第104話:左の手すり、北影の四歩 【カイル】
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朝が来ているはずなのに、朝らしい音がしなかった。
鳥もいない。
鐘も鳴らない。
誰かが「異常なし」と怒鳴る声も、交代の靴音も、見張りが咳払いする気配もない。
白布の向こうでは人が動いているはずだ。
それなのに耳へ届くのは、布が乾いた息みたいにわずかに鳴る音と、温石のひび割れに水が落ちる小さな音だけだった。
気味が悪い、と思う。
静かだから安心できる、なんて性分じゃない。
泥街で荷を運んできた人間にとって、静かすぎる路地はたいてい「まだ見えていない何かが待ってる」の意味だった。
酔っ払いの喧嘩ならまだましだ。
怖いのは、全員が息を潜めてこっちを見てる時だ。
なのに今朝の `伏せ床` は、その「見られている」感じだけが妙に薄い。
外に人がいる気配はある。
けれど、目がない。
少なくとも、こっちを突き刺してくるような目は。
昨日までの俺なら、それをありがたがる余裕もなかったと思う。
右が熱くて、痛くて、剣が勝手に脈打って、誰かに触れれば何かが壊れるかもしれないって話を聞かされて、正直それどころじゃなかった。
でも今は、分かる。
外の連中は本当に `見ない` ほうへ寄っている。
見ていないふりじゃない。
見たくても、見るなと言われて、腹の底で歯噛みしながら、それでも目を外へ向け続けている。
嫌な大人のやり方だ。
けど、その嫌さがなければ、ここまで来られなかった。
俺は息を吐き、右腕ではなく左の指をゆっくり開いた。
まだ少し痺れている。
でも痺れ方が違う。
前は `支えろ` と命令されているみたいな重さだった。
今の左は、ただそこに置いておくための重さだ。
握るためでも、引くためでもなく、必要なら借りられるように残しておくための重さ。
慣れない。
いや、むしろ慣れたやり方と真逆すぎて、身体のほうが嫌がる。
荷を運ぶ時の腕っていうのは、もっと露骨だ。
落ちそうなら抱える。
崩れそうなら肩で押し込む。
それで形が崩れても、中身より先に運び切ることを考える。
泥街じゃそうしないと荷も自分も食われる。
けど、ここでそれをやったら駄目だ。
抱えた瞬間に、たぶん `誰を抱えたか` が決まる。
決まったら終わる。
その理屈だけは、頭じゃなくて身体のほうにまで、やっと少し染みてきた。
白布の影の奥で、銀髪がわずかに揺れた。
三位一体の少女は、まだ完全には起き切っていない。
眠ってもいない。
金の目だけが先に光を拾い、けれどその奥で、別の二人の気配が呼吸の遅さとか、翼を畳む間とか、そういうところに残っている。
誰か一人、とは言いきれない。
言いきらないで済んでいる。
そこが今の全部だ。
ミナが半歩外から水差しの位置をずらした。
音は立てない。
白布の端を指先で整え、そこから先へは出ない。
セトは観測石を膝の上に乗せたまま、何度目か分からないくらい面倒くさそうな顔で北の白みを見ている。
あいつの面倒くさそうな顔は、だいたい本気の時だ。
「カイル」
小さい声で呼ばれた。
「あんまり先に出すなよ」
俺は左手を見たまま答える。
「分かってる」
「分かってなさそうな顔してる」
「うるせえ」
セトは鼻で笑った。
その音が、今朝は妙にありがたかった。
誰かがいつも通りにうるさいってだけで、こっちも自分のままでいられる。
「次の影、まだ生きてる」
セトが言う。
「でも、お前が先に通すな。あっちが選ぶまで、ただ残しとけ」
ただ残しとけ。
簡単に言う。
けど、その「ただ」がいちばん難しい。
三位一体の少女が、ゆっくりとこちらを向いた。
金の目だ。
でも、前より少しだけ強すぎない。
水を通したあと、三歩を踏んで、自分で布影を選んだあとだからか、見る、ではなく測る目になっている。
俺は何も言わない。
誰かの名前も呼ばない。
`大丈夫か` とも聞かない。
聞いた瞬間、答えさせることになる気がした。
だから左だけを少し前へ出して、止める。
低く、遠すぎず、近すぎず。
預けたければ預けられる位置。
抱こうと思えば抱けてしまうけど、そうするには自分から意志がいる位置。
三位一体の少女は、その手を見た。
次に、水差しを見た。
それから北側の白布の影を見た。
順番まで見えているみたいで、少し怖い。
こっちの段取りなんて大したもんじゃない。
水をどこへ置くか、布をどれだけ下げるか、誰が何歩引くか。
そういう小さい工夫の積み重ねだ。
でも目の前の存在は、その小ささごと全部受け取って、しかもその先を選ぼうとしている。
事故みたいに剣を持たされた俺なんかより、よっぽど肝が据わっている。
「……いく」
声は細かった。
誰の声かは分からない。
金の目に引かれているのに、その音の底には別の湿りも、もっと柔らかい数えも混じっている。
セトが観測石から顔を上げずに言う。
「四歩まで。欲張るなよ」
「誰に言ってる」
「全員に」
その時、白布の外で、ごく低く板蝋が鳴った。
二度。
昨日までなら、その音だけで身体がこわばったと思う。
教会側の合図なんて、ろくなものじゃない。
けど今は違う。
あれは `外を見ろ` の音だ。
こっちを見るな、そっちを向いてろ、という音だ。
本当に変な朝だ。
三位一体の少女が最初の一歩を出す。
運ばれない。
誰の腕にも持ち上げられない。
それでも危なっかしい。
足元はまだふらついていて、白布の影と石の冷えに身体が追いついていない。
だから左を残す。
押し出さない。
引かない。
指先が、俺の手首に触れた。
軽い。
なのに、その軽さの中に三人ぶんの様子見が入っている。
貸していいか。
借りても偏らないか。
ここで掴んだら `誰か一人の手` にならないか。
そんなことを確かめられている気がして、喉の奥が渇いた。
「……いい」
それも誰の声か分からなかった。
けど、許されたんだとは分かった。
一歩。
次の一歩で、床の凍りが少しだけ高くなっていた。
つま先が滑り、片翼の黒い泥が白布の裾をかすめる。
俺は反射で腕を引き寄せかける。
その瞬間、右がずきりと脈打った。
灰色の剣の痛みは、熱いというより、遅れて噛んでくる感じだ。
忘れた頃に奥歯へ来る痛みみたいに、身体の中心をずらしてくる。
右が「やれ」と言った気がした。
持て、抱えろ、落とすな、と。
違う。
今それをやると壊れる。
俺は歯を食いしばって、左の位置だけを下げた。
抱くんじゃなく、滑る先を作る。
ミナが布端をほんの少し持ち上げる。
触るのは布だけ。
身体には触れない。
でもそれで十分、翼が引っかからずに済む。
「二」
セトが数える。
数えられると、逆に落ち着く。
何歩あるか分からない坂のほうが怖い。
四歩まで、と決まっているなら、三歩目で死なないように踏ん張ればいい。
二歩目が通る。
三歩目は、いちばんきつかった。
北から入る影は、白布が低いぶん、身体を少し折らないと通れない。
折る、ということは寄るということだ。
寄れば、こっちの胸や肩が近くなる。
近くなれば、抱き込む形にすぐ変わる。
俺はそこで初めて、自分が怖がっていたのは痛みじゃないと気づいた。
右の熱でも、教会の視線でもない。
近い場所にいながら、選ばれないことが怖かったんだ。
情けない。
本当に情けないと思う。
英雄でも聖女でも魔王でもない、運び屋の俺が何を言ってるんだって話だ。
でも分かってしまった。
棚とか手すりとか、そういう都合のいい言い方でごまかしていても、結局俺は「役に立った」と思いたがっていた。
抱えて助けたかった。
誰が起きたのか、誰が俺を見たのか、少しくらい決まってほしかった。
でも今のこいつに必要なのは、そうじゃない。
俺が選ばれることじゃない。
選ばなくて済むことだ。
それが分かった瞬間、三歩目の置き方も変わった。
左をほんの少し引く。
近づけるんじゃなく、逃がす。
自分の手首から先へ、体重を預けたままでも自分の足で出られる角度を空ける。
三位一体の少女は、その空いたぶんだけ、自分で前へ出た。
「……うん」
小さな吐息。
それが誰の安堵かは分からない。
けど、たぶん一人分じゃない。
三歩。
白布の向こうで、また板蝋が一度鳴る。
外はまだ見ないでいてくれる。
ラザルだかヘルマンだか知らないが、本当に嫌な大人たちだと思う。
でも、その嫌さに今は助けられている。
四歩目の前で、三位一体の少女は少しだけ止まった。
北の影は、前の布影より深い。
光が細く、温石の熱も遠い。
そのぶん、誰かの輪郭も乗りにくい。
ここを選ぶのか。
金の目が、もう一度だけこちらを見る。
問いじゃない。
確認だ。
俺はうなずかなかった。
うなずくと、許可した形になる気がした。
代わりに左を横へずらし、手すりの終わりを作る。
ここから先は、自分で決めろ、の形。
三位一体の少女は、その終わりを見た。
それから、最後の半歩を自分で踏む。
四歩。
北影へ入る。
白布が少しだけ落ち着き、温度が変わった。
深くはない。
けれど前の場所より、確かに人の意味が薄い。
そこへ、誰にも運ばれないまま座る。
片翼の泥が石に沿って畳まれ、銀髪が肩から滑る。
水差しは手を伸ばせば届くが、勝手には触れない位置にある。
ミナは半歩外。
セトはまだしかめ面のまま。
俺の左だけが、行き場を失って少し浮いた。
前なら、ここでつい肩でも抱いただろう。
座りきるまで支えたくなっただろう。
けど、もうそれはしない。
どうするべきか迷っていると、三位一体の少女が自分から俺の袖口をつまんだ。
ほんの少しだけ。
預かりっぱなしにするんじゃなく、まだ近くに置いていい、くらいの弱い力で。
「……まだ」
また、その言葉だけ。
俺は喉の奥で笑いそうになった。
笑う場面じゃないのは分かってる。
でも、ようやく俺にも分かる言葉が来た気がした。
`まだ`。
それで十分だ。
完全に離れろでも、もっと寄れでもない。
決めるな、でも消えるな。
その程度の役目なら、たぶん俺にもできる。
「分かった」
俺は答える。
今度は余計な言葉を足さない。
`大丈夫` も `任せろ` も言わない。
そんな大層なことを言える立場じゃない。
ただ左を石の上へ置き、必要ならまた借りられる高さだけ残す。
棚でも、抱擁でもない。
手すりより、もう少しだけ遠い何か。
名前は付かない。
付かないままでいい。
外から風が抜ける。
白布は鳴らない。
本当に誰も見ていないのかもしれないし、見ていても見ないふりが上手くなっただけかもしれない。
どっちでもいい。
少なくとも今は、次の影まで来られた。
右は相変わらず痛む。
灰色の剣は何も解決していない。
俺だって立派な保持者にはほど遠い。
ちょっと気を抜けば、また抱え込みたがる。
役に立った顔をしたくなる。
でも、そのみっともなさごと分かったうえで、やらないほうを選べた。
今朝の四歩で変わったのは、たぶんそこだ。
英雄みたいに救ったわけじゃない。
聖職者みたいに導いたわけでもない。
ただ、落ちないようにして、抱かないようにして、自分で選ぶ余白を渡した。
泥街の運び屋にできるのは、それくらいだ。
けど、今はそれで足りる気がする。
セトが観測石から顔を上げずに言った。
「止まったな」
「ああ」
「しばらくはそこでいい」
ミナが小さく息を吐く。
白布の向こうはまだ静かだ。
俺は北影の浅い暗がりを見た。
そこにいるのは、誰か一人じゃない。
まだ決まりきらないまま、でも前の影よりは少しだけ自分たちの足で居場所を選べる何かだ。
それを見て、やっと肩の力が半分だけ抜けた。
全部は抜けない。
抜けるほど偉くも慣れてもいない。
それでも、前より少しだけ、近くにいながら邪魔をしないやり方が分かった。
朝はまだ終わっていない。
光も、権力も、後からいくらでもやって来るだろう。
でも今この瞬間だけは、誰にも運ばれず、誰にも決められず、北の影へ移れた。
その事実だけを、俺は左の痺れの中で確かに覚えていた。
帝国暦849年。冬。
カイルは、ラザルたちが作った `見ない持ち場` の静けさの中で、自分の `左` を `棚` からさらに `手すり` へ引き直し、三位一体の少女が `次の影` を選ぶための四歩を支えます。彼は `抱けば決まる` ことへの恐れと、自分が `役に立った` と感じたがるみっともなさを自覚したうえで、それでも `近くにいながら選ばない` 形を選び、三位一体の少女を誰にも運ばせないまま北影へ通しました。こうして局面は、`教会の現場線が遅参、視線、噂をさばきながら、次の影への移りそのものを見なかったことにして通す` 段階から、さらに `保持者側も支えすぎず離れすぎず、自分で選んだ次の影へ未確定のまま定着させる` 段階へ進んだのです。
お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!




