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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第109話:褒めない手順、返し場所の石 【セト】

いつもお読みいただきありがとうございます。感想お待ちしています!

人が死にかけている時より、少しだけ持ち直した直後のほうが、よほど壊れやすい。


僕はそういう場面を、嫌というほど見てきた。


血が止まらない、息が浅い、術式が散る、そういう分かりやすくまずい局面では、案外みんな余計なことをしない。やるべきことが狭いからだ。切る、押さえる、運ぶ、焼く。順番を間違えればすぐ死ぬから、誰も自分の優しさなんか差し込む余裕がない。


ところが、一度でも `持った` となると駄目だ。


助かったかもしれない。

もう少し楽にできるかもしれない。

今なら聞けるかもしれない。

今なら触れてもいいかもしれない。


そういう `かもしれない` が、いちばん人を壊す。


北影の空気は、いままさにその縁にいた。


三位一体の少女は、自分で水を取って、ひとくち飲んだ。

たったそれだけだ。

だが、たったそれだけのことが、この数日の全部を一歩先へ押したのも事実だった。


だからこそ、次に壊れるなら、ここだ。


僕は白布の影の外れにしゃがみ込み、観測石ではなく、自分の目で部屋の癖を見ていた。


ミナは半歩外にいる。

きれいに外にいるんじゃない。寄りたいくせに、寄らない位置で止まっている。ひとくち飲んだあとから、あいつの指は何度も水差しの取っ手を見ていた。補充したいんだろう。口元まで持っていきたいんだろう。できれば、飲めたことを褒めたいんだろう。


カイルは左を出しすぎないようにしている。

それでも、出していないわけじゃない。あの馬鹿は、役に立ってしまった時ほど、じっとしているのが下手になる。今も、何もしない顔をしながら、肩と肘だけで `次に寄られたら受ける` 準備をしている。


レオンは入口側の線を見ている。

中を見ているふりで、実際には外の揺れを切っている。あいつは助かった後に皆が足したくなる正しさを嫌う。たぶんこの部屋の中で、いちばん `うまくいった後の気持ち悪さ` を知っている。


リノは、さっきからどうでもいい靴音の真似をしていた。

一歩、二歩、止まる。くるり、と回る。何でもない拍だ。意味を持たせないための雑さ。けれど、さっき少女が水を飲んだ瞬間だけ、その拍がほんの少しだけ整いかけた。


嬉しかったんだろう。

それは分かる。

でも、嬉しいは危ない。


白布の向こうは、相変わらず教会の連中が `見ていないふりをしている`。

あそこも壊れやすい。ひとつ成果が出ると、すぐ記録したがる。分類したがる。後着の命令に説明できる形へ丸めたがる。

ヘルマンとラザルが今それを押さえ込んでいるのも分かる。あいつらもあいつらで、ぎりぎりの無茶を続けていた。


要するに全員、よくやりすぎていた。


それがいちばん嫌だった。


うまく回り始めた手順というのは、すぐに信仰になる。

そして信仰になった手順は、たいてい対象を置き去りにする。


僕はそれをよく知っている。


昔、熱が下がらなかった時、師匠の小屋で苦い薬を何度も飲まされたことがあった。

一口飲めたら褒められる。

吐かなければ偉いと言われる。

次も同じように飲めと言われる。

そのうち、薬を飲むこと自体より、`前回と同じようにうまくやること` のほうが重くなった。

飲むたびに見られるのが嫌になった。

喉を通る苦さより、期待されることのほうがまずかった。


あの時から、僕は `成功した処置` という言葉が嫌いだ。

成功した瞬間から、処置は処置じゃなく、再現されるべき正しさになる。

そして正しさは、たいてい対象の都合を聞かない。


今の北影で、それをやるわけにはいかなかった。


「リノ」


僕が呼ぶと、白布の端で膝を立てていた踊り子が、わざとらしく目だけで振り向いた。


「なに、先生。あたし、なにもしてないけど」


「その顔で `よかった` を言うな」


「言ってないじゃん」


「言う寸前の顔をしてる」


リノは口を尖らせ、それからくす、と笑った。


「やだなあ。顔まで管理すんの」


「顔は無理でも、口は止める」


「はいはい。止めるよ。止めるけどさ」


声だけ少し落ちる。


「今の、ちょっと嬉しかったのは本当」


「知ってる。だから止める」


リノは少しだけ肩をすくめた。軽口で受け流すふりをしているが、分かっている顔だった。こいつは空気を軽くするのがうまい。その分、嬉しい時ほど部屋を `居間` に近づけてしまう。

だから今は、その才覚の使い方まで絞らないといけない。


「今からどうする?」

と、今度はミナが訊いた。


声は平らだったが、平らすぎた。

抑えている時のこいつはいつもこうだ。


「どうもしない」


「どうもしない、じゃ困るのよ」


「困らせておけ。飲んだ直後にやることなんて、何もない」


ミナの目が細くなる。


「器が空になれば、次がいる」


「いるなら、自分で取る」


「こぼしたら」


「拭けばいい」


「冷えたら」


「冷えたと分かってから考えろ」


ミナは一歩だけ寄りかけて、止まった。

その一歩を止められるから、こいつは怖い。

止められない善人より、止められる侍女のほうが、ずっと深く届いてしまう。


「……あんた、時々ほんとに性格が悪いわね」


「知ってる。今はその悪さがいる」


本当は、僕だって性格が悪いんじゃないかと思う。

だが、ここで必要なのは優しさじゃない。優しく見えないまま、意味を増やさないことだ。


レオンが入口から短く言った。


「西の布、白みが一枚上がる」


「見てる」


僕は白布越しの反射を一度見て、それから向こう側へ声を投げた。


「ヘルマン。北二の端だけ、一つ落とせ。深くするな、眩みだけ切れ」


少し間があってから、向こうで低い声が返る。


「理由は」


「理由を聞くと、そっちの記録が増える」


舌打ちまじりの沈黙。

それから、短い命令声が白布の向こうで走った。布の影がほんの少しずれる。北影の奥が深くなるんじゃなく、入口側の白い返りだけが薄く削れた。


嫌な連中だ。

嫌な連中だが、この嫌さが今は使える。

事情を知りたがる善意より、文句を言いながら命令だけ通す実務のほうが、ずっと壊しにくい。


僕はもう一度、部屋の内側へ目を戻した。


少女はすぐには動かない。

それでいい。

一度通った選択の直後に、次を期待しない。それが今の最優先だった。


だが、ここで本当に `何もしない` のは、半分だけ間違いでもある。


飲んだという行為には、始まりだけじゃなく終わりがある。

それを誰かの手で回収した瞬間、そのひとくちはそいつの世話になる。

褒めるのも危険だが、片づけるのも同じくらい危険だ。


飲み終えた器が、次にどこへ戻るか。

その `返し先` がなければ、結局また誰かが受け取ってしまう。


そこで初めて、僕はひとつだけ足すことにした。


足していいのは一つ。

しかも、便利になりすぎないものだけ。


僕は脇に積んであった欠けた石板の一枚を引き寄せた。

文様も何もない、鈍い灰色の薄板だ。本来は温石の下に敷くためのものだったが、熱は残っていない。冷たすぎず、目立たず、意味もない。


それを、水の器の少し横へ置く。

近づけすぎない。薦める位置には置かない。ただ、もし自分で戻したくなった時だけ、手が届く場所に。


ミナがそれに気づいて、眉を動かした。


「それは?」


「返し場所」


「……受け取らないための?」


「そう。飲んだ後まで誰かの手にしたら、そこで終わる」


リノが小声で吹き出す。


「へえ。セトって、そういうの考えるんだ。ひとくちの着地点」


「名前にするな」


「言い換えただけ」


「言い換えると物語になる」


リノははいはい、と手を振った。

だが、目は真面目だった。

レオンは何も言わない。言わないまま、一度だけ石板と器の位置を見て、それ以上は見なかった。

あれで十分だ。

こいつは一度理解すると、余計な確認をしない。


カイルだけが、少しだけ困った顔をした。


「それ、要るか」


「要る」


「置けなかったら」


「置けなかったら、その時はその時だ」


「お前、時々、対象に任せすぎる」


「お前は時々、受け取りすぎる」


言い返すと、カイルは露骨に顔をしかめた。

でも反論しなかった。反論しなかったということは、自覚はあるんだろう。


僕だって自覚がある。

任せすぎるのは危険だ。

だが今の相手は、何でもかんでも介助された瞬間、誰かの帰還譚へ落ちかねない器だ。こっちが先回りして `いい終わり方` まで整えてやるのは、ただの傲慢に近い。


だから、返し場所だけ置く。

戻すかどうかは、あっちに残す。


それ以上はしない。


しないまま、待つ。


待つのは嫌いだ。

観測して、理屈へ落として、先に次手を打つほうが性に合っている。

けれど今は、理屈のほうが先に走れば、そのぶん相手の身体は置いていかれる。


白布の外で、ラザルの低い怒鳴り声が一度だけ上がった。

遅参の兵か何かが、また覗きたがったのだろう。

すぐに足音が散って、静けさが戻る。


北影の内側では、リノのどうでもいい小声が続いていた。

市場で見たまずい干し肉の話だとか、泥街の屋台で靴底みたいな煎餅を売る婆さんの話だとか、本当に何でもよかった。

ミナは相槌を打たない。ただ、水差しの向きを変えないように、ずっと膝の上で指を組み直している。

レオンは入口の手前で、相談が発生しない角度を保っている。

カイルは左を出しっぱなしにしない。

でも、いつでもそこにあると分かる距離だけは残している。


全員、うまくやりすぎている。

だから怖い。

だから、今日の前進はここで止めなければいけない。


そう思っていたのに。


少女は、少し長い沈黙のあとで、もう一度だけ器に触れた。


僕は息を止めた。

飲むのかと思った。

だが違った。


指先が、器の縁を軽く押す。

持ち上げない。傾けない。ただ、場所だけを確かめるみたいに、小さく触れる。

それから、ほんの少し間を置いて、今度は器の底をすべらせた。


石板の上へ。


音は、ほとんどしなかった。

乾いた小さな擦れ音が、一度だけ鳴る。

器は石板の真ん中じゃなく、少し端へ寄って止まった。

きれいでもなく、雑でもない。飲んだあと、そのまま手を離しただけみたいな位置だった。


誰も何も言わない。

言えない、じゃない。言わない。


その沈黙の質が、さっきまでと少し違った。


ひとくち飲めた。

その次に、自分で戻した。

たったそれだけだ。

けれど、その `たったそれだけ` の中に、誰の手も入っていない。

ミナの手にも、カイルの左にも、僕の理屈にも、レオンの間取りにも、リノの軽口にも、教会の外周にも。


全員が少しずつ支えている。

それでも、始まりと終わりだけは、自分で通した。


それは、思っていたより大きかった。


大きいからこそ、僕はそこで観測石を握りしめるだけに留めた。

言語化したくなる。

今の変化を、次の手順へ落とし込みたくなる。

ここで `使えた`、`戻せた`、`次はこうだ` と並べたくなる。


でも、今それをやったら、また同じだ。

ひとくちが手順書になる。

戻し方が課題になる。

次も同じようにやれ、という圧になる。


だから、僕は自分の喉の中でだけ結論を転がした。


北影はもう、ただ `少し居られる場所` じゃない。

少し使って、少し終われる場所になり始めている。


居るだけじゃない。

使うだけでもない。

始めて、終えて、誰のものにも決めすぎずに次へ渡せる。

その最小単位が、いま通った。


「セト」


ミナが、ごく小さな声で呼んだ。


「……見た?」


「見てない」


反射でそう返すと、ミナは一瞬だけ唖然とした顔をして、それから口元をきつくした。


「そういうとこよ」


「お前も見てないだろ」


「見てないわよ」


リノが吹き出しかけて、しかし本当に吹き出す直前で止めた。

レオンは顔も動かさずに、入口の外を見続けている。

カイルだけが、少しだけ肩の力を抜いた。


誰も褒めない。

誰も回収しない。

誰も意味を増やさない。


それでいい。

今日は、そこまでだ。


僕は白布の端を見た。

光はまた少し動いている。

昼に寄れば、この部屋はまた別の危うさを帯びるだろう。

温石のぬるさも、水の重さも、無駄口の拍も、見ない外周も、全部もう一度調整が要る。


でも、次に足していいものが見えた。

正確には、足していいものの種類がひとつ増えた。


世話ではない。

褒めでもない。

説明でもない。


始めた行為を、誰の手にも預けずに終えられるための、意味の薄い置き場。


それが今後もしばらくの鍵になる。


部屋を良くするんじゃない。

部屋を、使ったあとに誰のものにも決めすぎないまま返せるようにする。


そういう、最低で、地味で、たぶんいちばん壊れにくい手順だ。


僕はようやく息を吐いた。

安堵というには浅い、ただの確認みたいな吐息だった。


この北影は、まだ家じゃない。

居間でも、寝室でも、帰還の舞台でもない。

けれど、ただの避難所でもなくなり始めている。


それが面倒で、怖くて、少しだけ救いだった。


帝国暦849年。冬。

セトは、三位一体の少女が `ぬるい水をひとくち飲む` という自発行動を通した直後こそ最も壊れやすい局面だと見抜き、褒めること、回収すること、意味を足すことを禁じたまま、ただ `返し場所` だけを置く次手順へ読み替えます。少女はその石板の上へ自分で器を戻し、始まりだけでなく終わりも誰の手にも預けずに通しました。こうして局面は、`三位一体の少女が仮の居場所を誰のものにも決めすぎず、自分でひとくち分だけ使い始める` 段階から、さらに `その小さな使用を、褒められず回収されず、自分で終えて返せる場所として北影を使い始める` 段階へ進んだのです。

お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!

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