第106話:無駄口の拍、北影の居間ごっこ 【リノ】
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静かすぎる部屋って、だいたいろくなことにならない。
泣くのを我慢してる部屋か、誰かが死ぬのを待ってる部屋か、あるいはもう死んだあとで、みんながそれを認めたくなくて息まで小さくしてる部屋。
少なくともアタシの人生で、そういう沈黙は一度もいい意味じゃなかった。
北影へ入って最初に思ったのも、それだった。
ミナが作ったこの部屋は、正しい。
悔しいくらい正しい。
水は近すぎず遠すぎず、温石は人の体温を押しつけない位置で、白布の影はやわらかいのに意味を持ちすぎない。
前の影の痕まで消して、誰がここへ通したのかを薄くしてある。
だから三位一体の少女は、北影の中で `未確定のまま留まれる`。
でもね。
正しい部屋って、ときどき正しすぎて、棺桶の手前みたいになるのよ。
みんなが `足しちゃいけない` を分かりすぎてるせいで、逆に何も動かない。
カイルくんは `左` を手すりにしたまま息を殺してるし、ミナは半歩外で水差しと布の距離ばっかり見てるし、セト坊は観測石を睨みすぎて今にも石のほうが謝りそうな顔してる。
ヴェルりんは白布の皺一本まで嫌そうな目で見てるし、レオンのおっさんなんて入口の外で壁そのものになるつもりかってくらい黙ってる。
誰も間違ってない。
だから余計にまずい。
こういう時、人は `正しく見守る` の顔でじわじわ何かを決める。
一つの咳払いに意味を見て、目を伏せる角度に名前をつけて、息の浅さを `誰か` の帰り方だと思いこむ。
見てないつもりで、いちばん見てるやつ。
アタシ、あれ嫌いなのよ。
踊り子って商売は、だいたい部屋の空気で飯を食う。
酒場でも、宴席でも、死にかけの旅芸人小屋でも、最初にやるのは同じだ。
この場の沈黙が `何待ち` かを見て、できるならそこへ別の拍をねじ込む。
泣き待ちなら笑いへずらす。
喧嘩待ちなら足を踏ませる。
黙祷みたいな空気なら、誰かに水を飲ませる。
卵を抱えてた頃も、似たようなことをしてた。
あれをただの `大事なもの` として抱いてたら、すぐに棺になる気がしたから。
だからアタシは、あのまだ殻だった三人へ、どうでもいい話ばっかしてた。
天気のこと、腹減ったこと、ヴェルりんの性格が最悪なこと、アレンのバカ剣が本当にバカなこと。
あれはたぶん、慰めじゃなかった。
ただ `まだこっちは生きてて、時間が流れてる` って嘘みたいな当たり前を、やめずに鳴らしてただけだ。
北影の入口で腕を組んだまま、アタシは大きく息を吸った。
「ねえ、みんな」
五人分くらいの視線がこっちへ寄る。
うわ、やっぱ見すぎ。
「その顔やめない?
誰が一番静かにできるか選手権でもやってんの?」
ミナの眉がぴくっと動いた。
セト坊が即座に嫌そうな顔をする。
レオンのおっさんだけは外のまま、ため息みたいな声を返した。
「うるさくするな、とは言わんが」
「言いかけたでしょ今」
「言いかけた」
「正直でよろしい」
カイルくんが、北影の奥からかすれた声を出す。
「……お前、こういう時でも普通に喋れんのな」
「喋れるわよ。むしろこういう時こそ喋るの」
「なんで」
「黙ってると、みんな勝手に話作り始めるから」
セト坊が観測石から目を上げる。
「話?」
「そう。 `今の瞬きは誰のものだったか` とか、 `その息はどの子の癖か` とか、 `いま指が動いたのはどういう意味か` とか。そういうやつ」
「……」
「図星でしょ?」
図星だったらしい。
少年魔法使いは露骨に目を逸らした。
ミナが小さく吐き捨てる。
「軽いわね」
「軽くしてんの。違う?」
アタシは北影の入口へしゃがみこんで、そこに置かれた小さな布を指でつついた。
かけてやる布じゃない。
欲しければ自分で引ける布。
それをミナはちゃんと用意してる。
ほんと、腹立つくらい分かってる。
「ミナのやり方、正しいわよ。
でも正しすぎると、部屋が固まる」
「固まる?」
「うん。 `ここで何をしても決め手になる` ってみんな思うから、何もしなくなるの。そうすると今度は、息するだけで意味が出る」
カイルくんが微妙な顔をした。
たぶん、意味が出るのは自分の役目だと思ってるからだ。
本当に真面目なんだから、この運び屋。
アタシは肩をすくめて続ける。
「だからアタシが無駄口叩く。質問しないやつ。答えなくていいやつ。名前も帰り先も決めないやつ」
ヴェルりんが白けた声音で言う。
「ずいぶん原始的な理屈ですね」
「アンタはなんでも悪魔っぽい言い方すれば勝ちだと思ってるでしょ」
「だいたい勝ちます」
「その自信が腹立つ!」
でも、ちょっとだけ助かった。
ヴェルりんが口を挟んだぶん、部屋の空気がほんの少し、人の悪口で回った。
儀式の空気じゃない。
普通に感じ悪い会話だ。
それでいい。
それくらいでいい。
アタシは膝を抱え、右手の指先で自分の腿を軽く叩いた。
一、二、休み。
一、二、休み。
歌じゃない。
手拍子ですらない。
踊りの稽古前、身体が固い時に自分だけへ入れる、どうでもいい拍。
「なにしてんだ」
レオンのおっさんが外から訊く。
「足が冷えると機嫌悪くなるから、自分で自分を起こしてんの」
「それを今やるのか」
「今だからでしょ」
一、二、休み。
一、二、休み。
わざと雑にやる。
綺麗に揃えない。
上手くやると、今度はそれが意味になるから。
ただ、そこに誰かが生きて座ってる時に勝手に出る癖みたいに。
金の目が、こっちを向いた。
三位一体の少女は北影の奥、白布の影の中で、膝を少し抱くように座っている。
カイルくんの `左` は近いけど近すぎず、ミナの水差しは届くけど差し出されてない。
そのどっちにもまだ寄り切らない位置で、あの子はアタシの腿の上の拍を見ていた。
追わない。
見返さない。
それも大事。
見つめ返した瞬間、また `誰と誰のやり取りか` が立ち上がる。
だからアタシは拍を打ちながら、ぜんぜん別の話をした。
「あーあ。腹減った。
ここ、気の利いた宿なら湯くらい出るのにね。
北影だかなんだか知らないけど、接客がなってないわ」
セト坊が呆れた。
「宿じゃないからな」
「知ってるわよ。でも、こういう時の部屋って、ちょっと宿っぽい顔してくれたほうが助かるの」
「意味が分からん」
「分からなくていいの。分からなくていいことを置いとくのが大事なの」
ミナが、水差しの位置を見たままぽつりと言う。
「……喋りすぎは、形にならないの」
「なるわよ」
アタシは即答した。
「でも、ちょうどいい喋りすぎは `流れ` になるの。居心地って、だいたいそっちで決まるし」
言ったあとで、自分の胸の奥が少し痛んだ。
居心地。
その言葉は、今のあの子へ与えるにはまだ大きい。
けれど、完全に抜いてしまうと、本当にただの置き場になる。
置き場は長く持たない。
人が生きてるなら、どこかで `いていい感じ` が要る。
アタシは拍を続けながら、カイルくんを見た。
「ねえ、アンタもそんな息の止め方やめなさいよ」
「止めてねえ」
「止めてるって。さっきから `倒れません` の呼吸してる」
「どんな呼吸だよ」
「意地で胸しか動いてないやつ」
カイルくんが、嫌そうに眉を寄せる。
でも、言い返す前に少しだけ肩が落ちた。
ちゃんと腹へ息が入る。
ほんのそれだけなのに、北影の空気が少し変わる。
「ほら」
アタシは言う。
「いまのほうがマシ」
「……うるせえ」
「それでいいのよ。そういう悪態って、人が疲れてる時のちゃんとした反応だから」
レオンのおっさんが、外で小さく鼻を鳴らした。
笑ったのか呆れたのか微妙な音だった。
けどそのあと、壁みたいだった気配がほんの少しだけ人間に戻った。
アタシは北影の入口の白布を、風が入りすぎない程度に半寸だけ下げる。
下げる前に、必ずミナを見る。
侍女の線を越えないためだ。
ミナは一瞬だけ考えて、それから頷いた。
いい。
そのやり方なら通る。
「ヴェルりん。アンタ、その嫌味ついでに温石の向きだけ変えてくれない?」
「なぜ私が」
「嫌味ついでって言ったでしょ。ついでなら得意じゃない」
「褒めているのか貶しているのか分からないのですが」
「半々」
ぶつぶつ言いながら、ヴェルりんは温石をほんの少しだけ回した。
直接ではない。
でも、さっきより熱の抜けが均一になる置き方だ。
たぶん本気で文句を言うほど嫌ではなかったんだろう。
セト坊は観測石を見たまま、珍しく口を挟まなかった。
代わりに、石を見る角度を少し変えた。
北影の奥を覗き込む角度じゃない。
影の縁だけを拾う角度。
あの子なりの `見すぎない` だ。
みんな、ちょっとずつ器用じゃないのよね。
でも器用じゃないやつが無理して器用ぶると、だいたい壊す。
だからアタシが喋って、ずらして、ちょっとだけ雑にしてやる。
それくらいなら得意だ。
一、二、休み。
一、二、休み。
やがて、北影の奥で布が小さく鳴った。
見ない。
でも、見なくても分かる。
誰かが自分で手を動かした音だ。
金の目が、入口の布でも水差しでもなく、アタシの腿を見ていた。
その視線のあとを追うみたいに、細い指が白布の上で二度だけ動く。
一、二。
それから休む。
胸の奥で何かがほどけそうになって、アタシは危うく笑いそうになった。
駄目。
そこで喜ぶとまた意味になる。
だから、いつもの調子で肩をすくめる。
「あら、真似っ子」
返事はない。
でも指先が、もう一度だけ布を叩いた。
今度は少しずれて、一、休み、二。
下手くそ。
でも、それがいい。
下手くそなくらいのほうが、誰の拍でもなくて助かる。
ミナが息を呑む気配がした。
セト坊の観測石がかすかに鳴る。
外ではレオンのおっさんの靴音が半歩だけ寄って、すぐ止まった。
全員、見たい。
たぶん今この瞬間、ちゃんと見たら何か分かるかもしれないと思ってる。
でも見ない。
それが今日ここまで積んできたルールだ。
アタシは助けるつもりで、わざともっとくだらないことを言った。
「あーもう、だめ。北影、ぜんぜん色気ない。
せめてもう一枚布があるなら、壁際だけでも見映え良くしたいんだけど」
「やめてください」
ミナが即座に刺す。
「暮らしすぎます」
「分かってるってば。言ってみただけ」
「言うのも危険です」
「はいはい、侍女長」
その時だった。
北影の奥から、ひどく掠れた、小さな声が落ちた。
「……うるさい」
全員の呼吸が止まる。
今度こそ本当に止まった。
でもアタシは止めない。
止めたら、その一言が大事件になる。
誰の声か、どの人格か、何を嫌がったのか、そういう面倒くさい話が一斉に立ち上がる。
だからアタシは、できるだけ普通の顔で鼻を鳴らした。
「ひっど。
せっかく空気よくしてあげてるのに」
一拍置いて、カイルくんが吹き出した。
喉の奥で、ほんの短く。
ミナはこめかみを押さえて、でも怒鳴らなかった。
レオンのおっさんは外で呆れたように息を吐き、ガルドのおっさんは遠くで `人の子は難儀だな` みたいな低い唸りを漏らした。
セト坊にいたっては、観測石を見たまま肩だけ震わせている。
笑った。
誰も大声ではない。
でも、ちゃんと笑った。
それで十分だった。
部屋って、誰かが笑うと少しだけ `待てる場所` になる。
安心するからじゃない。
次の一息を、怖がらずに吸えるから。
北影の空気が、ようやく `耐えるだけの影` から外れた。
まだ仮だ。
まだ浅い。
でももう、ただの緊急処置じゃない。
ここには今、ちゃんと時間が流れ始めている。
アタシはもう一度だけ腿を叩いた。
一、二、休み。
今度は誰も合わせない。
それでいい。
合わせないまま、でも同じ部屋の中で少しずつ別々の呼吸が続く。
そういう朝が、たぶんいちばん長持ちする。
北影の外では、相変わらず教会の白布が風を受けているはずだ。
ラザルたちの `見ない持ち場` も、ヘルマンの `空欄の囲み` も、ミナの `暮らしすぎない世話` も、カイルくんの `左の手すり` も、きっとどれか一つ欠けたらまた危うい。
でも、その危うさを全部知ったうえで、まだくだらない悪口が言えて、誰かが `うるさい` と返せるなら。
たぶん今日は、まだ大丈夫だ。
アタシは北影の入口へ背を預け、足を投げ出した。
踊り子としてはだいぶ行儀が悪い。
でも今は、行儀の良さよりこの部屋が `ちゃんと少し雑であること` のほうが大事だった。
「ねえ」
と、アタシは誰ともなく言う。
「次に黙りすぎたら、もっと喋るからね」
「脅しか?」
レオンのおっさんが外から返す。
「親切よ」
そう言って、アタシはようやく笑った。
今度は、意味にならない程度に。
帝国暦849年。冬。
リノは、ミナが `暮らしすぎない世話` で整えた北影が、正しすぎる沈黙のせいで `棺桶の手前` に固まりかけていると感じ取り、踊り子としての感覚で `質問しない無駄口`、`意味を持たせすぎない拍`、`ちょうどよく雑な生活音` を通します。彼女は `誰が誰として起きているか` を決める視線をずらし、カイルの `左の手すり`、ミナの `半歩外の侍女`、セトたちの `見すぎない手順` のあいだへ、人の時間そのものを流し始めました。こうして局面は、`半歩外の侍女が次の影での寝床と生活線を整え、未確定のまま留まれる部屋を作る` 段階から、さらに `リノが静かすぎる北影へ軽口と拍を差し込み、誰の部屋にも決めすぎないまま時間を流し始める` 段階へ進んだのです。
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