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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第103話:遅参の靴音、北影へ渡す沈黙 【ラザル】

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朝が白みきる少し前になると、私は敵襲より遅参の味方のほうを警戒する。


敵は最初から壊しに来る。

だからこちらも壊されない形を取れる。

だが遅れて来る味方は、たいてい善意と正しさを持ってやって来る。

交代のため、報告のため、念のための確認のため。

そういうまともな理由をぶら下げて現れた連中が、いまの `伏せ床` にはいちばん厄介だった。


尾根下から、乾いた鉄の鳴りが上がる。

凍った石を踏む靴底の音。

革紐に下げた板蝋が、腰のあたりで小さく打ち合う音。


遅着の持ち場更新組だ。


私は息を吐いた。

嫌な時間に来た、としか思わない。


ヘルマンが `北影を閉じるな` と言った時点で、この朝はもう普通の交代ではなくなっている。

白布の向こうにあるものを見せないだけでは足りない。

それを見なかったまま、見ていない者まで現場に置き、見た者の話を薄め、語彙を削り、意味が固まる前に朝をやり過ごす。

そこまでやって初めて、ようやく `通せるかもしれない` という段階だ。


なのに新しい目が入ってくる。

しかも夜勤より疲れておらず、まだ自分の正しさを使い切っていない連中が。


「北東線、交代要員六」


トビアが白布の外から低く告げた。

声は平らだが、眉間が少しだけ深い。

あいつも分かっている。

いま欲しいのは人手ではない。

減った視線のままだ。


「尾根下で止める」


私は短く返し、布杭の列を離れた。


白布の向こうは見ない。

見ないと決めた以上、本当に見ない。

だが見ずとも分かることはある。

風の流れがさっきより北へ抜けている。

布端の軽さが違う。

ミナの水差しが、白布から半歩だけ遠い場所へ置き直されている。

カイルの `左` も、背負うための位置ではなく、並んで滑らせるための `手すり` として残っている気配があった。


もう、内側は次の影を選び始めている。

こちらがそこで一つでも余計なことをすれば、朝の白みと一緒に全部固まる。


尾根下まで降りると、六人の遅着組がこちらを見た。

補助司祭が二人、若い騎士が三人、古株の板蝋係が一人。

朝の冷気より先に、彼らの顔に乗った「何があったんだ」という熱が立っている。

嫌になる。

夜を知らない顔だ。


「交代命令です」

先頭の補助司祭が板蝋を差し出した。

「北一、東二、南端補助。夜番はここで解くようにと」


私は受け取らずに言う。

「今日は解かん。お前らは尾根下で止まれ」


若い騎士の一人がすぐに眉を上げた。

「ですが、持ち場更新は」


「凍結だ」


「理由は」


「反射」


それだけ言うと、三人とも露骨に怪訝そうな顔をした。

当然だ。

言葉が足りない。

だが足りないままにしておくのが今日の仕事だった。


「北側の白みが強い。布の角度を変えている最中だ。余計な影が入ると手順が崩れる」

私は板蝋係の老人を見た。

「記録はどう取る」


老人は少し迷ってから答える。

「位置、布、反射」


「そうだ」

私はうなずく。

「それ以外は記録するな。言うな。聞くな」


若い補助司祭がたまらず口を挟んだ。

「しかし、ここは異常案件の現地でしょう。何が起きているか把握しなければ」


私はそいつを見た。

まだ頬に夜勤の赤みすらない、立派な正しさの顔だった。


本来なら、私もそちら側に立つ。

現場では何が起きたかを把握し、誰がどう動いたかを記し、不浄か奇跡かを切り分け、上に上げる。

それが教会の手順で、それを覚えるために何年も靴底をすり減らしてきた。


だが今朝だけは、その全部が刃になる。


「把握してどうする」

私は静かに問う。


「上申し、適切な封鎖と保護を」


「名を付ける」

私は言った。

「そうだろ」


補助司祭の喉が止まる。


「英雄帰還だの、異端覚醒だの、保護対象だの、危険物だの。言い方は何でもいい。だが名前にした瞬間、次はそれに合う手順が降ってくる」

私は板蝋を握る手を見せた。

「いま降ってきて困らない手順なら、好きに呼べ」


誰も何も言えない。


困るに決まっている。

私ですら分かる。

いま白布の向こうにあるのは、回収されるべき異端でも、祀られるべき奇跡でもない。

少なくとも、そんな一語に畳んだ瞬間に壊れる何かだ。

だからヘルマンは語彙を殺した。

だから私たちは、夜のあいだじゅう `見ない` を叩き込まれた。


「お前たちは尾根下で杭数を数えろ」

私は続ける。

「東は布四、南は布三、北は二。数え終えたら凍り割れの線を拾え。西の石場には行くな。北は目を上げるな。白布の高さだけ見ろ」


「それは現認ではなく……」


「持場確認だ」

私は言い切った。

「今日はそれで足りる」


若い騎士のひとりが、口の端で不満を噛みしめた。

あの顔は知っている。

何かを見たがっている顔だ。

自分が到着した朝に、自分の目で重大なものを確かめたい顔。

うまくいけば武功、だめでも経験談になる。

誰にでもある。

私にもあった。


だからこそ厄介だ。


「ラザル殿」

別の騎士が、少し遠慮して言った。

「中に負傷者がいるなら、温石や湯は近いほうが」


「近すぎる」


「しかし」


「近づけば、配る手になる」

私は言う。

「いま要るのは、足す手じゃない」


そいつは理解していない顔で黙る。

理解しなくていい。

理解したがること自体が、今朝は毒だ。


トビアが布列の向こうで、板蝋を二度、軽く鳴らした。

合図だ。

南側にわずかな緩みを作る、という昨夜決めた符牒。

私はすぐに若い騎士二人をそちらへ回した。


「南布三枚目、裾が凍り付きかけてる。直せ」


「北ではなく?」


「北は反射が強い」


嘘ではない。

だが本当でもない。

本当の理由は、いま北へ目と靴音を寄せたくない、それだけだ。


騎士たちが南へ散った瞬間、尾根上から新しい風が抜けた。

白布が一度だけ、息のようにふくらむ。


私は見ない。

見ないまま、見えるものだけ数える。

北の布二。

支柱三。

反射、弱。

水差し、半歩。


その時だった。

さっきから不満を噛んでいた若い騎士が、白布の膨らみに肩を向けかけた。

ほんの一瞬、首が北へ切れた。

何か聞こえたのだろう。

布を擦る音か、小さな靴裏か、あるいは誰かの吸い直した息か。


私は反射でそいつの胸甲を押した。

ご、と鈍い音がして、若い騎士が半歩だけ後ろへ滑る。


「持場を見ろ」


「今、中で」


「だから見るな」


強く言いすぎた。

だが引っ込めない。


若い騎士は顔を赤くした。

「見なければ守れません」


「見た瞬間に守れなくなるものもある」


私は自分でも驚くくらい低い声で言った。


「お前がいま振り向けば、それは `見た` になる。見た話は報告になる。報告は命令になる。命令は、あれを一つの名前へ押し込む」

私は白布ではなく、そいつの喉元だけを見た。

「今日の仕事は、守ることですらない。決めないことだ」


若い騎士の目が揺れる。

怒りか、屈辱か、恐れか。

たぶん全部だ。


私だって好きでこんなことを言っていない。

本当はもっと簡単な朝がいい。

異端なら異端、保護対象なら保護対象、敵なら敵と、刃の向きが最初から決まっている朝のほうがよほど楽だ。

だが白布の向こうのものは、昨夜からずっとその楽な二択を拒み続けている。

だからこちらも、嫌なやり方を覚えるしかない。


板蝋係の老人が、小さく咳払いした。

「記録は」


私はようやく手を離し、そちらへ向く。


老人は空の板蝋を差し出していた。

見出しを書け、ということだ。


私は受け取り、鉄筆を置く。

ほんの少しだけ考える。


ここで余計な言葉を足せば、それが昼には命令書の骨になる。

逆に削りすぎれば、後から現場が勝手に意味を補う。

だから、ぎりぎりまで乾かす。


私は板蝋に刻んだ。


`北二、布低、反射弱`


それだけ。


老人が読んで、目だけでうなずく。

若い補助司祭は不満そうだ。

だが文句は言えない。

いまこの板蝋が、教会の朝に残る唯一の `事実` になる。

空疎で、卑怯で、だが刃になりにくい事実だ。


また白布が鳴った。

今度はもっと小さい。

鳴ったというより、重みが移っただけに近い。


ミナの影が、半歩だけ北へずれた。

水差しは鳴らない。

布も大きくは擦れない。

それでも分かる。

通ったのだ。

白布の `薄い廊下` を、あれは実際に使った。

誰かに運ばれたのではない。

白布の向こうで、誰か一人に決めきられないまま、北の影へ移った。


私は喉の奥で歯を食いしばった。

見ていない。

見ていないはずだ。

だが、現場で長く飯を食っていると、見ないまま知ることだけが増えていく。

嫌な仕事だと思う。

そして、教会向きの技能だとも思う。


「南、終わりました」

騎士が戻ってきた。


「そのまま尾根下へ戻れ。北は見るな」


「しかし交代は」


「本日はなし」


私は言い切った。


「お前たちは `到着したが見ていない組` になれ。それがいま一番役に立つ」


意味の分からない命令だろう。

だが、ようやくそれでいい。

全員が意味を理解し始めたら、この朝はまた別の物語にされる。


若い騎士はまだ納得していない顔だった。

それでも、もう北を見ない。

見なかったまま踵を返す。

それで十分だ。


私は尾根上へ戻り、白布の列をもう一度だけ確かめた。

ヘルマンが少し離れた位置で、外だけを見て立っている。

私と目が合う。

問いは口にしない。


私は答えない。


代わりに、板蝋を一枚だけ持ち上げて見せた。

`北二、布低、反射弱`


ヘルマンはそれを見て、何も言わず視線を外した。

それで終わる。


良かったのかは分からない。

正しかったのかも知らない。

ただ、朝の教会が得意なのは、いつだって `何があったか` を言葉にしてしまうことだった。

なら今朝だけは、その逆をやるしかない。

何もなかった形で、誰にも運ばせず、誰にも決めさせず、次の影まで通す。


救済でも慈悲でもない。

ただ少しだけ、壊す速度を遅らせるための実務だ。


私は北の布端を見ない。

尾根下の持ち場だけを見た。

若い連中は外を向き、老人は空欄の多い板蝋を抱え、南の布はわざと少しだけ低く保たれている。


それで十分だった。

見たい者を外へ向けておけば、内側は半歩ぶんだけ生き延びる。


今朝、私が守ったのは異端でも奇跡でもない。

ただ、誰にも見せないまま渡すための、ひどく薄い沈黙だった。


帝国暦849年。冬。

ラザルは、ヘルマンの `北影を閉じない黙許` を現場の実務へ落とし込み、遅参した交代要員を `到着したが見ていない組` として尾根下へ留め置き、`持場確認` と `位置` `布` `反射` の三語だけで朝の手順を回します。若い兵の `見たい` という衝動も押さえ込んだことで、白布の `薄い廊下` は実際に機能し、局面は `教会の制度側までが次の影への移りを見せずに黙許する` 段階から、さらに `教会の現場線が遅参、視線、噂をさばきながら、次の影への移りそのものを見なかったことにして通す` 段階へ進んだのです。

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