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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第107話:隻眼の間取り、邪魔しない番 【レオン】

お読みいただきありがとうございます。毎日20時に更新しています。

人が少し助かったあと、が一番危ない。


戦場でも救護舎でも、それは同じだった。

血が止まった、息が戻った、目が開いた。

そこでようやく皆が `よかった` と思う。

そうすると急に、温かいものを飲ませたくなるやつが出る。話しかけたくなるやつが出る。背をさすりたくなるやつが出る。次の予定を決めたがるやつまで出る。

それまで死なせまいと我慢していた正しさが、そこでいっせいに湧いてくる。


そして大抵、そこで壊れる。


北影の入口に立ちながら、僕はそのことを思い出していた。


さっきまでここは、固まりすぎた部屋だった。

ミナが水と温石と布を `やりすぎない` 形で揃え、カイルが左だけを残し、教会側は `見ない` ことへ寄り、全員が息を小さくしていた。

そこへリノが無駄口と拍を差し込んで、ようやく空気が少しだけ人間に戻った。

それは必要だったと思う。

必要だったが、必要だったからこそ、次の危険が増えた。


部屋が `待てる場所` になった瞬間、人はそこへ居心地まで足したくなる。


僕は北影の中を見た。


三位一体の少女は、白布の影の奥で膝を抱くように座っていた。

金の目は開いている。

けれど、さっきまでみたいに今にも跳ねる獣の目ではない。

片翼の泥も少し深く畳まれ、肩の張りもほどけている。

ミナの置いた水差しはまだ `差し出されて` おらず、欲しければ届く位置にある。

カイルの `左` は相変わらず近いが、抱くための腕ではなく、立て直した手すりのままだ。

リノは入口で足を投げ出し、黙りすぎたらもっと喋る、とこちらを脅している。


どれも今のところ正しい。

だが、その正しさは薄い氷みたいなものだ。

一人でも `もう少し` を足せば、すぐに割れる。


問題は、もう朝が動き始めていることだった。


北影は北にあるから一日中安泰、なんて都合のいい話じゃない。

冬の光は低いが、低いなりにじわじわ角度を変える。

白布の反射も、薄い廊下の長さも、入口の風の入り方も、全部少しずつずれていく。

今の配置は `いまの朝` には合っている。

だが昼へ寄れば、同じ並べ方は誰かを見せすぎる。


外周も同じだ。

ラザルたちが遅参組を尾根下で止めていても、いつまでも同じ顔ぶれだけで持つわけじゃない。

疲れた兵は視線が鈍るし、鈍る前に `一度くらい中を確認したい` という最悪の正義が頭をもたげる。

教会の現場線も、こちらの保護線も、静かになったから安心しているような顔をし始めていた。

だから、今のうちに線を引き直さないといけない。


助かったあとの線引きは、たいてい誰も褒めてくれない。

でも、そこをやらないと次がない。


「カイル」


北影の奥で、運び屋が顔を上げる。

熱はまだ引いていない。

右腕の布の下では、灰色がときどき薄く滲む。

なのに目だけは、こちらが次に何を言うか待っていた。


「その `左`、今からは出しっぱなしにするな」


カイルが露骨に嫌そうな顔をする。

「は?」


「必要な時だけ貸せ。いらない時は引け。手すりが手すりのまま済む距離で残せ」


「いや、待てよ。せっかく慣れてきたところで」


「慣れたら終わる」

僕は切った。

「お前がそこでずっと同じ形してると、その形が `ここで正しい近さ` になる。今日はそれで保っても、明日には抱え方になる」


少し間があった。

カイルは言い返しかけて、結局黙る。

言葉より先に、自分でも分かっている顔だった。

この数日のこいつは、嫌なことほど身体の方が先に理解する。


「……めんどくせえな」

「知ってる」

「レオンのおっさん、最近そういうのばっかだよな」

「最近じゃない。前からだ」


リノがけらりと笑う。

「いや、前よりだいぶうるさくなったわよ」

「お前にだけは言われたくない」

「言ってやるのが親切なの」


親切。

その言葉に、僕は苦く笑いそうになった。


親切が人を殺す場を、何度も見てきた。

でも今のリノの軽口は、そういう親切とは違う。

あいつは人を `助けたい` んじゃなく、場が固まるのを嫌っている。

その違いは大きい。


僕は入口の土へしゃがみ込み、短剣の切っ先で浅い線を一本引いた。

北影の入口から内へ、誰かがうっかり踏み込みそうな位置だ。

魔法陣でも封印でもない。

ただの目印。


「ここから内は、一人一役だ」


セトが眉をひそめる。

「何の芝居だよ」

「芝居じゃない。間取りだ」


僕は線をもう一本、外側に引いた。

二本の線で、入口の前に細い帯を作る。


「内側の一線は、今やる役以外は越えるな。水を置くなら水だけ。観るなら観るだけ。喋るなら喋るだけ。二つやろうとするな」

「面倒くさ……」

「面倒だから効く」


ミナが土の線を見る。

最初は反発するかと思ったが、意外にも何も言わなかった。

代わりに水差しの位置を見て、それから白布の端を見る。

侍女の頭で、この線が何に使えるかを測っている顔だった。


「……二つ目の線は?」

と、彼女が問う。


「外側の一線は、覗くな、だ」

僕は答える。

「入口の手前で止まれ。相談はそこまで。中の様子を確認してから意見を言うな」


セトが舌打ちした。

「意見を言う前に観測したいんだけど」

「だからお前は観測だけやれ」

「雑」

「雑な方が守れることもある」


言いながら、僕は立ち上がった。

内側だけじゃ足りない。

本当に危ないのは、外だ。


「ラザル」


入口の外へ出ると、白布の向こうから中堅騎士が顔だけ寄越した。

嫌そうな顔がすっかり板についた男だ。


「なんだ、元騎士」

「その呼び方やめろ」

「事実だろ」

「お互い様だ」


ラザルの肩が少し揺れた。

笑ったのかもしれない。

こいつもだいぶ、今の馬鹿げた共同作業に慣れてきている。

慣れすぎるのは困るが、全部が敵の顔のままでも困る。

本当にやりにくい。


「日が上がる」

僕は白布の影を顎で示した。

「このままだと、一刻もしないうちに入口の反射が変わる。北影を見せる」


ラザルはすぐに白布の角度を見た。

さすがに現場の人間だ。

一度視れば分かるらしい。


「板蝋を二枚、東へ回す」

と、彼は低く言う。

「遅参組にはまだ補修継続の顔をさせる。北は狭めるんじゃなく、白の重なりを厚くする」


「人は増やすな」

「増やさない。顔も変えない」


そこへヘルマンが来た。

相変わらず、人の顔色を気遣う気のない足音だ。

だが最近は、その無愛想さがありがたくすらある。


「問題か」

と、執行司祭は訊く。


「問題というより、その前だ」

僕は言う。

「静かに持ち直した。だから今度は、静かに見慣れ始める」


ヘルマンの目が細くなる。

嫌な相手だが、こういう時の飲み込みは速い。


「慣れは分類の前段階だ」

「ああ。あんたらの言葉で言うなら、そういうことだ」


彼は短く頷いた。

「外周は交代幅を半分にする。入れ替えは尾根下で止める。北影の正面を一度も作らない」


「それと、白布を少しだけ汚せ」

僕は続けた。

「綺麗すぎると、人は何が守られてるか知りたがる」


ラザルが露骨に嫌な顔をした。

「教会の布をわざと汚せと?」


「補修現場の布だろ。汚れて当然だ」


ヘルマンが一拍だけ考え、あっさり言った。

「土を擦れ。下三分だけでいい」


ラザルが空を仰ぐ。

「最近、命令の質がどんどん悪くなるな」

「現場が悪い」

ヘルマンが即答する。


少しだけ、笑いそうになった。

本当にどうかしている。

敵と味方で、北影を `見せない部屋` として維持する相談をしている。

けれど今は、そのどうかしている感じがかえって助けになっていた。


僕は外周をもうひと回り見た。

ガルドは相変わらず槍を外へ向けている。

トビアは白布の重なりを目だけで測り、メルは必死に尾根の石ばかり見ていた。

いい。

まだ皆、仕事の顔をしている。

余計な感動が入り込む余地が少ない。


北影へ戻ると、リノがさっそく線の内側へ片足を入れかけて、ミナに睨まれていた。


「はいはい、分かってるって。喋るならここまで、でしょ」

「本当に分かっているなら、つま先も戻してください」

「細かい!」

「細かいから保っているのです」


言いながらも、ミナの声には前より少しだけ角がない。

たぶんリノの `うるさい` が、まだ効いているのだろう。

場が固まりすぎなかった証拠だ。


「リノ」

僕は呼ぶ。

「喋るのはいい」

「許可制なの?」

「質問はするな」


彼女が眉を上げる。

「してないじゃん」


「今後もだ。名を訊くな。何が見えるとか、どっちへ寄りたいとか、そういうのも聞くな。お前は勝手なことだけ喋れ」


リノは一瞬だけ真顔になって、それから肩をすくめた。

「了解。得意分野」


その返事に、カイルが小さく笑った。

笑って、すぐ顔をしかめる。

右腕が疼いたのだろう。


セトは線の外側で観測石を構えたまま、不服そうに口を尖らせている。


「坊主」

「なんだよ」

「お前は一刻ごとに観測を切れ」

「は?」

「ずっと見てるな。石も、お前の頭も寄る」


セトは反論しかけて、観測石の表面を見た。

そこに何か思い当たるものがあったらしい。

舌打ちして頷く。


「……分かったよ。切る。けど、その間に何かあったら」

「その時はその時だ」

「雑!」


今日何度目か分からない抗議だった。

でも、雑な方が守れる局面は本当にある。

全部を管理しようとすると、人はすぐ支配者の顔になる。

今ここで必要なのは、それじゃない。


ミナは水差しを半寸だけ奥へ動かし、入口に置いた小さな布の角を整えた。

整えすぎない程度に。

それを見て、僕は自分の肩の力が少し抜けるのを感じた。

もう、いちいち言わなくても伝わる仕事が出てきている。

危ういが、悪くない。


問題はカイルだった。


こいつは真面目すぎる。

役目を渡すと、すぐに `その役目で立ち続けること` が正しさだと思い込む。

それは兵士にもよくいる。

倒れるまで持場を離れないやつ。

立派だが、後ろの仕事を全部止める。


「飲め」

僕はミナの小さな器を顎で示した。


カイルが顔をしかめる。

「今?」

「今だ。お前が渇いた顔してると、全員の意識がそっちへ寄る」

「ひどい理由だな」

「十分だ」


ミナが器を直接渡さず、置き直す。

カイルは左手をいったん `手すり` から外しかけて、三位一体の少女の肩を見た。

その一瞬に、少女の視線もわずかに動く。

僕はそこで声を入れた。


「一息だけだ。全部離せとは言ってない」


カイルは舌打ちし、結局、左を完全には抜かずに手首だけで器を取った。

飲み方まで不器用だ。

でも、それでいい。

きれいにやらせる必要はない。

きれいな所作は、すぐ意味になる。


三位一体の少女は、その様子を見ていた。

金の目は細い。

黒い翼の先だけが、光の角度を避けるみたいに布の上で少し動く。

そして次の瞬間、彼女は自分で入口の小さな布を半分だけ引いた。


誰にも言われず。

誰にも渡されず。

ただ、ちょっとだけ。


リノが口を開きかける。

僕は見なくても分かった。


「褒めるな」

先に言った。


「分かってるわよ」

彼女はふくれた声で返す。

「人のこと、なんだと思ってんの」


「よく喋る踊り子」

「ひどっ」


でも、その一言で終わる。

それ以上、誰も足さない。

褒めない、名付けない、意味にしない。

今ここでは、その我慢が一番大事だった。


やがて、外の白布が少しだけ揺れ方を変えた。

光の角度が動いたのだ。

だが北影の入口はまだ保っている。

ラザルたちが外で布を汚し、白の重なりをずらし、正面を作らないよう回しているのだろう。

ヘルマンも、たぶん余計な報告書を一枚増やすより、その場の沈黙を優先している。


味方も敵も、揃いも揃って面倒くさい大人ばかりだ。

けれど、そういう大人がいま少しずつ同じ手順を覚え始めているのは、悪いことじゃない。


僕は入口の線をもう一度見た。

ただの浅い傷だ。

誰かが本気で踏めば、簡単に消える。

でも、線っていうのは案外それで足りる。

一度引かれたあとなら、人は無意識にそこで足を止める。

そこで、自分が何を持ち込もうとしていたかを一拍だけ考える。

その一拍が、人を助けることがある。


士官学校では、こういう線は習わなかった。

習ったのは進軍路と突撃角度ばかりだ。

英雄になるための地図はたくさんあった。

けれど、人を `壊さずに置いておくための間取り` なんてものは、どこの教本にも載っていなかった。


たぶん、だからこそ必要なんだろう。

誰も褒めないし、後から振り返っても地味すぎて伝わらない。

でも、こういう線がないと、綺麗な物語はすぐ人を押し潰す。


北影の奥で、三位一体の少女の呼吸がひとつ深くなった。

眠ったわけではない。

けれど、起き続けるために張りつめていた呼吸じゃなくなった。

その変化だけで十分だった。


「レオンのおっさん」

リノが入口の外から小さく呼ぶ。

「今の、ちょっとだけ居間っぽかったわね」


僕は鼻を鳴らした。

「気のせいだ」


「そういうことにしとく」


その返事が、妙にありがたかった。

居間だの家だのと決めてしまえば、また別の意味が立つ。

でも気のせいくらいなら、たぶん保つ。


僕は北影の入口に立ち直り、外と内の両方へ目を配った。

守る、というほど大げさじゃない。

邪魔をさせない。

足しすぎない。

それだけだ。

それだけで今日が持つなら、隻眼の元騎士の仕事としては上出来だった。


帝国暦849年。冬。

レオンは、リノの `無駄口と拍` によって人の時間が流れ始めた北影で、次に危険なのは `助かったあとに皆が足したくなる正しさ` だと見抜きます。彼は `内側は一人一役`、`入口の手前で相談を止める` という簡素な間取りを引き、ラザルやヘルマンと連携して白布の角度、交代線、遅参組の視線まで切り直しました。そのうえで、ミナには `世話を足しすぎない役`、リノには `質問しない無駄口`、セトには `観測しすぎない手順`、カイルには `出しっぱなしにしない左の手すり` を徹底させ、北影を `ただ留まれる部屋` からさらに `時間が流れても崩れにくい仮の居場所` へ整え始めたのです。

最後までお読みいただきありがとうございます。一言でも感想いただけると励みになります。

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