンに押し戻された。

腹は立ったが、あれがなければ俺も何かを決めていた。


嫌な話だ。

俺は現場の実務者でいたかった。もっと単純に、線を引いて、槍を立てて、余計な奴を止める役でいたかった。

だが今やっているのは、他人だけじゃなく、自分の中の `分かったつもり` を止める番だ。

こんなもん、騎士の仕事じゃない。

けれど現場に落ちてきた以上、やるしかない。


メルが戻ってきた。

白布の継ぎと、短槍二本。

俺は若い騎士と見習いを使って、それを北一と北二の間へ渡した。

布を張る時も、中を見るなと何度も言う。

視線が滑るなら、足元だけ見ろ。

手元だけ見ろ。

結び目だけ見ろ。

そうすると人間、不思議なもので、そのうち本当に見なくなる。

いや、正確には、見たい気持ちが別の仕事へ押し込まれる。

それでいい。

見たがりの手には、とにかく仕事を持たせるに限る。


継ぎ布を引いたあと、北影の輪郭は少しだけ鈍った。

鈍った、が正解だ。

濃くするんじゃない。

はっきりさせない。

それが今の最善だ。


「ラザル殿」

メルが小声で言う。

「尾根下東四、板蝋持ちの片方が、もう一度上へ文言を足したがっています」


「何を」


「`対象挙動あり` を」


俺は舌打ちした。

案の定だ。

見ていないくせに、何か見た形へ戻したがる。

制度の人間だけの病気じゃない。現場も、成果が欲しくなると同じことをする。


「板蝋を持ってこい」


メルがすぐ下から受け取ってくる。

蝋面には、細い字で `対象挙動あり` と増えていた。

対象。

挙動。

あり。

三つとも駄目だ。

対象で中身を作り、挙動で意味を足し、ありで成果へ変える。

美しいくらい最悪だ。


俺は短剣の背でその一行を削り、代わりに一語だけ刻んだ。


`布ずれ`


見習いが目を丸くする。

「それでは、嘘に」


「嘘じゃない」

俺は布の縁を顎でしゃくった。

「今まさにずれてる」


「ですが」


「ですがは二度もいらん」


俺は板蝋を返した。


「中で何があったかをお前が言うな。外で何を回したかだけ書け」


見習いは不満そうだった。

だが、もう言い返してこない。

少しは分かったのだろう。いや、分かったというより、どこまでなら殴られずに済むか覚えただけかもしれない。

それでも十分だった。

現場の規律なんて、最初はその程度から始まる。


午前の光がさらに寄る。

白布の向こうは静かだ。

静かすぎて、かえって人を不安にさせる静けさだった。

だが今は、その不安すら仕事へ変えるしかない。


「交代線を半刻ずらす」

と、俺は言った。

「北を見る奴は先に東へ。東で目を焼いてから戻せ」


若い騎士が思わず吹き出しかけ、慌てて口を押さえる。

少しだけ空気が緩んだ。

その程度でいい。

重くしすぎると、また誰かが意味を探し出す。


俺は槍の石突きを雪へ突き込み、白布の角度をもう一度見た。

いや、見たふりをした。

その向こうに何があるかを、今の俺は知りすぎない方がいい。

知れば守れることもあるが、知ったせいで余計な言葉が生えることもある。

そのへんが、最近やっと腹に落ちてきた。


教会はずっと、世界を言葉で囲ってきた。

今の俺たちは、その逆をやっている。

囲うために、言葉を減らす。

守るために、見ない。

報せるために、空欄を残す。


本当に胸くその悪い仕事だ。

だが、北影の午前番ってのは、たぶんそういうものなのだろう。


一人の騎士が、尾根下へ降りる前に俺へ小さく訊いた。


「ラザル殿。もし後から、本当に何があったのか問われたら」


俺は少しだけ考えた。

それから、なるべく嫌な顔のまま答えた。


「何もなかった、で通せ」


「何も」


「ああ。布を回し、位置を保ち、反射を逃がした。それだけだ」


騎士はまだ納得していない顔だった。

だが、その顔のまま頭を下げて去っていった。

納得しないまま従う。現場には、そういう忠義もある。


俺は最後に一度だけ北影の外縁を見た。

白布の角は保たれている。

継ぎの縄も軋んでいない。

誰かの声が、中へ意味を足そうとしている気配もない。


十分だ。

午前の番としては、上出来すぎる。


もちろん、これで終わるわけじゃない。

昼に寄れば影はまた痩せるし、後着はまだ増えるし、上は必ずもう一度詳しい報告を求めてくる。

だが少なくとも今、北影は `見られていない` だけでなく、`喋られていない` ところまで来た。

それは昨夜より一段深い。


ヘルマンの `空欄の報告` は、板蝋の上で終わる話じゃなかった。

口移しにされるたび太る噂と、見た気になりたがる兵の癖と、仕事を成果へ変えたがる現場の悪癖まで、こっちで締め直して初めて使える。

面倒くさいが、ようやくそこまで分かってきた。


なら、次もやるしかない。

嫌々でも、腹を立てながらでも、見ない番を回す。


帝国暦849年。冬。

ラザルは、ヘルマンの `空欄の報告` をただの書式変更で終わらせず、現場の口と持場の癖そのものへ落とし込みました。彼は `位置そのまま` `布回してる` `反射あり` という細い返答だけを通し、若い兵や見習いたちの `見たい` `分かりたい` `成果にしたい` という衝動を白布張りや交代運用へ押し込みながら、北影を `見られていない` だけでなく `喋られていない` 場として午前番へ渡し始めます。こうして局面は、`その静かな前進を制度側の書式からも隠し通し、北影を閉じないまま午前へ渡す` 段階から、さらに `現場の口と癖まで空欄へ揃え、北影を午前番として回し始める` 段階へ進んだのです。

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