第105話:半歩外の寝床、呼ばない湯気 【ミナ】
ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。
あの四歩が通った瞬間、いちばん最初に胸へ来たのは安堵ではなかった。
悔しさだった。
カイルの `左` が残り、あの子はそれを借りて北影へ入った。
わたくしの手ではない。
わたくしの声でもない。
わたくしの `お嬢様` でもない。
それで正しいと、頭ではとっくに分かっている。
分かっているのに、胸の奥の古い侍女だけが、ひどく見苦しく歯を立てた。
本来なら、水差しを持つのはわたくしの役目だった。
肩へ手を添えるのも、布の端を上げるのも、次に身体を置く場所を先に整えるのも。
主が立てば半歩後ろ、座れば一歩横、眠るなら呼吸の邪魔にならぬ距離へ。
何も考えなくても身体が覚えている。
だからこそ危ない。
考えるより先に正しい手順を出せてしまう人間ほど、今のあの子を壊す。
丁寧すぎる世話は形を作る。
主従の呼吸は、それだけで輪郭になる。
輪郭はそのまま、誰か一人を指さす。
わたくしは北影の外で、指先を袖の内側へ隠した。
何かを掴みたくなる時は、まず自分の手を隠すのがいい。
今のわたくしは、触れたい時ほど退くべきだ。
北影は、前の布影より深い。
けれど寒いだけではない。
人の意味が乗りにくい。
水差し一つ、温石一つ、布の折り方一つで `誰が世話をしたか` が浮き上がりにくい、少し乾いた暗がりだ。
たぶんセトはそういう理屈で選んだのだろう。
理屈としては腹が立つくらい正しい。
問題は、理屈で選ばれた場所を、実際に寝床へ変える時だ。
放っておけば、ただの冷たい影でしかない。
だが足しすぎれば、すぐに `部屋` になる。
部屋になれば、誰かの居場所になる。
居場所になれば、物語が付く。
だから今日は、部屋にしすぎてはいけない。
それでも、生きた身体が息を続けられる程度には整えなければならない。
本当に嫌な匙加減だった。
「ミナ」
セトが観測石から目を離さずに言った。
「温石、近すぎるな」
「分かっています」
わたくしは答えながら、前の布影に置いていた温石を布の上からそっと抱え上げた。
素手では持たない。
熱を直接渡さないためだけではない。
誰の手の温度も、ここでは余計だ。
温石は北影の奥ではなく、入口から斜めに半歩ずれた位置へ置き直す。
届くけれど、勝手には寄ってこない位置。
寒ければ自分で寄れるし、熱ければ離れられる位置。
侍女としてはひどく不親切だ。
けれど今は、その不親切のほうが慈悲に近い。
水差しも同じだった。
前の影では、欲しければ取れる場所にあった。
今は少しだけ条件が変わる。
北影は狭く、カイルの `左` が残る分、置き方ひとつで視線の流れが変わる。
わたくしは一度水差しを手に取って、また置き、さらに布端を数寸だけずらした。
カイルがこちらを見る。
言葉はない。
だが、問いはある。
ここでいいのか、と。
「まだ寄せないでください」
わたくしは言う。
「そこにあると、手を出した時に近すぎます」
「分かった」
それだけ返る。
余計な気遣いがない。
ありがたい。
もしここで `大丈夫か` だの `悪い` だの言われたら、たぶんわたくしは少しきつい顔をした。
三位一体の少女は北影の中で、まだ落ち着ききっていなかった。
四歩を終えたばかりの身体は、座っているのにどこか歩く準備を残している。
片翼の泥が石の冷えを嫌うように、少しだけ角度を変える。
金の目は開いているが、視線の端には別の遅れが混じる。
呼べばこちらを向くだろう。
だが呼ばない。
呼んだ瞬間、顔が一つの名前へ寄る気がした。
わたくしは代わりに、前の布影へ戻った。
ここをそのままにしてはいけない。
誰が見ても、あそこからここへ移ったと分かる痕が残る。
温石の跡。
布の沈み。
水差しの輪。
小さな泥の剥がれ。
教会の連中は `見ない` ほうへ寄っている。
だが寄っているだけだ。
人は痕を見れば、つい話を作る。
さっきまでここにいた。
あそこへ移った。
誰が運んだ。
誰が先導した。
そういう安い筋立てを。
だから消す。
わたくしは前の影の布を裏返し、温石の置き跡へ乾いた土を薄く擦り込んだ。
水の輪には別の白布を一度だけ置いて吸わせ、何もなかったみたいに畳んで退ける。
片翼がかすめた泥の薄い筋も、指先ではなく布端でぼかした。
布で消す。
指で消すと、そこへ `誰かの手` が残る。
やっていることはひどく地味だ。
英雄譚には絶対に載らない。
だが侍女とは、本来こういう後始末を担うものでもある。
主の移動を美しく見せるためではなく、移動したあとに余計な意味を残さないための仕事。
そう思った瞬間、胸の奥の痛みが少しだけ形を変えた。
これは主を取り戻すための奉仕ではない。
主を取り戻したことにしないための奉仕だ。
苦い。
でも、その苦さの中にだけ、今のわたくしの席がある。
袖の内側で、白百合めいた欠片がちくりと熱を持った。
わたくしは動きを止める。
あれは便利だ。
便利すぎる。
追跡にも、見分けにも、感情にも寄りすぎる。
とくにこういう、誰か一人へ決めたくなる場面では危険だ。
欠片は、使えばきっと反応する。
シオン様の残り火へ寄るかもしれない。
金の目の奥に隠れた別の色を引っぱるかもしれない。
だから、今は使わない。
わたくしは欠片を布袋ごとさらに腰の奥へ押しやった。
主を思い出すための品が、主を狭くしては意味がない。
そう自分へ言い聞かせると、少しだけ吐き気がした。
本当に、今日のわたくしは嫌な侍女だ。
呼ばない。
触れない。
思い出の品すら近づけない。
それでも、やる。
前の影を消し終えた頃、白布の向こうで一度だけ靴音が止まった。
誰かがこちらを見かけた気配。
けれど、そのまま去っていく。
ラザルあたりがまた誰かを外へ向けたのだろう。
助かる。
腹は立つ。
けれど助かる。
光の側の人間に、こういう助けられ方をする日が来るとは思わなかった。
北影へ戻ると、カイルの `左` はまだ残っていた。
ただし、さっきより少し遠い。
手すりの終わりを自分で作ったあとの、控えめな残り方だ。
あれならいい。
あれ以上近いと抱擁になる。
あれより遠いと、ただの見捨てになる。
三位一体の少女は、その `まだ` の距離の中にいた。
金の目は半分ほど細まり、けれど完全には閉じていない。
すぐ眠るわけではない。
ここが本当に `置いてよい影` か、まだ測っている。
なら、次に通すのは `眠り` ではなく `留まれる感じ` だ。
わたくしは北影の入口へ、小さく折った布を一枚だけ置いた。
枕ではない。
膝掛けでもない。
ただ、手が届けば自分で引ける布。
誰かがかけてやる形にしないための布。
それから、水差しをもう半寸だけずらす。
近すぎない。
遠すぎない。
主に水を差し出していた頃なら、絶対に選ばない曖昧さだ。
でも今は、その曖昧さが必要だった。
「……やりすぎか」
思わず口に出た。
カイルが小さく肩をすくめる。
「分かんねえ」
「そうでしょうね」
「お前は分かるのか」
少し意地の悪い聞き方だった。
たぶん、自分でも分かっていないからだ。
わたくしは水差しの位置を見たまま答える。
「分かっていたら、もう少し上手に侍女をやれています」
カイルが黙る。
数拍置いて、低く言った。
「……いまのは、上手いほうだと思う」
困る。
そういう、まっすぐすぎる慰め方は困る。
困るが、怒る気にもなれなかった。
主に言われたい言葉ではない。
でも、今ここで欲しかった言葉ではあったのだと思う。
三位一体の少女が、入口の布へ視線を落とした。
次に水差しを見る。
そして、ゆっくりと自分のほうへ布を寄せた。
自分で。
こちらの手を借りずに。
その動きひとつで、胸の奥が熱くなる。
呼びたくなる。
`お嬢様` と。
それか、もっと昔の名で。
だが唇の裏で噛みつぶす。
呼ばない。
今ここで呼べば、あの動きまで `誰かの帰還` へ変わる。
それは、わたくしが一番やってはいけない。
代わりに、湯気の立たない程度にぬるめた水を、もう一つ小さな器へ移した。
直接渡さない。
近くへ置くだけ。
もし要るなら、取れる。
要らないなら、そのままでいい。
セトがそれを横目で見て、珍しく何も言わなかった。
文句がない時ほど、あの少年は静かだ。
北影の空気が、少しだけ落ち着く。
前の布影とは違う。
まだ浅い。
まだ仮だ。
けれど、仮だからこそ留まれる形がある。
わたくしはようやく、北影の外に自分の半歩を置き直した。
ここだ。
近すぎず、遠すぎず、主の部屋でも客間でもない、まだ名前のない場所の入口。
侍女としては、ずいぶん惨めな立ち位置だと思う。
主の隣でもなければ、背後でもない。
最初に触れる手でもない。
最後に布を掛ける役でもない。
でも今は、その惨めさが役に立つ。
半歩外にいるからこそ、まだ足せるものと足してはいけないものが見える。
その程度の役目でいい。
いや、その程度でなければ駄目なのだ。
外で風が鳴る。
白布は揺れるが、大きくは鳴らない。
誰も見ていない朝が、まだ辛うじて続いている。
わたくしは前の影の痕が消えたこと、北影の入口に布と水が通ったこと、温石が近すぎないこと、その全部を一つずつ確かめた。
それからやっと、胸の内側でひどく遅れていた安堵が、小さく息をした。
これなら、もう少しだけ保つ。
少なくとも、誰か一人の部屋にはならずに済む。
主はまだ戻っていない。
それを認めるのは痛い。
だが、戻っていないからこそ守れるものがある。
わたくしが今整えているのは、帰還の寝床ではない。
未確定のまま留まるための、ひどく控えめな部屋だ。
侍女の手つきで、侍女の成功を消していく。
そんな朝が来るなんて思わなかった。
けれど、もしシオン様が今のわたくしを見たら、きっと笑って `それでいいわ` と言う気がした。
優しくではなく、少し寂しそうに。
その想像だけを、わたくしは胸の底へ沈めた。
口にはしない。
ここで言葉にした瞬間、それもまた形になる。
だから今日のわたくしは、呼ばないまま、触れないまま、でも部屋だけは整える。
それが半歩外の侍女に残った、いちばん苦くて、いちばん正しい仕事だった。
帝国暦849年。冬。
ミナは、カイルが `次の影` へ通したあとの北影で、侍女としての古い正しさと戦いながら、`温石を近づけすぎない`、`水を渡しすぎない`、`前の影の痕を消す`、`白百合めいた欠片を近づけない` という形で、最初の `暮らしすぎない世話` を整えます。彼女は `お嬢様` と呼びたい衝動を噛み潰し、自分の役割を `主を迎える侍女` ではなく `未確定のまま留まれる部屋を整える半歩外の侍女` へ引き直しました。こうして局面は、`保持者側も支えすぎず離れすぎず、自分で選んだ次の影へ未確定のまま定着させる` 段階から、さらに `半歩外の侍女が次の影での寝床と生活線を整え、未確定のまま留まれる部屋を作る` 段階へ進んだのです。
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